2009年12月12日

【番外】富士川渡船への道 後編

上往還と中往還を歩いたので、次は下往還です。
下往還は既に吉原から岩淵へ向かう時に歩きましたが、
改めて渡船場へ続く部分を歩いてみます。

下往還即ち県道396号を富士川に向かって歩くと、
富士川橋の80m程手前に左へ入る細い道があります。

富士川橋手前の左へ入る道
富士川橋手前の左へ入る道

この道から河川敷へ下りて行くことができます。

富士川橋の下へ続く道
富士川橋の下へ続く道

道は富士川橋の下へ潜り込むように続いています。

下船居付近から対岸を望む
下船居付近から対岸を望む

富士川橋の下まで来ました。
下往還の渡船場である下船居はこの付近にありました。
県道396号の左側からここへ来ましたが、右側からも道が通じています。
そちらの道を上っていくと水神ノ森、水神社の脇に出ます。

水神社
水神社

渡し船はもう無いので富士川橋で対岸へ渡りましょう。
前にも言いましたが、富士川橋は6連のトラス橋です。
1924年(大正13年)に架けられ、
1988年(昭和63年)に右折レーンを設けるため西側2連が架け替えられました。
古い部分も新しい部分も遠目には同じに見えますが、
近くでよく見ると違いがわかります。

富士川橋の新旧トラス
富士川橋の新旧トラス。奥が大正、手前の太い部材が昭和のトラス。

大正時代のトラスは部材がリベットで組み立てられていますが、
昭和時代のトラスは溶接になっています。
また、トラスの外枠以外の部材を見ると、
大正の方は細い鋼材を組み合わせ、この部材自体もトラス構造になっていますが、
昭和の方は単純な1本の鋼材になっています。

富士川橋の新旧トラス
富士川橋の新旧トラス。左が大正、右が昭和のトラス。

接続部を見ると新しいトラスの方が幅が広くなっているのがわかります。

富士川橋の新旧トラス
新旧トラスの接続部。左が大正、右が昭和のトラス。

富士川橋西詰から上流へ300m、
西岸の渡船場跡から水神ノ森を見るとこんな感じです。
ここは下往還の他、中往還や富士川水運(鰍沢方面)の船着き場でもあります。
(中往還の方向は目印がないのでよくわかりません)

富士川西岸の渡船場跡から見た水神ノ森
富士川西岸の渡船場跡から見た水神ノ森

そこからさらに上流へ600m、東名高速をくぐった先に
道の駅富士川楽座の駐車場があります。
この駐車場から富士川の上流方向に見える川原の辺りに
上往還の渡船が来ていたようです。

富士川楽座駐車場から上流方向を見る
富士川楽座駐車場から上流方向を見る

富士川楽座の前に富士川渡船のレプリカがあります。
水神社の解説板によれば富士川渡船では
定渡船(じょうとせん)、高瀬船、助役船の3種類が使用されたそうです。
ここにあるのは定渡船だそうですが、船の造りから言えば高瀬舟であり、
富士川渡船の3種類の船の違いは不明です。
定渡船は一般の旅行者が乗る普通の船のようです。

富士川の定渡船
富士川の定渡船

この船は長さ5間4尺(10.3m)、幅5尺2寸(1.58m)、深さ2尺(60.6cm)、
乗客は30人程度、牛馬は4頭を運ぶことができます。
船頭は何と5人掛かりで、しかも片道で交代しました。
船頭多くして船山に上ると言いますが、急流の富士川渡船の船頭は
山に登る程の重労働だったことでしょう。
当番船3艘、附船3艘の6艘が用意され、平日は当番船のみを使い、
需要に合わせて附船も使われました。
急流の富士川では船の傷みも早く、毎年3艘が新造され当番船に使われました。
即ち定渡船の寿命は、フル稼働1年、予備1年の計2年ということになります。
建造費用は全て幕府が負担しました。

江戸時代初期には、渡船の業務は西岸の岩淵村が行っていましたが、
交通量の増加に伴い業務が拡大したため、
寛永10年(1633年)から業務の3分の1を東岸の岩本村が行うようになりました。
この体制での運営は明治4年(1871年)まで続き、
その後は自由営業の渡船が大正13年(1924年)の富士川橋竣工まで続きました。

以上、富士川渡船の名残を追ってみました。

07:02 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年12月11日

【番外】富士川渡船への道 前編

東海道の富士川東岸部分は江戸時代中期に上・中・下の各往還に分かれました。
既に現在の富士川橋に通じる下往還を通って富士川を渡りましたから、
上往還と中往還も見てみましょう。
旧東海道である県道396号がJR身延線と交差する所に柚木駅があります。
ここから西へ160m進んだところに橋下(はしした)交差点があります。

橋下交差点
橋下交差点。右の細い道が上往還と中往還。左の広い道が下往還(富士川橋方面)。

ここは旧東海道(県道396号)と南北方向の道が交差し、
さらに細い道が2本出ている六叉路です。
旧東海道を東から歩いてくると右前方へ分岐する細い道があります。
これが上往還と中往還です。
上往還と中往還は富士川の堤防を越えるまで同じ道です。
道幅は広くありませんがこれでも県道です。

上往還・中往還の始まり
上往還・中往還の始まり。静岡県道176号鷹岡柚木線。

この静岡県道176号鷹岡柚木線は、
身延線柚木駅の3つ先、富士根駅へ通じています。

橋下交差点から420mの所で県道176号は右へ分かれていきますが、
上往還・中往還は直進です。

県道と上往還・中往還の分岐点
県道と上往還・中往還の分岐点

分岐点の近くに常夜灯の残骸らしき物がありました。

常夜灯の残骸
常夜灯の残骸

道なりに進むと堤防が見えてきます。

間もなく雁堤
間もなく雁堤

この堤防は雁堤(かりがねづつみ)といいます。
折れ曲がった形が、雁が連なって飛ぶ姿に似ているためこの名があります。
江戸時代初期に50余年の歳月をかけて築造され、今も現役です。
富士川橋東詰の水神ノ森から上流へ、
直線距離で2km余りの範囲に造られています。

上往還・中往還は上り坂で堤防を越えます。

雁堤への坂
雁堤への坂

坂の始まりに道祖神がありました。

雁堤の手前にある道祖神
雁堤の手前にある道祖神

雁堤の上は道路になっています。
上往還・中往還はこの道を横切って堤防を越えます。

雁堤の上の道路
雁堤の上の道路。奥に見える赤い線は東名高速道路。

雁堤を越えました。この先は農地が広がっています。

雁堤を越えた所
雁堤を越えた所

そして、事前に入手した上往還・中往還の地図と周囲の地形から判断すると、
どうやら堤防を越えてすぐのここが上往還と中往還の分岐点のようです。

上往還と中往還の分岐点
上往還と中往還の分岐点

分岐点から上往還の続く方向を眺めてみました。

上往還
上往還

上往還は前方に見えている東名高速道路の方へ、ほぼまっすぐ続いていました。
この道は畑の中を通り抜けていて、歩いていいものかどうかよくわからないので、
別の道を通ってこの道の先へ行ってみました。

上往還の終点
上往還の終点

上往還をちゃんと歩くと170m程でやや車の通りの多い道にぶつかります。
そこから先は農地で、道はなくなっています。
(農地へ入って行く道はありますが上往還ではないようです)
残念ですが上往還はここで終わりです。

では分岐点に戻って、今度は中往還を歩きましょう。

中往還
中往還

みかん畑や茶畑の中を抜けて行きます。

中往還
中往還

分岐点から250mで、またあの車の多い通りにぶつかります。
そして、中往還もここで終わりです。

中往還の終点
中往還の終点

やはり農地の中へ道は続いています。
しかし、作物の盗難が多いため、この先は農作業者以外立入禁止だそうです。
地図を見ると、現在農地の中を通っている道は、
かつての中往還とは合致しないようです。
中往還はこの写真で見ている方向へまっすぐ続き、
その先に富士川西岸の渡船場がありました。

振り返ったら富士山が見えました。

中往還の終点から見た富士山
中往還の終点から見た富士山

次は下往還の渡船場、下船居の方へ行ってみましょう。

06:13 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年12月 4日

【番外】岩淵の新旧一里塚 後編

郵便局の手前の見落としやすい交差点から続きを歩きましょう。
ここからまた暫く道なりに進みます。
道は途中から上り坂になり、400m程行くと東名高速道路が見えてきます。

坂の上に東名高速道路
坂の上に東名高速道路

東名高速をくぐる手前で振り返ったらまた富士山が見えました。

東名高速の手前から見た富士山
東名高速の手前から見た富士山

東名高速をくぐると正面に「野田山不動明王」と刻まれた大きな石碑があります。
道はここで左右に分かれます。旧東海道は左です。

野田山不動明王の石碑
野田山不動明王の石碑。旧東海道はここを左。

ここを過ぎると道は下り坂になります。
まっすぐな下り坂の先に小池橋という小さな橋があります。

下り坂から小池橋へ
下り坂から小池橋へ

その先は暫く一本道です。集落の中を抜けて行きます。
小池橋から500m程で道が二手に分かれます。

新幹線手前の分岐点
新幹線手前の分岐点

標識には左が蒲原、右が行き止まりと書いてありますが、ここは右へ行きます。
右が行き止まりなのは自動車で、歩行者は通れます。
100m進むと新幹線の線路にぶつかります。
下の方に穴が開いていますが、ここが通路です。

新幹線をくぐる通路の入り口
新幹線をくぐる通路の入り口

とても狭い通路です。十返舎一九や歌川広重が見たら何て言うでしょうかね。

新幹線をくぐる通路
新幹線をくぐる通路

この通路の出口から140m先で、先程分岐した道と合流します。
また集落の中を抜けて行きます。道はいつの間にか上り坂です。
集落の中に明治天皇が休息した事を示す石碑がありました。

明治天皇御駐輦之跡
明治天皇御駐輦之跡

「明治天皇御駐輦之跡」と刻まれています。
駐輦(ちゅうれん)とは聞き慣れない言葉ですが、
天皇が行幸の途中で一時乗り物を止める事だそうです。
ここは何もない場所のように思えますが、
峠の手前ですから昔は茶屋があったのかもしれません。

合流点から400m余りで坂の頂上が見えてきます。

間もなく静岡市
間もなく静岡市

この坂の向こうは静岡市清水区です。富士市内の歩行距離は18.2kmでした。
道の左下には東名高速が通っています。
蒲原はもうすぐです。

06:14 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年12月 3日

【番外】岩淵の新旧一里塚 前編

県道396号は富士川橋で富士川を渡り、旧富士川町の地域に入りました。
橋を渡ると突き当たりの橋西交差点です。
県道396号はここを左折して蒲原へ向かいます。
右折するとここから始まる県道10号です。
静岡県道・山梨県道10号富士川身延線はここが起点で、
富士川沿いに北上し、山梨県南巨摩郡身延町まで続いています。
その先は山梨県道9号、4号、3号につながり、最終的には甲府まで続く道です。

富士川橋西詰め
富士川橋西詰め。奥が県道396号蒲原方面。手前が県道10号身延方面。(後日撮影)

慶長6年(1601年)に始まった五街道整備の際には
ここに日本橋から37里(145.3km)の一里塚が設けられました。
富士川東岸の旧東海道が上・中・下の各往還に分かれており、
それぞれ異なる渡船場に通じていた事は富士川を渡る前に話しましたが、
慶長7年(1602年)に幕府の命により富士川の定渡船が始まった頃は
専ら上往還が使われていたといいます。
このルートはここより約1km上流、現在の東名高速道路付近で富士川を渡り、
富士川西岸を川沿いに通っていました。
37里の一里塚も上往還経由の距離を元に設置されていました。

天和2年(1682年)には下往還が開通し、
先に開通していた中往還と合わせて3つのルートが完成しました。
下往還は上往還に比べて距離が470間(約855m)短くなっており、
正徳元年(1711年)の朝鮮通信士来朝の際に
一里塚が下往還経由の距離を元にした位置にに移転されました。
なお、一里塚移転前の宝永5年(1708年)には
水害のため東海道が高台に付け替えられ、
富士川西岸部分もルートが変わっています。

かつて富士川橋の袂には
一里塚に植えられていたとされる大きなケヤキの木がありました。
2009年6月発行の富士市の広報によると数年前まで残っていたようです。

富士川の西岸からは富士山がよく見えます。

富士川西岸から見た富士山
富士川西岸から見た富士山

富士川橋から川沿いに上流方向へ300m程の所に渡船上り場常夜灯と
角倉了以(すみのくらりょうい)翁の紀功碑があります。
ここが中往還と下往還の、富士川西岸の渡船場跡です。

渡船上り場常夜灯と角倉了以翁の紀功碑
渡船上り場常夜灯と角倉了以翁の紀功碑。対岸は水神ノ森。

角倉了以は京都の豪商で、慶長12年(1607年)、19年(1614年)の二度、
幕府の命を受けて富士川の開削を行い、
ここ岩淵と甲州鰍沢を結ぶ水運経路を整備しました。
東海道と連携し甲州と江戸を結ぶ重要な交通として機能した富士川の水運は、
東京と山梨県が鉄道で結ばれた明治後期まで続きました。

さて、ここで県道10号を渡って高台へ続く坂道に入るのですが、
事前の調査では、資料によって
渡船上り場のほぼ向かいにある坂を上るルートと、
ここから150m下流寄りにある階段を上るルートの2種類がありました。
どちらが正しいのか決め手になる資料が見つからなかったので、
今回は秋葉山常夜灯がある図のようなルートを選びました。

渡船上り場からのルート
渡船上り場からのルート

なお、事前に参照した資料には
今回歩いたようなルートを東海道とするものはありません。
あくまで私が勝手に決めたルートです。

この辺りは狭い道を挟んで住宅が密集しています。

岩淵の集落
岩淵の集落

しばらく行くと一旦視界が開け、県道から上ってくる坂道と合流します。
この上ってくる道は静岡県道188号岩淵富士川停車場線です。
県道と合流した旧東海道はここを右へ曲がり、さらに坂を上ります。

岩淵の坂道
岩淵の坂道

結構急な坂です。旧東海道は上り切った突き当たりを左です。
そこから150m程行くと道がクランク状に曲がっています。
ここが間の宿岩淵の入り口です。
幕府が岩淵に宿駅と同様の街並みを整備するよう命じたのは
五街道の整備開始から5年後の慶長14年(1609年)でした。
富士川橋の袂にあった一里塚跡の所でも少し話しましたが、
岩淵は正保年間(1644年~1647年)からたびたび水害に見舞われており、
宝永4年(1707年)12月から翌年閏正月までの3箇月間で
東海道の付け替えと合わせて川縁からこの高台に移転しています。
実は移転直前には大地震や富士山の噴火による降灰もあり、
まさに踏んだり蹴ったりでした。

クランクから70m程進むと、右手に黒い板塀に囲まれた家があります。
ここが小休本陣常盤家です。

小休本陣常盤家の門
小休本陣常盤家の門

宿場(宿泊可能)にある大名などの宿泊施設である本陣に対し、
間の宿や立場(宿泊不可)にある同様の施設を小休本陣と呼ぶそうです。
常盤家は代々富士川の渡船名主を務めた家です。
いつ頃から小休本陣を始めたかは不明ですが、
寛永年間(1624~1643)には業務を行った記録があるようです。
現在残っている建物は安政3年(1856年)の大地震以降に建てられたものです。

小休本陣常盤家は土・日・祝日のみ一般公開されています。
吉原から蒲原まで歩いた日は平日で見学できなかったため後日再訪しました。

小休本陣常盤家の室内
小休本陣常盤家の室内(後日撮影)

この写真の奥の座敷が、大名などの賓客が休んだ「上段の間」です。
手前の部屋より一段高くなっています。

では、東海道に戻って蒲原を目指しましょう。
常盤家の前で振り返ったら富士山が見えました。

常盤家の前から見た富士山
常盤家の前から見た富士山

常盤家の前から500m程行くと、道の両側に大きな榎の木が見えてきます。
これが富士川の川縁から移転した岩淵の一里塚です。

岩淵の一里塚
岩淵の一里塚(後日撮影)

日本橋からの距離は37里(145.3km)です。
1つ前の本市場の一里塚は35里で、
36里は富士川の所なので一里塚がありません。
ただし、本市場の一里塚から岩淵の一里塚までの距離は
実際に測ってみると5km弱のようです。
かつてこの辺りには名物の栗ノ粉餅を売る茶店が並んでいたそうです。
京都に向かって左の塚の木は1967年に虫害のため枯死し、
1970年に2代目が植えられました。

一里塚の所で道は右に曲がります。
見通しの悪いカーブで、結構車が通るので要注意です。
しかもここを過ぎたすぐ先に富士川第一小学校があります。
親御さんは心配でしょうね。

小学校を過ぎた先で道は左に曲がります。
そこから暫くまっすぐなのですが、
次に曲がる交差点が見落としやすいのでこれまた要注意です。
カーブが終わってから300m余り行くと、道の左に秋葉山常夜灯があります。

目印の秋葉山常夜灯
目印の秋葉山常夜灯

常夜灯から約80m、最初の交差点を右に曲がります。

常夜灯の先
常夜灯の先から京都方面を見る。道路標識の所が交差点です。

ここを右に曲がる
ここを右に曲がる

交差点付近にはほとんど目印になる物がありません。
90m先の郵便局が交差点から見えるので、それを目印にしてもいいでしょう。
せっかくですから郵便局に寄ります。

富士川郵便局
富士川郵便局

富士川郵便局の風景印
富士川郵便局の風景印

富士川郵便局の風景印は
東名高速道路富士川サービスエリア、富士川楽座、富士山です。
富士川楽座は富士川橋西詰めから
県道10号を北へ900m行ったところにある道の駅です。
東名高速上り富士川サービスエリアともつながっています。
今回は年賀はがき(いろどり年賀 もも)を使用しました。

では、東海道に戻りましょう。

05:47 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年9月10日

【十四】富士が見えればそれで吉原 其の五

旧東海道は県道396号に右から合流したと思ったら、すぐ左折して離れます。

旧東海道はここを左折
旧東海道はここを左折

ここから狭い道になります。

県道396号から離れた旧東海道
県道396号から離れた旧東海道

この先に江戸から35里(137.5km)の一里塚跡があるのですが見落としました。

県道から細い道に入って450m、旧東海道は富士本町商店街と交差します。

富士本町商店街
富士本町商店街。画面奥が富士駅方面。
画面左が吉原宿方面、右がこれから向かう蒲原方面。

この交差点を左折し、500m程行くと富士駅です。
隣の吉原駅は1889年(明治22年)、
国府津-静岡間の鉄道(現・東海道本線)開通と同時の開業でしたが、
富士駅は20年遅れて1909年(明治42年)に開業しました。
当時この辺りの地名は富士郡加島村で、
地元からは加島駅とするよう求められていたようですが、
開業時から富士駅とされました。
加島村は1929年に町制を施行して富士町になり、
さらに数回の合併を経て現在の富士市の一部になっています。
富士駅も吉原駅同様貨物列車の発着があり、発送品の半分は紙製品です。

商店街から200m、金正寺の裏の墓地越しに富士山が見えました。
まだまだ富士山は近くに見えます。

金正寺の裏から見る富士山
金正寺の裏から見る富士山

金正寺の墓地の隣はフジホワイトホテルです。
ここは静岡県有数の大地主、松永家の邸宅跡です。

フジホワイトホテル
フジホワイトホテル

江戸時代末期には、周辺六箇村の年貢をとりまとめる業務を
領主に代わってこの松永家が行っていました。
ここは間の宿岩淵と吉原宿の中間に位置し、
明治元年の明治天皇東幸の際には松永邸が小休所として使われました。
当時の建物の一部は富士市立博物館で保存されています。
また、このすぐ先には高札場跡があり、
「札の辻橋」という橋の名に今も名残を留めています。

フジホワイトホテルから800mの所で旧東海道は県道396号に合流します。

県道396号に合流
県道396号に合流

すぐ先に見えるガードは身延線です。

身延線のガード
身延線のガード

身延線は富士駅から山梨県の甲府駅へ延びるJR東海の路線です。
もともとは富士身延鉄道という私鉄の路線で、
1913年に富士-大宮町(現・富士宮)間が開通。
その後順次延伸され、1928年に甲府までの全線が開通しました。
1938年に鉄道省(後の国鉄)に借り上げられ、
1941年には買収されて鉄道省の路線になりました。

以前は身延線の列車は富士駅から東向きに出発し、
ここよりもっと手前、富士郵便局の近くで県道396号と交差していました。
それが1969年のルート変更で西向きに出発するように変わり、
現在の位置で県道396号と交差するように変わりました。
その理由は、東京方面(即ち東側)から来た創価学会のチャーター列車が
向きを変えずにそのまま身延線に入り富士宮まで行けるようにするためだった、
という説があるそうですが、真偽の程は定かではありません。
身延線は当時から静岡方面(西側)との直通列車が毎日走っていたのですから、
東側から来る臨時列車に合わせて線路を直すのも不自然な気がします。

身延線が県道396号を跨ぐ所には柚木駅があります。
柚木駅の所から北の方を見たら、また富士山が見えました。

柚木駅の所から見た富士山
柚木駅の所から見た富士山

柚木駅から150m、橋下(はしした)交差点で県道176号が右へ分岐します。
さらに150m先の交差点で細い道が右へ分岐します。
この細い道が旧東海道です。

旧東海道分岐点
旧東海道分岐点

ここに常夜灯と道標があります。

常夜灯と道標
常夜灯と道標

沼津宿の手前、清水町に常夜灯があり、
その時「この先しばらく同様の常夜灯が数多く見られる」と言いました。
面倒なのでいちいち話題にしなかったのですが、
覚えているだけでも富士市に入ってこれが4つ目くらいです。
残念なことに火袋の部分が失われており、灯籠の用を為しません。
(もっとも用を為しても実際に使うことがあるかはわかりませんが)
竿の部分には「秋葉山」と刻まれていますが、
富士市内で見た物はだいたいそう書かれているようです。
また、「慶應元年 五月吉日」とも書かれています。
慶應元年と言えば明治維新の3年前です。
既に徒歩による旅行も末期のように感じられますが、
この地に鉄道が来るのは24年後の明治22年(1889年)です。
明治時代の前半はまだまだ近世から近代への移行期ですね。

隣の道標には「左東海道」と刻まれています。
ただし、この道標は道路整備の際に本来の場所からここに移動されており、
実際は右の道が旧東海道です。
(元はどこにあったのでしょう)

ここから暫くは特に何もない道です。
県道から離れて車の通りも少なく、のんびりした気分で歩けます。

県道から離れてのどかな道
県道から離れてのどかな道

常夜灯と道標があった場所から400m余り、また県道396号に戻ります。

県道396号に戻る
県道396号に戻る

横断歩道に取り付けられた標識に静岡36km、富士川3kmとあります。

県道を450mくらい進むと明治天皇御小休所址の碑があります。

明治天皇御小休所址碑
明治天皇御小休所址碑

解説によると、明治天皇は明治11年11月6日、
東海北陸巡幸の際にここで休憩したそうです。
当日に備えて様々な準備が行われ、
「富士川橋梁の架替」も行われたと記されています。
明治に入ると富士川にも仮橋が架けられますが、
富士川は東海道随一の急流であり、雨期には流されてしまい、
従来からの渡船と併用されていました。
長持ちしない仮の橋なら真っ新な橋でお迎えしようということでしょう。

100m先にはもう富士川橋が見えていますが、
明治天皇の石碑のすぐ先に左へ入る細い道があります。
私が持ち歩いているガイドブックの地図では、
この道の先にかつての船着き場があったように描かれています。
河川敷へ下りられそうなのでちょっと行ってみましょう。

富士川橋
富士川橋

富士川橋が見えます。この写真では東側1連が見えていませんが、
下路曲弦プラットトラス6連の堂々たる鉄橋です。
それまでの仮橋に替わって1924年に架けられました。
西側2連の桁は東側4連に比べ幅が広くなっています。
元は同じ幅だったのですが、この橋を西へ渡った先がすぐ交差点なので、
桁の幅を広くして橋の上に右折レーンを設けたのだそうです。
この幅が広い部分の桁は1988年に架け替えられた物です。
戦後のトラス橋は桁の上部が路面と平行の平行弦トラスが多いのですが、
富士川橋の架け替え部分は大正時代の部分に合わせたのか曲弦トラスです。

さて、ガイドブックの地図を信じるならこの辺りに渡船場があったことになります。

富士川橋の袂、水神ノ森にある神社の解説板によれば、富士川東岸の渡船場は
上船居、中船居、下船居の3箇所を川瀬の状況により使い分けていたそうです。
3つの渡船場は「松岡地内の一番出しから川下二十町の間」にあり、
それぞれの渡船場へは上、中、下の各往還が通じていたといいます。
下船居は水神ノ森付近にあったそうですから、
今歩いて来た道は下往還ということになります。
ガイドブックの地図は一応間違っていないみたいですが、
上往還と中往還については記述がありません。

また「松岡地内の一番出し」がどこなのか不明ですが、20町は約2.2kmです。
後でこの付近の地図を見てみると、富士川橋から上流へ1kmと2kmの辺りへ
旧東海道からそれぞれ道筋が伸びているように見えます。
ただし、これが中往還と上往還なのかは未確認です。

それでは富士川橋を渡りましょう。

富士川橋東詰
富士川橋東詰

道の左側にある大きな柱は、1924年の富士川橋竣工時に立てられていた物です。
1988年に西側2連を架け替えた際に低い柱に替えられたようです。
上流側の脇に独立した歩道があるので自動車の通行が多くても安心して渡れます。

富士川橋からも富士山が見えました。

富士川橋から見た富士山
富士川橋から見た富士山

富士川の西は以前は庵原郡富士川町でしたが、
2008年11月1日に富士市に編入されました。
もともとは近年まで庵原郡に残っていた蒲原町、由比町との間で
合併交渉が行われていたのですが、
富士地区との繋がりが深い富士川町は富士市への編入を選びました。
余談ですが、山梨県南巨摩郡増穂町と鰍沢町が
2010年3月に合併して富士川町になるそうです。

次の宿場は蒲原ですが、その前に間の宿岩淵を通ります。

07:26 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年9月 9日

【十四】富士が見えればそれで吉原 其の四

前回は吉原商店街を最後まで通り抜けましたが、
今回は商店街終点の600m手前、静岡銀行の所を左に曲がります。
ここには目印となる木製の柱があります。

旧東海道が商店街から出る場所の目印
旧東海道が商店街から出る場所の目印

江戸34里、原宿3里、蒲原宿3里、京都90里と書かれています。
まだまだ先は長いですね。
商店街は広い道でしたが、
旧東海道はここから車道にセンターラインも無い狭い道になります。

吉原商店街を出た旧東海道
吉原商店街を出た旧東海道。県道の標識がある。

実は商店街の途中から歩いて来た県道22号もこの角を曲がります。
狭い道に入っても引き続き旧東海道が県道です。

140m先、2番目の角の所にお題目碑があります。

お題目碑
お題目碑

旧東海道はこの角を右に曲がります。県道22号も右です。
ちょうどお題目碑が目印になっています。
ここを曲がると旧東海道はしばらく道なりなのですが、
ちょっと寄り道をすることにして、最初の信号を左折します。
その先に吉原中央町郵便局があります。

吉原中央町郵便局
吉原中央町郵便局

吉原中央町郵便局の風景印
吉原中央町郵便局の風景印

吉原中央町郵便局の風景印は「左富士の松と田子浦港と東海道新幹線」です。
今回は年賀はがき(無地)を使用しました。

郵便局を出て旧東海道に戻ろうと元来た方向を見たら富士山が見えました。

吉原中央町郵便局の前から見た富士山
吉原中央町郵便局の前から見た富士山

お題目碑がある角を曲がってから450m、道が緩やかに左に曲がり、
小さな橋を渡る手前のこの場所が吉原宿西木戸跡です。

吉原宿西木戸跡
吉原宿西木戸跡

小さな橋の名は四軒(しけん)橋、下を流れるのは小潤井川です。
橋を渡るとすぐ旧東海道は国道139号に合流します。
吉原商店街から歩いて来た県道22号はここで終わりです。

国道139号に合流
国道139号に合流

国道139号はここ富士市から富士山の西を北上した後北側へ回り込み、
山梨県を抜けて東京の西の端、奥多摩町へ至る道です。
そう言えばこの道、左富士の手前でちょっとだけ歩きましたね。

旧東海道は、この国道合流点から約140mが
昭和40年代に行われた区画整理で失われています。
国道139号を進むとすぐに広い道と交差しますが、
その近くに旧東海道跡の碑があります。

旧東海道跡の碑
旧東海道跡の碑。大通りの向こうに旧東海道の続きが見えます。

旧東海道の碑の所から見ると、4車線の大通りの向こうに
大通りに対して斜めにぶつかっている道が見えます。
地図で見るとこの角度がちょうど県道22号の延長線と合致し、
旧東海道の続きであることがわかります。

国道139号の所まで戻って大通りを渡り、旧東海道の続きを歩きます。
振り返ったら富士山が見えました。

大通りを渡って旧東海道の続きへ
大通りを渡って旧東海道の続きへ。振り返ると富士山が見えました。

500m余り行くと高島交差点です。ここは東西方向の県道396号と
北西から南東方向の県道353号が交差する所に、
北東から旧東海道が来る五叉路です。
旧東海道はここを右へ行き、少しの間県道396号を進みます。

静岡県道396号富士由比線の起点は
高島交差点の東200m程の所にある青島交差点、
終点はこれから通る由比宿の先、東海道本線由比駅の辺りです。
この道もまた旧国道1号で、この先終点まで飛び飛びに歩くことになります。

県道396号を200mくらい行くと、潤井川を渡る橋が見えてきます。
旧東海道はこの橋を渡らず、右に曲がります。
ここは元吉原の手前、檜交差点にあった物と同じ
「旧東海道順路」の標識がありますが、小さいので見落としそうです。

潤井川を渡る橋の手前を右へ
潤井川を渡る橋の手前を右へ

続いて2つ先の角を左に曲がります。
ここも同じく「旧東海道順路」の標識があります。

2つ目の角を左へ
2つ目の角を左へ

そしてその先の富安橋で潤井川を渡ります。
吉原宿を出た所で渡った小潤井川はこの潤井川の支流です。

前方に富安橋
前方に富安橋

富安橋から約1km程の所に鶴芝の碑があります。
民家の玄関先にあるので、あんまりじろじろ見るのも悪いような気がします。
(そのくせここに写真を載せています)

鶴芝の碑
鶴芝の碑

かつてこの付近に本市場という間の宿がありました。
鶴芝の碑は文政3年(1820年)、本市場にあった鶴の茶屋に建てられたものです。
この碑によれば、ここから雪の富士を眺めると
中腹に一羽の鶴が舞っているように見えたといいます。
ちょっと見てみましょうか。

本市場から見る富士山
本市場から見る富士山

今日は鶴は見えないみたいです。

その先で中央分離帯のある広い道と交差するのですが、
横断歩道がないのでまっすぐ渡れません。
分離帯には「旧東海道跡地」と刻まれた柱があります。

迂回してください
迂回してください

迂回して道路を渡ったら、その先でこんな光景に出会いました。

バラと富士山
バラと富士山

吉原郵便局の所でも言いましたが、富士市の花はバラです。

迂回して渡った交差点から160m、旧東海道は県道396号に右から合流しますが、
すぐに左折して県道を離れます。

県道396号に合流してすぐ左折
県道396号に合流するも、すぐに写真中央の信号機の所で左折。

その前にここを一旦通り過ぎ、県道を150mばかり行った所にある
富士郵便局で風景印を押してもらいましょう。

富士郵便局
富士郵便局

富士郵便局の風景印
富士郵便局の風景印

富士郵便局の風景印は「田子の浦港と富士山の景観」です。
吉原、吉原中央町、富士と似ているようで違う図案が続きます。
今回は年賀はがき(無地インクジェット写真用)を使用しました。

では、150m戻って旧東海道の続きを歩きましょう。

06:23 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年9月 8日

【十四】富士が見えればそれで吉原 其の三

吉原宿に入りました。

吉原宿東木戸跡
吉原宿東木戸跡

東木戸跡は標柱のみで何も残っていません。

少し行くと岳南鉄道の踏切があり、その脇に吉原本町駅があります。

吉原本町駅
吉原本町駅

岳南鉄道は吉原から岳南江尾までの総延長9.2kmの路線です。
戦前に建設された日産の工場の専用線を延長する形で
まずは1949年に吉原本町駅までが開業。
1953年には岳南江尾駅までの全線が開業しました。
こうした経緯からか、電車は吉原駅を出るとまず東海道本線に沿って西へ進み、
次にジヤトコ(旧日産)の工場を目指して北へ進みます。
そして工場を西へ迂回すると、今度はぐるりと半円を描いて東へ進みます。
その半円の途中にこの吉原本町駅があります。

岳南鉄道7000形
旧東海道を横切る岳南鉄道7000形電車。
元京王電鉄井の頭線の電車です。

吉原本町駅は吉原駅に次いで2番目に利用者の多い駅です。
日中は駅員がいて窓口で切符を売っています。
入場券を買ったら、最近余り見かけない硬券(厚紙の切符)でした。
この切符の紙も地元産でしょうか。

吉原本町駅の入場券
吉原本町駅の入場券

電車は1時間に2本、貨物列車も1日4往復走ります。
ただ、輸送量はどんどん減っているそうです。

吉原本町駅の先にある吉原商店街は、かつての吉原宿の中心部です。
残念ながらシャッターが閉まっているお店が多いようです。

吉原商店街
吉原商店街

左の駐車場の隅に明治天皇御小休所の碑があります。
「明治十一年十一月六日 東海道 吉原 高砂館跡」と記されています。

明治天皇御小休所の碑
明治天皇御小休所の碑

歩道の覆いから「吉原宿」と書かれた暖簾が下がっています。
吉原宿の略図が描かれています。

吉原宿の暖簾
吉原宿の暖簾

この50m程先、商店街の途中で、吉原駅の所から歩いてきた県道171号は、
右から入ってくる県道22号に合流して終わります。
静岡県道22号と言えば三嶋大社の前を通る道で、
以前にも箱根西坂を過ぎて三島宿に入る辺りから、
伊豆箱根鉄道の三島広小路駅の所までを歩きました。

吉原商店街には、かつての宿場町の面影はありませんが、
宿場の様々な施設跡を示すレリーフが歩道に埋め込まれています。
上本陣跡は‥‥

上本陣跡
上本陣跡

現在はパチンコ屋です。
下本陣跡は‥‥

下本陣跡
下本陣跡

薬局です。私が訪れた日はシャッターが閉まっていました。
脇本陣跡は4箇所あるのですが‥‥

脇本陣跡
脇本陣跡

カメラ屋とおもちゃ屋と洋服屋と和菓子屋です。
おもちゃ屋と和菓子屋はしっかり営業していました。
問屋場跡は‥‥

問屋場跡
問屋場跡

眼鏡屋です。こちらも営業中です。
そして旅籠跡は‥‥

旅籠
旅籠

鯛屋旅館
鯛屋旅館

おっと失礼、こちらは跡ではなく現役でした。

吉原本町駅から約600m、商店街が終わる直前の静岡銀行がある交差点で、
旧東海道は左に曲がります。

吉原商店街出口手前
吉原商店街出口手前。旧東海道はここを左折。

今回はその前に一旦東海道を離れて直進します。
商店街を抜けた所に吉原中央駅があります。

吉原中央駅
吉原中央駅

駅と言っても鉄道の駅ではなくバスターミナルです。
でも、軒下に線路を敷けば地方私鉄の始発駅に見えますね。
鉄道が廃止されて駅がバスターミナルに生まれ変わる例もあるようですが、
ここは初めからバスの駅です。

吉原中央駅の出札窓口
吉原中央駅の出札窓口

乗り場は鉄道の駅のように1番線、2番線‥‥と呼ばれ、5番線まであります。
時刻表を見るとかなり多くの行き先がありました。
ただし、富士駅や新富士駅へのバスはそれぞれ1時間に1本くらいです。
富士市はJR在来線(東海道本線と身延線)や岳南鉄道、バスが
新幹線とうまく連携しておらず、よそ者にとっては交通の便が悪い印象があります。

吉原中央駅から歩いて10分くらいの所に吉原郵便局があります。
今回はここで風景印を押してもらいます。
品川郵便局以来久々に少し街道から離れた場所での押印になりました。

吉原郵便局
吉原郵便局

吉原郵便局の風景印
吉原郵便局の風景印

吉原郵便局の風景印は
「田子の浦港から見た富士山に東海道新幹線と特産の洋紙」です。
元吉原の方にある鈴川郵便局と同じ図案です。
切手は愛知の自然 ばらです。
富士市の花がバラなのでこの切手を選びました。

沼津から歩いて来たら夕方になってしまいました。
吉原中央駅から吉原駅行きのバスに乗って一旦帰ることにしましょう。

05:19 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年9月 7日

【十四】富士が見えればそれで吉原 其の二

吉原駅北口交差点からちょっとだけ旧東海道を離れ、吉原駅を見てみましょう。

吉原駅
吉原駅

関東と関西を結ぶ鉄道路線は横浜から西へ建設が進められ、
1889年2月1日には静岡に達しました。
この時、静岡県富士郡元吉原村のこの地に鈴川駅が設けられました。
元吉原村は1955年に吉原市に編入され、翌年鈴川駅は吉原駅に改称されました。
所在地の元吉原村が、移転後の吉原宿を起源とする吉原市に編入され、
ここも吉原になったというわけです。
なお、吉原市は1966年に(旧)富士市、鷹岡町と合併して
(現)富士市になりました。

沼津から歩いて来たこの日は晴れているのに富士山だけ見えなかったのですが、
この先の名勝左富士で富士山が見えないのでは話になりません。
後で富士山がよく見える日に歩き直したので、
ここから吉原宿まではその時の写真も交えて紹介します。

吉原駅のホームからも富士山が見えます。
駅には近くの製紙工場で作られた紙を運ぶ貨車が停車中です。

吉原駅のホームから見た富士山
吉原駅のホームから見た富士山

旧東海道に戻りましょう。
今まで海岸沿いに西へ進んでいた東海道が、
内陸の吉原宿へ向かうため、ここから北西に進路を変更します。

吉原駅前は静岡県道171号吉原停車場吉原線の起点です。
吉原宿へ向かう道で、吉原駅前を除くほとんどの部分が旧東海道です。
吉原駅北口交差点で旧東海道に入ると、ここから河合橋交差点までの150mは、
元吉原を通り抜けてきた県道170号との重複区間です。

河合橋交差点
河合橋交差点。県道170号は左へ。旧東海道は直進。

河合橋の先で道は左右に分かれます。旧東海道は左です。
右の道の方向に富士山が見えます。

河合橋の先から見た富士山
河合橋の先から見た富士山

左の道に1本だけ松の木があります。

1本だけある松の木
1本だけある松の木

道なりに行くと、県道171号は国道139号と合流し、車の通りが多くなります。
その先に国道1号(富士由比バイパス)の高架があります。

国道1号(富士由比バイパス)をくぐる
国道1号(富士由比バイパス)をくぐる

ここからは見えませんが、向こう側に新幹線の線路も並んでいます。
県道171号即ち旧東海道はここで国道139号から離れ、国道1号をくぐります。
この先に左富士がありますが、
国道1号をくぐったあたりでは、まだ富士山は右に見えています。

まだ右側に見える富士山
まだ右側に見える富士山

その先で道は緩やかに右へ曲がり、北西だった進行方向がほぼ真北になります。
富士山は正面に来ました。

正面に見える富士山
正面に見える富士山

吉原宿が中吉原にあった頃の東海道はこの付近から西へ行っていたようですが、
分岐点の痕跡は残っていないようです。
このすぐ先に左富士神社があります。

左富士神社
左富士神社

ここから進路はさらに右、北北東になります。
そして左富士神社から100m、広い通りとの交差点で左富士が見えます。

吉原の左富士
吉原の左富士

松の木が1本だけあり、この下が小さな公園になっています。
ここに立派な左富士の解説板があります。

左富士の解説板
左富士の解説板

公園の先には左富士というバス停もあります。

左富士バス停
左富士バス停

この辺り、道の左側は工場です。
残念な事に、もっともいい位置に富士山が見えそうな場所からは、
工場の建物に遮られてよく見えません。
この工場の脇で道は左に曲がり、左富士は終わってしまいます。

左富士を過ぎた所に富士依田橋郵便局があります。
名勝左富士に一番近い郵便局ですが、残念ながら風景印はありません。

左富士が見えた交差点から500m余り、平家越え橋で和田川を渡ります。

平家越え橋
平家越え橋

この辺りは治承4年(1180年)、富士川の合戦が行われた場所です。
夜間に源氏の軍勢が動いた際、近くの沼にいた水鳥の群れが一斉に飛び立ち、
これを夜襲と勘違いした平氏の軍勢が大慌てで逃げたと伝えられています。
あくまで私の憶測ですが、敗者である平氏のエピソードは
意図的に間抜けっぷりが誇張されて伝えられているのではないかと思います。
きっと源氏の間抜け話は隠されているんですよ。

平家越え橋を過ぎれば、吉原宿の入口、東木戸跡まであと500mくらいです。
途中、富士山がよく見える場所がありました。

平家越え橋と東木戸跡の間で見た富士山
平家越え橋と東木戸跡の間で見た富士山

ここの道路に面した土地は更地になっているので、
いずれ何らかの施設ができて富士山が見えにくくなるでしょう。
ただし、少し市街地を離れれば富士山がよく見える場所はたくさんあるので、
無理に町中の旧東海道から見る必要もありません。

間もなく吉原宿です。

08:38 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年9月 6日

【十四】富士が見えればそれで吉原 其の一

富士市に入りました。

これより富士市
これより富士市

沼津宿を出た辺りから歩いてきた県道163号は
この先300mの東柏原交差点で県道380号(旧国道1号)に合流して終わります。
そこからさらに700m、東海道本線東田子の浦駅の先辺りに
間の宿柏原がありました。
往時を偲ぶ事ができる物は残っておらず、今は標柱が立つのみです。
そしてその先に立圓寺があります。

立圓寺
立圓寺

境内には大型船の錨が置かれています。
これはインドネシア船籍の貨物船「ゲラテック」の錨です。

ゲラテックの錨
ゲラテックの錨

清水港を出港したゲラテックは1979年10月19日、台風20号に遭遇し、
ここ立圓寺の南方にある柏原海岸で座礁しました。
錨の脇にはこの時亡くなった船員2名の名を刻んだ慰霊碑もあります。
そばにある解説によれば、近隣はもちろん
東京、愛知、山梨などからも集まった野次馬の数は休日には5万人にも上り、
売店が十数軒出店する程の勘違いっぷりだったようです。

立圓寺から350m程行った広沼橋の下を昭和放水路が流れています。

昭和放水路
昭和放水路

原宿の増田平四郎は、愛鷹山の南に広がる湿地帯、浮島沼の干拓を計画しました。
しかし工事の許可はなかなか下りず、代官所へ願い出る事12回、
勘定奉行に籠訴する事6回にしてようやく認められました。
実に発案から着工まで27年。工事は明治維新を跨ぎ、
明治2年(1869年)の春に排水路が完成しました。
全長505m、幅7mの大きな掘り割りを人々はスイホシ(水干し)と呼びましたが、
完成したその年の8月、高波で完全に破壊されました。
しかし、平四郎の干拓計画は後の世の人々に受け継がれ、
スイホシと同じ場所に昭和放水路が建設されました。
広沼橋を渡った所に増田平四郎の像があります。

増田平四郎の像
増田平四郎の像

ちなみにこの像の所にある解説板では
スイホシの着工を「1867年(慶応元年)」としています。
新暦の1867年は旧暦の慶応2年11月26日から慶応3年12月6日まで、
旧暦の慶応元年は新暦の1865年1月27日から1866年2月14日までです。
よって「1867年(慶応元年)」と書いてあるのは明らかに間違いなのですが、
ネット上で検索するとこの通りに書いてあるサイトが多いようです。
1867年なのか慶應元年なのか、実際はどちらなのでしょう。

また、ここは日本橋から33里(129.6km)の一里塚があった場所でもあります。
現在塚の痕跡は無く、標柱が立っているだけです。
ちなみに、この標柱では33里を129.69kmとしています。

一里塚の解説
一里塚の解説

尺貫法とメートル法の換算は
1891年公布の度量衡法で1尺=(10/33)mと定められ、
ここから計算すると1里(12960尺)は3.92727‥‥km、
33里はちょうど129.6kmになります。
1里はkmに換算すると循環小数になるため一般には3.93kmとされますから、
これを単純に33倍して129.69kmと書いたのでしょう。

さて、重箱の隅をつつくのはこのくらいにして先へ進みましょう。
広沼橋からそのまま県道380号を1km進むと檜交差点です。

檜交差点
檜交差点

ここは、ここまで歩いてきた県道380号と県道170号との分岐点で、
旧東海道は県道170号の方へ進みます。
静岡県道170号田子浦港大野線は東海道本線吉原駅近くの田子浦港へ続く道で、
田子浦港付近の一部を除く大半が旧東海道に含まれています。
檜交差点では直進する380号から左へ別れる170号が支線のように見えますが、
380号はここから内陸方向へ大きく進路を変えており、
地図で見ても元の道は170号にまっすぐ続いていた事が伺えます。
歩道はこの交差点の外側を左へぐるりと回るように続いており、
「旧東海道順路」と書かれた標識が立てられています。

檜交差点を過ぎると日本製紙富士工場の高い煙突が見えてきます。

日本製紙富士工場の煙突が見える
日本製紙富士工場の煙突が見える

富士市は日本屈指の「製紙の街」です。
富士市商工農林部工業振興課がまとめた
「富士市の工業(平成21年4月)」という資料によれば、
2007年に市内で生産された紙・板紙の総生産量は3,617,417トンで、
全国生産量の11.6%を占めています。
(板紙とはボール紙などの厚紙のことです)
全国生産量に占めるシェアが目立って多いのはトイレットペーパーで、
31.5%が富士市で作られています。
ただし、近年は不況の煽りで業界の再編が進んでいます。
まあ、その辺はどこの業界でも同じですね。

富士市周辺ではかなり古い時代から紙が作られており、
平安時代の延喜式に「駿河より紙を貢ぐ」という記述があるそうです。
製紙には大量の水が必要です。現代の製紙工場では、紙1トンを生産するのに
50トンから500トンもの水を使いますが、
富士市周辺は富士山の伏流水などの水資源に恵まれています。
江戸時代には、この周辺に自生していたミツマタが原料に使われるようになり、
1889年(明治22年)には鉄道が開通して大量輸送が可能になりました。
市街地化が進んでいないため工場用地の確保が比較的容易で、
大量消費地である大都市へもそんなに遠くないという地の利が生かされ、
近代以降も製紙はこの地の重要な産業であり続けました。

製紙工場の煙突が近付いてくると、臭いも近付いてきます。
高い煙突から白い煙がもくもくと吐き出されているのを見ると、
今日富士山が見えないのはこいつらのせいじゃないかと思えてきます。
あの白いのは湯気ですから、きっと雲の生成に加担していることでしょう。

時々あの白いのが有害物質だと思っている人がいますが、違います。
本当に有害な煙があんなにたくさん出ていたら大変ですよ。
(と言っても湯気に混じって少しは出ているみたいですが)

少し行くと「石屋前」というバス停がありました。

石屋前バス停
石屋前バス停

確かに石屋さんの前にあります。
後で調べたら、この辺りの町名である大野新田は
1つ手前の停留所の名前に使われていました。
停留所名がネタ切れだったようです。

さらに進み、今井という地域に入ります。
この辺りから東海道本線吉原駅手前までが初期の吉原宿があった場所で、
元吉原と呼ばれています。

この辺りが元吉原
この辺りが元吉原

吉原宿は徳川家康による五街道整備(1601年)以前からあった宿場ですが、
1639年に津波で大きな被害を受け、内陸部に移転しました。
これが中吉原ですが、ここもまた1680年に津波の被害を受け、
さらに内陸の、今回目指す吉原宿へ再度移転しました。

富士山をモチーフにした柵がありました。

富士山をモチーフにした柵
富士山をモチーフにした柵

県道170号に入った檜交差点から1.8kmの所で道が二手に分かれます。

右へ行くと踏切
右へ行くと踏切

地図を見ると、元の東海道はここを直進し、
その先で現在の東海道本線を斜めに横切るように続いていたようです。
今は線路に分断されているので、ここを右に行って鈴川踏切を渡ります。

鈴川踏切
鈴川踏切

踏切の所で線路を見たら、日本製紙富士工場の前に貨車が並んでいました。

製紙工場前の貨車編成
製紙工場前の貨車編成

この貨車はワム80000形です。
国鉄時代の1960年から1981年までに、実に26000両以上が製造されました。
箱形車体の側面が総開きの引き戸になっており、
フォークリフトで積み荷をパレットごと積み込めるのが特徴です。
車体が青いものは車輪の軸受けがローラーベアリングに改造されています。
昔は国鉄線のどこでも見られた貨車ですが、近年貨物列車はコンテナが多くなり、
今は紙輸送列車に残る程度です。
吉原駅から出るワム80000形は埼玉県の新座貨物ターミナルまで行きます。

吉原駅の敷地に沿って踏切から道なりに360m進むと吉原駅北口交差点です。

右奥の信号の所が吉原駅北口交差点
右奥の信号の所が吉原駅北口交差点

ここを左へ曲がると吉原駅です。旧東海道は直進です。

09:06 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年8月 1日

【十三】富士のお山に原の白隠 後編

白隠禅師誕生地のそば、
原交番東交差点の所にある原町歩道橋に上がってみました。

原町歩道橋から愛鷹山を望む
原町歩道橋から愛鷹山を望む

今日は好天に恵まれ、愛鷹山がよく見えます。
雲の向こうには富士山があるはずです。本当にそこ以外は雲一つありません。
これはきっと、今朝素通りした沼津の浅間神社による嫌がらせでしょう。
沼津の手前、三島駅の新幹線ホームからは見えましたからね。

原宿にも浅間神社があります。原交番のすぐ先です。
江戸時代、浅間神社前には高札場がありました。

原の浅間神社
原の浅間神社

富士山見えないからいいや。(そういう問題か)

浅間神社の斜向かいには問屋場跡がありますが、標柱だけです。
その少し先には本陣跡がありますが、現在は普通の民家です。

浅間神社から約400mの駅入口交差点を左に曲がり、
少し行くと東海道本線の原駅があります。

原駅
原駅

なまこ壁を模した和風の駅舎です。まだ松の内なので門松があります。
1889年(明治22年)、横浜から徐々に延びてきた鉄道路線が
この地を通り抜けて静岡に到達しました。
原駅が開業したのはそれから11年が過ぎた1900年(明治33年)です。
この駅があるおかげで現代人は手軽に原宿を訪れることができます。
葬儀で松蔭寺にお参りできなくても、富士山が雲に隠れても、
「また来ればいいや」と思うことができます。
江戸時代は東海道を旅するなど一生に一度という人も多かったでしょう。
駿河まで来て富士山が見えなかったらそれでおしまいです。

さて、東海道に戻りましょう。
駅入口交差点から100m程行くと、高嶋酒造という造り酒屋があります。
この斜向かいあたりに原宿西木戸跡の標柱があるらしいのですが見逃しました。

原宿西木戸跡付近
原宿西木戸跡付近。左の建物が高嶋酒造。

高嶋酒造の建物の脇に回ると、蛇口が2つ付いた流しがあります。
流しのそばに立て札があり、「富士山の霊水」と書かれています。
地下145.5mから自噴する井戸で、富士山の伏流水だそうです。
高嶋酒造のお酒「白隠正宗」にも使われるこの水を自由に汲むことができます。
まあ、どうせ素人にはわからない程度の微妙な違いなのでしょうが‥‥

富士山の霊水
高嶋酒造裏の流し。富士山の霊水を汲むことができる。

ごめんなさい。全然違います。空のペットボトルでも持って来ればよかったです。
蛇口の脇に注意事項が書かれた張り紙があるのですが、
あろうことかこの水で洗車をする輩もいるようです。

原宿を出て暫くは一本道、しかもずっとまっすぐです。
150m程行くと、原小前というバス停があります。
そばの路地を入ると沼津市立原小学校の脇に出ます。

原小前バス停
原小前バス停

ロシア語でハラショー(харашо)は「良い」という意味です。
原小学校に用事はありませんが、良い事を求めてそちらの方に行きます。
原小の脇の道に入って最初の角を曲がると、その先に沼津西添郵便局があります。
今回はここで風景印を押してもらいます。

沼津西添郵便局
沼津西添郵便局

沼津西添郵便局の風景印
沼津西添郵便局の風景印

沼津西添郵便局の風景印は「白隠禅師画像、摺鉢の松、富士山」です。
摺鉢の松とは松蔭寺にある樹齢300年の松の木で、
その名の通り摺り鉢が被せられています。
なんでも枝だか幹だかが折れてしまったのを保護するため
白隠禅師が摺り鉢を被せておいたところ、
松脂で鉢がくっついてそのまま成長したのだとか。
白隠が生きた18世紀前半から近年まで
200年以上も風雪に耐えた(この辺り雪はほとんど降らないか)摺り鉢は、
現在は取り外されて保管され、代わりに別の鉢が被せられているそうです。

切手は平成13年国際文通週間の原です。

では、東海道に戻りましょう。
原小前バス停から300m進むと道幅が広くなります。
ここはかつて松並木がありましたが、
松が枯れてしまってその分今は道幅が広くなっているのだそうです。
ここからすこしの間幅の広い道が続きます。

松並木の分道幅が広くなっている
松並木の分道幅が広くなっている

元松並木の始まりから約650mの所に一里塚跡があります。
日本橋から32里(125.7km)です。
現在は上方に向かって左の民家の前に標柱があるのみですが、
道の反対側に道祖神がありました。

一里塚跡の道祖神
一里塚跡の道祖神

一里塚から2kmくらい歩いたでしょうか。桃里という所で右側の視界が開けました。

沼津市桃里から見た富士山
沼津市桃里から見た富士山。手前の山裾は愛鷹山。

富士山のてっぺんだけ見えます。
「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」
と言いますが、今回は
「駿河にて過ぎたるものが二つあり‥‥」
ですね。

原宿西木戸跡から3.5kmの所に東海道本線の植田踏切があります。
旧東海道はここを渡ります。

植田踏切
植田踏切

恐らく元は真っ直ぐな道だったのでしょうが、
線路を渡るために踏切の所でクランク状に曲がっています。
踏切を過ぎて250mの所で沼津市は終わりです。

沼津市はここまで
沼津市はここまで

市内の歩行距離は14.2kmでした。
京都までの道のりの4分の1をようやく消化しました。

06:01 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年7月31日

【十三】富士のお山に原の白隠 前編

沼津市東間門から旧原町です。
原町は1968年に沼津市に編入されました。
そこから400m進むと西間門交差点があります。

西間門交差点
西間門交差点。画面左手前から右奥へ通じる道が旧東海道。
中央の道は旧国道1号の千本街道。奥が京都方面。

沼津城の手前まで歩いた県道380号、旧国道1号が、
今歩いている県道163号と斜めに交差して海側に回ります。
ここからの県道380号には千本街道という名前が付いています。
旧東海道は引き続き県道163号です。

西間門交差点から400m、八幡神社の所に傍示杭があります。

西の傍示杭
八幡神社にある西の傍示杭

この傍示杭は明治末期頃に折られ
「従是東」と書かれた上半分だけが残っています。
黄瀬川を渡った所に「従是西 沼津領」と書かれた傍示杭がありましたが、
材質や書体等がそれと同じで、同時期に作られた物と考えられています。
失われた下半分には恐らく「沼津領」と刻まれていたのでしょう。

八幡神社から約350mの所に沼津片浜郵便局があります。
ちょっと寄っていきましょう。

沼津片浜郵便局
沼津片浜郵便局

沼津片浜郵便局の風景印
沼津片浜郵便局の風景印

沼津片浜郵便局の風景印は「千本松原から望む駿河湾に富士山」です。
この局も含めて近隣の5つの郵便局で同じ図案を使用しています。
今回はかもめ~る(カーボンオフセットはがき)を使用しました。

沼津片浜郵便局から約1.3kmの所に松長一里塚跡碑があります。
民家の塀を少しえぐって設置されています。

松長一里塚跡碑
松長一里塚跡碑

日本橋から31里(121.7km)です。
現在、塚は残っておらず碑が建っているだけです。
石碑の側面に一里塚のイラストがあります。

松長一里塚跡碑のイラスト
松長一里塚跡碑のイラスト

松長一里塚跡から1.7km、原踏切で東海道本線を渡ります。

原踏切
原踏切

ここで右側から来た東海道本線が旧東海道を横切り、海側へ出ます。
踏切から300m弱、右手に神明宮があります。

神明宮
神明宮

そしてここが原宿の東木戸、即ち江戸方見附があった場所です。

原宿東木戸跡
原宿東木戸跡

解説が書かれた小さな柱以外何もありませんが、ここから原宿です。
原宿はもともと現在の県道380号(旧国道1号)付近にあり、
慶長年間(1596~1615年)に起きた高潮の被害により移転したと言われています。
東木戸跡から700m弱の所にこんなバス停がありました。

白隠前バス停
白隠前バス停

ここは白隠ゆかりの松蔭寺の前でした。

松蔭寺
松蔭寺

白隠慧鶴については沼津の手前、清水町の玉井寺の所で触れましたが、
1685年ここ原宿で生まれ、1700年にこの松蔭寺で出家しました。
1703年から諸国を巡りつつ修行を積み、1716年には原に戻り、
松蔭寺の住職になりました。

さて、500人に1人の名僧とまで言われた白隠ゆかりの松蔭寺ですが、
ちょうどお葬式の準備中なのでお参りは断念しました。
確か戸塚でも同じ事がありましたね。
そこから100m余り進むと白隠禅師誕生地の碑があります。

白隠禅師誕生地の碑
白隠禅師誕生地の碑

ここには白隠の母親、妙遵(みょうじゅん)の生家がありました。
妙遵が生まれた頃は味噌屋という旅籠だったそうです。
そばにある解説に
「のち父宗彝(そうい)が分家して沢瀉屋(おもだかや)を名乗った」
とあるので、妙遵と結婚した宗彝がこの旅籠を継ぎ、
その際に屋号を沢瀉屋に変えたということでしょう。
この奥に白隠の産湯に使った水を汲んだという井戸がありますが、
そこまで入れるとは知らなかったので素通りしてしまいました。

ここまでで原宿東木戸から西木戸までの6割程を進んだことになります。

17:59 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年6月29日

【十二】いにしえの沼津を石で辿る 後編

沼津城本丸跡を迂回する川廓通りは、さんさん通りに突き当たって終わります。
旧東海道はここを左折し、さんさん通りに入ります。

川廓通りからさんさん通りへ
川廓通りからさんさん通りへ。左が川廓通り。前方が京都方面。

この辺りは三枚橋城の外堀があった場所です。
三枚橋城は戦国時代に築城され、
江戸時代初期には沼津藩主大久保忠佐が城主でしたが、
慶長18(1613)年の忠佐死去で大久保家は断絶し、
翌年三枚橋城も廃城となりました。
沼津城はその跡地に築城されましたが、三枚橋城よりも小規模でした。
1994年、付近の建築工事の際に外堀の石垣が見つかりました。
発掘された石を使用したモニュメントが歩道上に置かれた他、
さんさん通り沿いの沼津東急ホテル前に石垣が再現されています。

三枚橋城外堀跡のモニュメント
三枚橋城外堀跡のモニュメント

沼津東急ホテル前の石垣
沼津東急ホテル前に再現された三枚橋城外堀の石垣

モニュメントのすぐ先の通横町交差点で旧東海道は右折します。

通横町交差点
通横町交差点。旧東海道は右から来て奥へ。

そして、次の信号がある交差点ですぐ左折します。
通横町交差点から100mも離れていません。

旧東海道は右手前から左へ
旧東海道は右手前から左へ

ここから250m先、永代橋通りとの交差点までの間に
本陣、脇本陣跡の碑があります。
まずは左折した交差点の近くに高田本陣跡。

高田本陣跡
高田本陣跡

初めの路地の所に中村脇本陣跡。

中村脇本陣跡
中村脇本陣跡

次の路地の所に沼津本町郵便局があります。
今回はここで風景印を押してもらいます。

沼津本町郵便局
沼津本町郵便局

沼津本町郵便局の風景印
沼津本町郵便局の風景印

沼津本町郵便局の風景印は市の花はまゆうと千本松原と富士山です。
切手は東京の四季の花・木VI はまゆうです。

この日は三島を午後に出発したため、
5時までにここへ来て風景印をもらうのが精一杯でした。
一旦帰宅し、後日ここから吉原へと出発です。

そして3番目の路地の所に清水本陣跡。

清水本陣跡
清水本陣跡

このほか道の反対側に間宮本陣跡があります。
以上、本陣、脇本陣跡は全て石碑が建っているだけです。

江戸時代までは城下町、宿場町として、
また近代以降は保養地として栄えた沼津は、
新陳代謝を繰り返しながら地方都市として発展してきたことでしょう。
傍示石、石垣、石碑と妙に石ばかり見ていると、
それらが沼津の歴史を支えてきたものたちの墓標のように思えます。

清水本陣跡の先の信号で、道は永代橋通りと交差します。
ここが沼津宿の京方見附があった場所ですが、現在は石碑さえありません。

沼津宿京方見附跡
沼津宿京方見附跡。旧東海道は右折。

旧東海道は右に曲がり、永代橋通りに入ります。
ちなみに通りの名の由来である永代橋はここを左に曲がった先にあります。

京方見附から100m、浅間町交差点の所に浅間神社があります。

浅間神社
浅間神社

ここを通ったのは朝8時過ぎです。
お参りして道中の無事を祈願しようと思ったのですが、
黒服の人たちが集まって何かやっていたのでやめておきました。
敷地の周囲に提灯が並べられていたので、何かお正月の行事があったのでしょう。

この浅間町交差点を左折すると千本浜公園へ続く千本浜道です。

千本浜道
千本浜道

魅力的な道ですが、目的地は遠いので先を急ぎます。旧東海道は直進です。
浅間町交差点から静岡県道163号東柏原沼津線が始まります。
(正確に言うと沼津側が終点)
この道をずっとまっすぐ行くと次の目的地、原です。

静岡県道163号東柏原沼津線
静岡県道163号東柏原沼津線

県道163号に入って300m、蛇松(じゃまつ)緑道との交差点で富士山が‥‥

蛇松緑道との交差点
蛇松緑道との交差点

‥‥見えません。さっき浅間神社を素通りしたからでしょうか。

蛇松緑道との交差点から約500m、東間門と書かれた歩道橋があります。
ここから先が旧原町のようです。

東間門と書かれた歩道橋
東間門と書かれた歩道橋。これより旧原町。

原宿の入口までは約4.5kmです。

05:36 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年6月28日

【十二】いにしえの沼津を石で辿る 中編

黄瀬川橋で黄瀬川を渡って沼津市に入りました。

黄瀬川橋を渡って振り返る
黄瀬川橋を渡って振り返る

黄瀬川橋から300m程の所に傍示石があります。
「従是西 沼津領」と刻まれ、ここから先が沼津藩の領地である事を示しています。

傍示石
傍示石

江戸時代の初め、沼津には大久保忠佐が支配する沼津藩がありましたが、
慶長18(1613)年に忠佐が死去すると、その後は藩主を継ぐ者が居らず、
幕府領になっていました。
時代が下って安永6(1777)年、
三河国大浜藩主だった水野忠友が沼津に国替えとなり、
以後江戸時代の終わりまでこの地は沼津藩となっていました。
ここ黄瀬川右岸には1778年に傍示杭が立てられましたが、そばにある解説板に、
「傍示杭はその後石製の物に作り替えられ何度か小移転されたが‥‥」
とあります。初めは木製だったのでしょうか。
また、元の位置は現在より数十メートル三島寄りだったようです。

三島広小路駅から3.3km続いた県道145号は、
傍示石の先の東下石田交差点で静岡県道380号富士清水線に合流します。

東下石田交差点
東下石田交差点。左が沼津市街方面。

県道380号に入って600m程進むと、駿府へ十五里と書かれた道標がありました。

駿府へ十五里
駿府へ十五里

日本橋からから府中宿まで44里26町ですから、ここまでが29里26町とすると、
清水町の伏見一里塚から26町、約2.8kmということになります。
後で確認したら2.4km、22町くらいだったので、だいたい合っていますね。
このそばにある解説板によると、この近辺と、先程の傍示石付近にも
江戸時代には松並木があったようです。
道標のすぐ先で左方向に細い道が分かれています。
旧東海道はその細い道です。ここで一旦県道380号から離れます。

県道380号から離れる
県道380号から離れる

広重の沼津の絵には川沿いの道が描かれています。
どうやらこの辺りを描いたものらしく、道の左側に狩野川があるはずなのですが、
高い堤防に遮られて見えません。

この道の先にある狩野川は堤防に遮られて見えない
この道の先にある狩野川は堤防に遮られて見えない

1958年9月26日、台風22号が伊豆半島をかすめ関東地方に上陸しました。
狩野川流域で死者・行方不明者1000名を超える大きな被害が出たため、
この台風は狩野川台風と呼ばれています。
水害のことを考えたら風景についての不満など言っていられません。

県道380号を離れてから約600mの所に沼津一里塚があります。

沼津一里塚
沼津一里塚

本来は日本橋から30里(117.8km)ですが、実は少し日本橋寄りにずれています。
正確に30里の位置に設置すると沼津の宿内になってしまうため、
少し手前で、日枝神社旧参道脇のこの場所に設置したと言われているそうです。
どの程度ずれているかはわかりませんが、
ここから沼津宿の入口までは400mくらいです。
上方に向かって右側の塚のみ残っており、榎が植えられていますが、
元の榎は終戦直後に枯死してしまい、新たに植えられました。

一里塚のそばには玉砥石があります。
今から1200~1300年前、玉類を磨く砥石として使われたと考えられています。

玉砥石
玉砥石

狩野川対岸の香貫地区で玉の加工が行われていたとする説があるものの、
今の所決定的な証拠は見つかっていないそうです。

一里塚から200m程で県道380号に戻ります。
この辺りでは「旧国一通り」または単に「旧国一」と呼ばれているようです。

県道380号に戻る
県道380号に戻る

このすぐ先で沼津宿に入りますが、特に目印はありません。
県道380号に戻って500m、国道414号と交差した先で県道が少し右に曲がります。

沼津市街に入った県道380号
沼津市街に入った県道380号

江戸時代はこの正面に沼津城があり、東海道は左へ迂回していました。
現在その道筋は川廓(かわぐるわ)通りとして残されています。

左の細い道が川廓通り
左の細い道が川廓通り

ちなみに三島広小路駅の所から続いていた県道上の路面電車は、
このまま県道380号を進み、
すぐ先の大手町交差点で右折して沼津駅前へ行っていました。

川廓通りは、昭和30年代まで残っていたとされる
石畳をイメージした舗装になっています。
左側は狩野川ですが、堤防に遮られて見えません。
川廓通りに入って150m程行くと、頭上をあゆみ橋が跨いでいます。
あゆみ橋は中央公園と狩野川対岸を結ぶ人道橋で、
川廓通りからも上がることができます。

あゆみ橋
あゆみ橋

あゆみ橋の袂、今歩いて来た川廓通りから見ると右上に中央公園があります。
ここは沼津城の本丸跡です。

中央公園
中央公園。右奥があゆみ橋。

沼津城は安永6(1777)年、
水野忠友が三河国大浜から国替の際に築城されました。
慶応4(1868)年、水野氏が上総国菊間へ国替になった後、
城の建物は沼津兵学校の施設として使われました。
兵学校は明治5(1872)年に東京へ移転し、後に建物は取り壊されました。
通常城跡といえば石垣ぐらいは残っているものですが、
ここはほぼ何も残っていません。

川廓通りに戻って東海道の続きを歩きましょう。
あゆみ橋から100m程で川廓通りはさんさん通りに突き当たって終わります。

川廓通りの終わり
川廓通りの終わり

旧東海道はここを左ですが、その前にちょっと右の方を見てみます。

沼津城大手門跡
沼津城大手門跡

この辺りが沼津城の大手門跡です。
今は大手町という町名に名残を留めるのみです。
さんさん通りをこのまま右の方へ進むと沼津駅です。
では、東海道に戻りましょう。

08:28 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年6月27日

【十二】いにしえの沼津を石で辿る 前編

境川に掛かる境川橋で三島市は終わりです。
境川橋は欄干がなければ見落としそうな小さな橋です。
現在の橋は1929年竣工。結構古いですね。

境川橋
境川橋

境川橋から右の方を見ると、
建物の間からコンクリート製の大きな樋が見えます。
これが千貫樋(せんがんどい)です。

千貫樋
千貫樋

千貫樋は境川を跨いで農業用水を通すための樋です。
創建は諸説ありますが、15~16世紀頃のようです。
清水町観光協会のサイトによれば、長さ39間(71m)、幅1間(1.8m)、
深さ15寸(45cm)、高さ1丈5尺(4.5m)の木製の樋だったそうです。
1923年の関東大震災で崩落し、
その後鉄筋コンクリートで再建されたものが現存しています。
境川橋にある解説板によれば現在の千貫樋の大きさは
長さ42.7m、幅1.9m、深さ45cm、高さ4.2mですから、
昔より短くなっているようです。

名前の由来はこれまた諸説あるようで、
・架設が巧みなため銭千貫に値する
・この用水が高千貫の田地を潤している
・建設費が銭千貫を費やした
などが伝えられているそうです。

千貫樋は現役の農業用水ですが、
近年は老朽化が進み、今後が危ぶまれているそうです。
この大正時代の樋は早めに見学しておいた方が良さそうです。

それでは境川を渡って駿河国に入りますが、ここは清水町。
目指す沼津はもう少し先です。

これより清水町
これより清水町

同じ清水でも
2003年まで存在した清水市(現・静岡市清水区の一部)とは無関係です。

160m程行くと、道の右側に石造りの常夜灯があります。
この常夜灯は弘化3(1846)年、ここの筋向かいの交差点に建てられました。
昭和初期から終戦後にかけての耕地整理でよそへ移されていましたが、
2001年に再び旧東海道沿いのこの場所に移築されました。
この先しばらくの間、沿道に同様の常夜灯が数多く見られます。

常夜灯
常夜灯

250m程行くと、三島清水郵便局があります。
せっかく前を通るので風景印を押してもらいましょう。

三島清水郵便局
三島清水郵便局

三島清水郵便局の風景印
三島清水郵便局の風景印

三島清水郵便局の風景印は
「富士山に同山を源とする柿田川に自然林と鮎」です。
同じ清水町内にある三島徳倉橋郵便局、長沢郵便局と共通の図案です。
今回はかもめ~る(夏の海)を使用しました。

400m程進むと左右にお寺があり、それぞれに一里塚があります。
京都に向かって左は宝池寺です。
こちら側の一里塚は風雨にさらされ崩れてしまったため、
1985年に修復されました。

宝池寺一里塚
宝池寺一里塚

この宝池寺側には立場もあったそうです。

京都に向かって右側は玉井寺(ぎょくせいじ)です。
こちら側の一里塚は江戸時代以来の物です。
一里塚も年月を経た物は、近年改修された物に比べ風格が感じられます。

玉井寺一里塚
玉井寺一里塚

両方を合わせて伏見一里塚と呼びます。
日本橋から29里(113.9km)です。

この玉井寺には、山号の扁額等、白隠の遺墨がいくつかあります。
白隠は江戸中期の禅僧です。
当時曹洞宗などと比較して衰退していた臨済宗を復興させ、
「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山と原の白隠」と謳われました。
この先の原宿に生まれ、出家後は諸国を巡って修行を積んだ後、
再び原に戻っています。

伏見一里塚から200m先の八幡(やはた)交差点で国道1号を横切ります。
国道1号はここから富士市方向が、
沼津市街の北側を迂回する沼津バイパスになります。
また、沼津バイパスができる前の国道1号である県道380号がここから始まります。
実はこの先で旧東海道は県道380号になるのですが、
今は引き続き県道145号で静かな住宅街の中を行きます。

清水町内の旧東海道
清水町内の旧東海道

八幡交差点から約500m、交差店名の由来であろう八幡神社があります。

八幡神社
八幡神社

八幡神社の境内に対面石があります。
治承4(1180)年、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せて来た時、
源頼朝は鎌倉からこの地に出陣しました。
そして、奥州から駆けつけた弟の義経と対面し、
この石に腰掛けて源氏再興の苦心を語り合い、
懐旧の涙にくれたと伝えられています。

対面石
対面石

対面石
風のたよりに、みちのくにいると聞いていた、九郎義経とは、おまえか。

対面石
はい九郎義経でございます。

対面石
この頼朝が旗あげと聞いて、遠くよりかけつけてきたのか。

対面石
伊豆には兄君がおられると聞かされ、長い間、
伊豆の空をしたわしく思っておりました。

頼朝が座った石の脇に柿の木が2本あります。
義経との対面の時、頼朝が柿を食べようとしたら渋柿だったため
ねじって傍らに捨てたところ、後に芽を出しました。
それが幹を絡ませねじり合っていたので
いつしか「ねじり柿」と呼ばれるようになったそうです。
まあ、樹齢800年の柿の木が和歌山県にあるそうですから
頼朝の頃の柿の木が植わっていてもおかしくはないでしょう。
しかし、ある地元在住の方のサイトに、
昔は対面石はもう少し北の方にあったのを付近の工事の都合で移動した
という記述があるのを見つけました。
柿の木も移植したのでしょうか。
そもそも源義経は謎の多い人物で、
実は頼朝と対面した場所も特定できていないといいますから、
これ以上追求するのはやめておきましょう。

八幡神社の参道入口から200m、道の左側に少しだけ松並木があります。
長沢の松並木です。

長沢の松並木
長沢の松並木

松並木から100m余り、黄瀬川橋で黄瀬川を渡ります。
この橋を渡れば沼津市です。清水町内の歩行距離はわずか1.9km。
橋から富士山が見えました。

黄瀬川橋から見た富士山
黄瀬川橋から見た富士山

05:53 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年2月 4日

【十一】三島へ続く石畳 其の八 県道145号編

箱根の関から三島宿まで歩いた日は、
三島中央町郵便局と三島郵便局で風景印をもらって終わりにしました。
日を改めて、三島中央町郵便局前から再開。沼津を目指します。

愛宕橋の所から歩いてきた県道22号を引き続き西へ進みます。
三島中央町郵便局のすぐ先に上御殿橋という小さな橋があり、
下を御殿川が流れています。
徳川家光が上洛の際に使った御殿の東側を流れているためこの名があります。

上御殿橋から見た御殿川
上御殿橋から見た御殿川

なお、御殿は東海道の南100m程の場所にあったようです。
この写真で画面左側に細い道があって、
川沿いの散歩がちょっとだけ楽しめます。

郵便局から180m、本町交差点のすぐ先右側に世古本陣址の碑があります。

世古本陣址の碑
世古本陣址の碑

世古本陣の門は長圓寺に移築され、現在も山門として使われています。
本町交差点から北へ300m程の所にあるのですが、
この日は出発が遅かったので寄らずに先を急ぎます。

本町交差点から300m、伊豆箱根鉄道駿豆(すんず)線の踏切の手前で
今まで歩いてきた県道22号は右へ分かれて行きますが、
この先の吉原宿で再び出会うことになります。
そしてここから直進方向の道は静岡県道145号三島沼津線です。

伊豆箱根鉄道の踏切
伊豆箱根鉄道の踏切。電車は3000系。

伊豆箱根鉄道駿豆線は三島と修善寺を結ぶ19.8kmの路線です。
この路線は三島駅から一旦西向きに出発し、
すぐに左にぐるりと回って南東向きに三島市街を抜けて行きます。
単線ですが1時間に4本くらい走っていて、
電車の車体も綺麗で寂れた感じはありません。
(駅はローカル線っぽい感じですが)
JRの特急も乗り入れて来ます。

踏切のすぐ脇には三島広小路駅があります。

三島広小路駅
三島広小路駅。踏切の西側から。

駅前から右方向へ広い道が分岐しています。
かつて、ここ三島広小路駅から県道上を路面電車が走っていたため、
それを避けるバイパスとして造られた道だそうです。

県道の路面電車は1906年、駿豆電気鉄道の路線として
沼津駅前まで開業しました。
江戸時代まで沼津は駿河国、三島は伊豆国だったので、
駿河と伊豆を結ぶ路線と言う意味で駿豆と命名されました。
その後、現在の三島田町駅までの運行も行われましたが、
集中豪雨による橋の流失や道路整備の影響で1963年に全線廃止されました。

なお、現在の伊豆箱根鉄道駿豆線は、
もともと伊豆鉄道として開業していた路線を駿豆電気鉄道が買収した名残で
駿豆線と呼ばれていますが、
全線が旧伊豆国を走っており駿河国へは行っていません。

さて、電車の話が長くなりました。先へ進みましょう。
旧東海道は駅前の分岐を直進、かつての電車通りである県道145号です。
この先は住宅街が続いています。

三島広小路駅前の分岐から650m、境川橋という小さな橋があります。

境川橋
境川橋

三島市はここで終わりです。
箱根峠から函南町・三島市を歩いた距離は13.9kmでした。
下を流れる境川は、伊豆国と駿河国の国境です。
では、引き続き駿河路を行きましょう。

06:18 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年2月 3日

【十一】三島へ続く石畳 其の七 愛宕坂・県道22号編

初音ヶ原石畳遊歩道が終わると、そこは五本松交差点です。
このまま国道1号を進んでも三島市街の南へ出ますが、
三島宿へはここから右脇へ入る遊歩道を進みます。

五本松交差点から右の遊歩道へ
五本松交差点から右の遊歩道へ

初音ヶ原石畳遊歩と共にここも石畳風です。
初音ヶ原は平らな石を敷いていましたが、ここはごつごつしています。

石畳風遊歩道
石畳風遊歩道

遊歩道の右側は花壇になっています。
俳句の世界では、「花壇」は秋の季語らしいです。
春ではないんですね。
花壇の右から車道が遊歩道に近付いてきます。

遊歩道脇の花壇
遊歩道脇の花壇

やがて遊歩道は右から来た車道と合流し、急な下り坂になります。
ここが愛宕坂です。
1680年に箱根の石畳が整備された際にはここも石畳になりました。
道路脇の解説板によると、1769年に
この愛宕坂のうち長さ140m、幅3.6mを修理したという記録があるそうです。
現在は遊歩道からの続きで途中まで石畳風になっていますが、
舗装の下には江戸時代の石畳が埋まっているそうです。
ここは車も通るので江戸時代の状態には復元できないのでしょう。

愛宕坂
愛宕坂。途中まで石畳風。

坂道を300m程下りていくと東海道本線の踏切があります。
箱根東坂の手前、三枚橋以来久し振りの線路です。
この踏切、「旧東海道踏切」という名前です。

旧東海道踏切
旧東海道踏切。電車は313系の普通列車熱海行き。

踏切からさらに150m程の所にある愛宕橋からは
晴れていれば富士山が見えますが、
当日は曇っていたため見えませんでした。
下を流れる山田川は山中城跡の北から旧東海道の北側を流れ、
この先で大場川に合流、
最終的には沼津市街を流れる狩野川につながっています。

愛宕橋
愛宕橋(後日撮影)

愛宕橋の70m先で左から来る道と合流します。静岡県道22号三島富士線です。
ここから南東300mの所で国道1号から分岐して来ました。

県道22号に合流
県道22号に合流

愛宕橋から400m、新町橋で大場川を渡ればようやく三島宿です。

新町橋
新町橋

もちろん晴れていればここからも富士山が見えます。

新町橋から見た富士山
新町橋から見た富士山(後日撮影)

江戸時代、新町橋の袂では晒し首が行われていました。
今は供養のための地蔵尊があります。

無縁法界地蔵尊
無縁法界地蔵尊

県道22号を進むと、町が次第に賑やかになっていきます。
そして、新町橋から600m、歌川広重の絵にも登場する三嶋大社があります。

三嶋大社
三嶋大社

ここを過ぎると町はさらに賑やかになります。
三嶋大社から250m、三島市役所別館1階に三島中央町郵便局があります。
今回はここで風景印を押してもらいます。

三島中央町郵便局
三島中央町郵便局

三島中央町郵便局の風景印
三島中央町郵便局の風景印

三島中央町郵便局の風景印は富士山、湧水、宿場の灯籠です。
切手は、ここを歩く1箇月前に発売された平成20年国際文通週間の三島です。

時刻は2時半。予定よりかなり早いです。もう1つ行きましょう。
ここから南へ900m行くと三島郵便局があります。

三島郵便局
三島郵便局

三島郵便局の風景印
三島郵便局の風景印

三島郵便局の風景印は
史跡楽寿園の小浜池と楽寿館と農兵節の踊りと富士山の遠望です。
今回はかもめ~る(野良時計)を使用しました。

さて、無事三島に着いたし、実はカメラの電池も切れたので、
これで終わりにして一旦帰宅。
三島宿の出口はもう少し先ですが、続きは後日です。

16:59 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年2月 2日

【十一】三島へ続く石畳 其の六 市の山新田・塚原新田編

題目坂を過ぎ、市の山新田交差点からバス通りに入りました。
この交差点の右側に出征馬記念碑があるのですが、
道路工事のため見られませんでした。
題目坂手前の跡地に碑があった法善寺は現在この少し先にあります。

市の山新田交差点
市の山新田交差点。右手前が題目坂方面。奥が京都方面。

市の山新田交差点から350m、集落を抜けた先に公民館があります。
そして、公民館のすぐ先に臼転坂(うすころげざか)の入り口があります。

公民館の先に臼転坂の入り口
公民館の先に臼転坂の入り口

臼転坂の入り口
臼転坂の入り口

この坂の名は、ここで牛が転がったとか
臼を転がしたとかいう言い伝えが由来になっているようです。
結構勾配があるので牛が転ぶのは分かりますが、
臼は転がさない方がいいと思います。

臼転坂
臼転坂

下長坂からずっと現代の舗装道路が続いていましたが、
ここは久し振りに昔の風情が残る道です。

臼転坂
臼転坂

臼転坂は300m程です。抜けた先でまたバス通りに合流しますが、
そこに市山新田交差点があります。
バス通りと、並行する国道1号がここで接近し、
市山新田交差点で接触しています。
交差店名は市山新田でも、ここの地名は塚原新田です。

臼転坂の出口
臼転坂の出口

塚原新田の集落の中を800m程進むと、道が左に曲がっています。
本来はここをまっすぐ進み150m先で国道1号と合流するのですが、
伊豆縦貫自動車道の工事のため合流地点が100m箱根寄りに移動しており、
今は少し手前のこの場所で国道の方に曲がるコースを取ります。

左へ曲がり国道1号へ
左へ曲がり国道1号へ

伊豆縦貫自動車道は沼津市から下田市まで、
名前の通り伊豆半島の中央を南北に貫く自動車専用道路です。
ここ塚原にもインターチェンジができるそうです。

塚原インターチェンジ建設中
塚原インターチェンジ建設中

左へ曲がると80m程で塚原新田交差点です。
ここを右へ曲がります。

塚原新田交差点
塚原新田交差点。右が京都方面。

元の合流地点には「箱根路」と刻まれた大きな石が残されたままです。

旧塚原新田交差点
旧塚原新田交差点。左が京都方面。奥が旧東海道箱根方面。

元の合流地点から250mの辺りから国道1号は並木道になります。

並木道の始まり
並木道の始まり。木立の間を進むのが国道1号の車道。

ここからは京都に向かって右脇に遊歩道が設けられています。
初音ヶ原石畳遊歩道です。
ここは江戸時代の石畳を再現しているわけではなく、
松並木と共に旧東海道の雰囲気作りをしているだけのようです。
この辺りの元の東海道は、現在の国道1号上り線の位置にありました。

初音ヶ原石畳遊歩道
初音ヶ原石畳遊歩道

遊歩道に入って200m程の所に錦田一里塚があります。
日本橋から28里(110km)です。
両側の塚が残っており、国指定史跡になっています。

錦田一里塚
錦田一里塚

一里塚の近くにまた「三島市眺望地点」があるのですが‥‥

初音ヶ原からの眺め
初音ヶ原からの眺め

やっぱり富士山は見えません。

遊歩道は900m程で終わり、五本松交差点に出ます。

初音ヶ原石畳遊歩道終点
初音ヶ原石畳遊歩道終点

ここはもう三島市街。三島宿江戸方見附まであと1kmです。

14:16 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年2月 1日

【十一】三島へ続く石畳 其の五 秋の花と実編

下長坂、通称こわめし坂を抜けて三ツ谷新田に出ました。
元和年間(1615年~1624年)に、この辺りに3軒の茶屋があり、
三つの茶屋→三ツ屋→三ツ谷と変化した地名だそうです。

下長坂から三ツ谷新田へ
下長坂から三ツ谷新田へ

集落では秋の花や実がたくさん見られました。

路上のフユサンゴ
路上のフユサンゴ

キダチチョウセンアサガオ
キダチチョウセンアサガオ

マンリョウ
マンリョウ

柿

ベゴニア
ベゴニア

下長坂の出口から1.2km程行くと道が左に曲がっていますが、
旧東海道はその右脇から分かれて直進します。
この分岐からすぐの所に右へ入る道があり、
「三島市眺望地点」という標識があります。
ちょっと行ってみましょう。
晴れていれば愛鷹山(あしたかやま)や富士山が見えるはずなのですが‥‥

三島市眺望地点からの眺め
三島市眺望地点からの眺め

全然見えません。(愛鷹山はうっすら見えますが)

気を取り直して旧東海道に戻ります。
三島市眺望地点の標識がある角のすぐ先で道は左右に分かれます。
旧東海道は右。
左へ行くと三ツ谷新田を通り抜けてきた広い道に戻ってしまいます。
ここを過ぎると坂小学校の裏です。

旧東海道は右。この先は坂小学校の裏。
旧東海道は右。この先は坂小学校の裏。

そこから約140m、法善寺旧跡碑を右に見つつ坂小学校の裏を進みます。
法善寺は元禄17(1704)年創建で、現在はこの先300m程の場所に移転しています。
道の左側にある坂小学校の校庭も法善寺の跡地です。

法善寺旧跡碑
法善寺旧跡碑

法善寺旧跡碑前の道
法善寺旧跡碑前の道。左は坂小学校。

坂幼稚園の手前で右に入るさらに細い道があります。
ここが題目坂です。
題目坂の名は玉沢妙法華寺への道を示す題目石に由来するそうですが、
現在題目石は法善寺に移されています。
玉沢妙法華寺は坂小学校のほぼ真南、直線距離で1.5kmの所にあります。

題目坂
題目坂

坂の入り口には七面堂旧跡碑があります。

七面堂旧跡碑
七面堂旧跡碑

七面堂は足利尊氏が建立したと伝えられるお堂ですが、
この碑の側面には東海道中膝栗毛で弥次さんが詠んだ

あしかわの ぶしょうのたてし なにめでて
 しちめんどうと いうべかりける

という歌が刻まれています。
多少時間に余裕はありますが、しち面倒は避けてとっとと行きましょう。

題目坂は長さ85m程で、その大部分が階段になっています。
坂が終わるとまた広い道に合流し、
その先50mの市の山新田交差点でバス通りと合流します。
この辺りから市の山新田です。

市の山新田の道標
市の山新田の道標

バス通りとの合流地点にある道標によれば、
目指す三島まではあと35町(3.8km)。残り1里(36町)を切りました。

17:26 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年1月31日

【十一】三島へ続く石畳 其の四 富士見平・笹原新田編

腰巻地区の石畳が終わり、国道1号に出ました。
しかし上長坂はまだまだ終わりません。100m先から続きがあります。

腰巻地区の石畳から国道へ
腰巻地区の石畳から国道へ

ここから浅間平(せんげんだいら)地区の石畳が始まります。
石畳がよく残っていた部分が43m、少し残っていた部分が135m、
ほとんど石畳が失われたいたため全面的に敷き直した部分が152m、
合わせて330mの石畳の道です。

浅間平地区石畳の入り口
浅間平地区石畳の入り口

浅間平地区石畳の出口
浅間平地区石畳の出口

この辺りは富士見平と呼ばれ、晴れていれば富士山がよく見えます。
浅間平地区石畳の出口に松尾芭蕉の句碑があります。

松尾芭蕉の句碑
松尾芭蕉の句碑

霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き

今日は曇っていて見えないので、面白いということにしておきましょう。

さて、ここも旧東海道が国道を横切っていますが、
横断歩道は離れた場所にあるので少し回り道になります。
国道の反対側に渡ると、まずは下り階段。
この先に上長坂地区の石畳があります。
(坂の名前は腰巻地区からずっと上長坂ですが)

富士見平から上長坂地区の石畳へ
富士見平から上長坂地区の石畳へ

ここは石畳がほぼ完全に残っていた部分が37m、
石畳が比較的よく残り、若干の石を補充した部分が116m、
残っている石がやや少なかった部分が52m、
石がほとんど残っておらず全面的に新しく敷き直した部分が165m、
合計370mです。

上長坂地区の石畳
上長坂地区の石畳

その先はまたちょっとだけ国道に出ます。
もともと箱根峠から三島へ向かってまっすぐ下る道があった所へ、
自動車の通行のため蛇行して勾配を緩くした国道1号を通したため、
こうして石畳と舗装道路が交互に続きます。

上長坂地区石畳の終わり
上長坂地区石畳の終わり

石畳風の歩道を150m程歩くと旧東海道は左へ分かれます。
旧道に入る部分は砂利道ですが、すぐに笹原地区の石畳が始まります。

この先笹原地区の石畳
この先笹原地区の石畳

この地区の石畳は1997年に整備されました。
石畳がよく残っていた部分が145m、
石は残っているが、痛みが激しく位置がずれた石も多かった部分が92.7m、
全面的に敷き直した部分が142.3m、計380mです。

笹原地区の石畳
笹原地区の石畳

農地の中の石畳を歩いていくと、左側に笹原一里塚があります。
江戸から27里(106km)です。
なんだか木がいっぱい生えています。
そばにある道標によると三島宿まで6km。
時刻はお昼少し前ですから、夕方までには余裕で間に合いそうです。

笹原一里塚
笹原一里塚

一里塚から50m程で国道1号を横切ります。
上長坂地区の石畳はここまでです。

笹原一里塚前から石畳終点を見る
笹原一里塚から石畳終点を見る

側溝の蓋に歌川広重の三島の絵がありました。

側溝の蓋に広重の三島
側溝の蓋に広重の三島

国道を渡ると笹原新田の集落です。

国道の向こうに笹原新田の集落
国道の向こうに笹原新田の集落

集落に入るといきなり急な下り坂になります。下長坂です。
集落入り口の解説板によると、平均20%、最大40%の急勾配だそうです。
箱根東坂の七曲りが10.1%でも結構きつかったので、
ここを上るのはかなり大変でしょう。

笹原新田の集落
笹原新田の集落

これが20%の勾配です。
一般的な4ドアの乗用車は
ホイールベース(前輪中心から後輪中心までの距離)が2.7mですが、
それがこの坂を走ると前輪と後輪の高低差が約50cmになります。
最急勾配の40%では高低差は約1mです。

20%の勾配
20%の勾配

これだけの急坂ですから、米を背負って上ると
背中からの熱や蒸気で蒸されて強飯になるということで、
「こわめし坂」の別名があります。
これでごはんが炊けるならエコロジー坂‥‥いえ、なんでもないです。

この下長坂の途中にかつて念仏石という石があったそうです。
横90cm、縦120cmの大きな石なのですが、
昭和20年代に大雨の土砂崩れで埋もれて以来行方不明だそうです。
1996年には発掘調査が行われましたが、それでも見つからなかったとか。
単純に上から土砂を被ったのではなく、石の下の土砂も流され、
思いの外深く地中に埋まっているのでしょうか。
或いは最初から無かっ‥‥いえ、なんでもないです。

三ツ谷新田の道標
三ツ谷新田の道標

笹原新田の集落から下長坂の急勾配を下ること600m、
2車線の広い道に合流する所が三ツ谷新田です。
ここは標高約300m。三島まであと5.3km。
標高846mの箱根峠から35mの三島まで
高さで3分の2くらい、距離で半分少々進みました。

06:24 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年1月30日

【十一】三島へ続く石畳 其の三 小枯木坂・山中新田編

大枯木坂から国道1号に出ました。

国道1号
国道1号

少し行くと三島市の標識が見えました。
箱根峠から函南町と三島市の境界を歩いてきましたが、
この先は完全に三島市に入ります。

三島市
三島市

大枯木坂の出口から200m、左に下りていく階段があります。
小枯木坂の始まりです。

小枯木坂の入り口
小枯木坂の入り口

ここから山中新田の集落まで願合寺地区の石畳が続いています。
1972年にこのうちの255m、1995年に188mを修復、
多くの石が失われていた残りの部分にも石を補充して、
全長721mの石畳の道で江戸時代の姿を再現しています。

小枯木坂の石畳と杉並木
小枯木坂の石畳と杉並木

小枯木坂に入ってすぐ、大きな石が横に並んだ部分があります。
一本杉石橋です。
この下に石を積んで作った水路があり、この大きな石が橋になっています。
箱根西坂にはこのような石橋が全部で9箇所ありましたが、
現在見られるのはここと村上石橋の2箇所だけです。

一本杉石橋
一本杉石橋

石畳の終わりに雲助徳利の墓があります。
杯と徳利の下に「久四郎」という名が刻まれています。

杉の大木の前に雲助徳利の墓
杉の大木の前に雲助徳利の墓

西国大名の剣道指南役だった松谷久四郎は、
大酒飲みのために事件を起こして国を追われ、箱根の雲助になりました。
剣の達人で読み書きもできるため雲助仲間から頼りにされていましたが、
酒の飲み過ぎで命を縮めてしまいました。
これがその久四郎の墓と伝えられています。

雲助徳利の墓
雲助徳利の墓

初めは石原坂の手前、山中新田の一里塚の辺りにあったのが、
酒飲みの墓なので、いつの間にかふらふらとここまで来てしまったのだとか。

この近くに村上石橋があるはずですが見落としました。
ここで石畳は終わりですが、石畳風の歩道が30m続き、
その先で国道1号に出ます。

小枯木坂から国道1号への出口
歩道橋右下が小枯木坂から国道1号への出口。国道は手前が京都方面。

ここは山中新田の集落です。
少しの間集落の中を進みます。

山中新田の集落
山中新田の集落

国道1号は250m先で左に曲がりますが旧東海道はそのまままっすぐ進みます。
この少し手前に、石原坂の念仏石の所で名前が出た宗閑寺があります。

国道は左へ。旧東海道は直進
国道は左へ。旧東海道は直進。

国道から分かれた道は石畳風の舗装が100m程続きます。

石畳風の舗装
石畳風の舗装

その先で、先程の国道1号が左からやって来ます。
自動車が通る国道1号は勾配を緩くするため蛇行していますが、
旧東海道はこうしてショートカットしています。
国道を渡ると山中城跡があります。

国道を渡ると山中城跡
国道を渡ると山中城跡

山中城は後北条氏の小田原防衛の拠点でしたが、
1590年の豊臣秀吉による小田原征伐で落城しました。
現在は国の史跡に指定され、公園として開放されています。

旧東海道から山中城跡へと続く階段
旧東海道から山中城跡へと続く階段

寄っていきたいのですが、三島に夕方までに着きたいのでまたにします。

この山中城跡のところから上長坂が始まります。
ここから350m先まで続く腰巻地区の石畳は1994年に整備されました。
このうち江戸時代の石畳がよく残っていたのは60m程で、
残りの部分は新たに石を補充して往時の姿を再現しています。
ここも願合寺地区同様両側に杉が植えられています。

山中城跡を過ぎた辺りの上長坂
山中城跡を過ぎた辺りの上長坂

石畳が終わり、道は一旦国道1号に合流します。
しかし、上長坂はこの先まだまだ続きます。

石畳の終わりから箱根方面を振り返る
石畳の終わりから箱根方面を振り返る

08:34 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年1月29日

【十一】三島へ続く石畳 其の二 石原坂・大枯木坂編

接待茶屋バス停前 山道の入り口
接待茶屋バス停前 山道の入り口

接待茶屋バス停のそばで国道1号を離れ、また山道に入ります。
ここに山中新田の一里塚があるはずなのですが、
いったいどこにあるやらわかりませんでした。
後で調べてみると、どうやらこの道の入り口左にある、
函南町接待茶屋と書かれた道標の後ろにあったようです。

道標の後ろが一里塚
道標の後ろが一里塚

そのすぐ先に徳川有徳公遺跡碑があります。
徳川有徳とは徳川吉宗のことで、
吉宗の法号(戒名)有徳院殿贈正一位大相国から来ています。
通常は「有徳院」とするはずで、
「徳川有徳」とする物は他に見たことがありません。

徳川有徳公遺跡碑
徳川有徳公遺跡碑

享保元(1716)年、紀州藩主から征夷大将軍になるべく江戸へ向かう吉宗は、
石割坂にあった茶店で休憩しました。
その際、茶店の主人が馬の世話をよくした事に吉宗が喜び、
永楽銭を与えました。
以後、紀州藩主は参勤交代の際この茶店で休み、
代金を永楽銭で支払うようになったと伝えられています。
また、その頃からこの茶店を「永楽茶屋」と呼ぶようになったそうです。

以上は2007年4月1日発行の「広報みしま」に書かれている事です。
しかし、永楽銭(永楽通宝)は
慶長13(1608)年に通用禁止になっていますから、
なぜここで永楽銭が出てくるのか、その理由を知りたいところです。

そして徳川有徳公遺跡碑の向かいには、兜石坂から移動された兜石があります。

兜石
兜石

兜を伏せたような形であること、
また、豊臣秀吉が小田原征伐の時、
休憩の際に兜を脱いでここに載せたと伝えられていることから
兜石と呼ばれています。
しかし、小田原征伐は天下統一に向けての最後の戦です。
一兵卒の頃ならともかく、既に大軍を率いる指揮官になっていた秀吉が
脱いだ兜をこんな所へひょいと置くとは考えにくいです。

では、山道を進みましょう。50m程行くと分岐点があります。

施行平への分岐点
施行平への分岐点

ここを右へ行くと施行平(せぎょうだいら)です。
とても景色がいいらしいのですが、夕方までに三島に着きたいので
またの機会にして先へ進みます。
旧東海道は左です。
この辺りからの坂が石原坂(いしわらさか)です。
資料によっては、途中で2つに分けて箱根方を石荒坂、三島方を石原坂、
或いは箱根方を石割坂、三島方を石原坂、合わせて石荒坂とされています。
先程の永楽茶屋があった場所について、
三島市の広報には「石割坂」と書かれていました。
どれも同じような名前なので、
時代の流れと共にだんだんあやふやになったのでしょう。

この辺りも左の函南町側だけ笹が密集して生えています。

左側に笹
左側に笹

石原坂を少し進むと笹藪の中に入っていく道がありました。

笹藪の中に入る道
笹藪の中に入る道

藪の中には「明治天皇御小休阯」と刻まれた石碑がありました。
明治元(1868)年、東京へ向かう明治天皇が休憩した場所で、
当時は「ビンカの茶屋」という茶屋があったそうです。
今は何もありません。(笹はいっぱいありますけど)

明治天皇御小休阯の碑
明治天皇御小休阯の碑

暫く行くと、念仏石という大きな石がありました。

念仏石
念仏石

大きな石の手前に「南無阿弥陀仏 宗閑寺」と刻まれた石があります。
この先にある宗閑寺というお寺で
行き倒れの人々を供養して石碑を建てたらしいのですが、
そばにある解説板にも詳しい事は書かれておらず、
なぜこの場所を選んだのかはわかりません。

この辺りもずっと石畳が続いています。
左の函南町側は相変わらず笹藪です。右の三島市側は檜でしょうか。

念仏石付近の道
念仏石付近の道

石原坂に入って700m程で、急に視界が開けます。

石原坂の終わり
石原坂の終わり

ここで石原坂は終わりです。このすぐ下を国道1号が通っています。
その先はすぐ大枯木坂です。再び森の中へ入っていきます。

再び森の中へ
再び森の中へ

森に入るとすぐ分岐です。旧東海道は左です。
この辺りはまた杉が植えられています。

また分岐
また分岐

ほんの2~3分歩いたらまたすぐに視界が開けました。

また視界が開ける
また視界が開ける

草に埋もれていますがここも石畳があります。
よく見ると、この辺りの石畳はへりがまっすぐに揃えられています。

へりが揃えられた石畳
へりが揃えられた石畳

大枯木坂に入って400m程で民家の庭先に出ます。

坂の先に民家が見える
坂の先に民家が見える

その先の小枯木坂までの200mは道がなくなっているので、
左に曲がって国道に出ます。

箱根旧街道迂回路の道標
民家の庭先に出た所にある道標。
左の「山中城跡」の所に箱根旧街道迂回路と書かれています。

国道に出て大枯木坂は終わりです。
次の小枯木坂までちょっとだけ国道1号を歩きます。

大枯木坂から国道1号へ
大枯木坂から国道1号へ

12:57 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年1月28日

【十一】三島へ続く石畳 其の一 兜石坂編

静岡県に入りました。函南町(かんなみちょう)です。
現在の静岡県は、江戸時代には伊豆、駿河、遠江の3つに分かれていました。
ここは伊豆国だった場所です。

これより静岡県
これより静岡県

箱根峠交差点から国道1号を京都方面に100m進むと大きな駐車場があります。
箱根エコパーキングです。

箱根エコパーキング
箱根エコパーキング

駐車場に向かう歩道は石畳風です。

石畳風の歩道
石畳風の歩道

歩道は駐車場の脇を通って向こう側に抜けています。
入り口には木製の門があり、「箱根旧街道」の札が掛かっています。
現在駐車場になっている部分を、以前は旧東海道が通り抜けていたのでしょう。
足下に埋め込まれた表示によると、ここは関所から3km、
三島宿までは12kmだそうです。

駐車場の脇を抜ける道
駐車場の脇を抜ける道

250m程で駐車場を抜けます。トイレがあるのがありがたいですね。
出口の脇には静岡県の観光地図があり、
日本語、英語、簡体中国語、繁体中国語、ハングル、スペイン語で
「静岡県へようこそ」と書かれています。

駐車場出口
駐車場出口

駐車場を出た所の道標には「箱根関所跡 2.5km」と書いてあります。
あれ?
後で調べたら、復元された関所から旧道経由で駐車場出口まで2.5km、
箱根関所資料館から国道1号経由で駐車場入り口まで3kmでした。

この場所は国道1号から分岐する道路がある交差点です。
旧東海道は分岐する方の道路を進みます。

駐車場の裏から続く東海道
駐車場の裏から続く東海道

ここから暫くの間、函南町と三島市の境界に沿って進むことになります。
後で地図を見て確認したら、駐車場を出て30m程の所で
境界を跨いで三島市側に入っていました。
300m程進むと、左側の藪の中へ入っていく道があります。

藪の入り口
藪の入り口

入り口の脇にある道標によると、京都まであと100里だそうです。

是より京都百里
是より京都百里

かつてこの辺りには茨(いばら)が生い茂っていたため、
茨(ばら)ヶ平と呼ばれていたそうです。

藪の奥に入ると東屋があり、道が左右に分かれています。
旧東海道は右。ここから兜石坂です。
笹のトンネルの中へ入って行きます。
この辺りで再び境界を跨いで函南町側に戻ります。

右が旧東海道
右が旧東海道

兜石坂に入りました。道は下り坂です。
落ち葉に隠れて見えづらいですが、ここも石畳が敷かれています。

兜石坂
兜石坂

暫く進むと右側に杉が植えられていました。
道の右側が三島市、左側が函南町です。

右に杉林
右に杉林

その先左側に兜石跡の碑があります。
かつてここに兜石と呼ばれる大きな石がありました。
昭和の初め、近くを通る国道1号の拡張工事の際に邪魔になり、
別の場所へ移動されました。
だから、兜石坂なのに今は肝心の兜石がありません。

兜石跡の碑
兜石跡の碑

その先で、旧東海道は一旦国道に出ます。
ここで兜石坂は終わりです。

兜石坂から国道に出る
兜石坂から国道に出る

ここは国道1号のヘアピンカーブが始まる所です。
このカーブが旧東海道を切り取るように通っているのですが、
交通量が多く、歩道橋も横断歩道も無いので向こうへ渡れません。

兜石坂から出た国道の向こう側
兜石坂から国道に出た所で道の向こう側を見る。
恐らく元はあそこへ道が続いていたのでしょう。

再び国道と交差する位置まで、止むなく国道を歩きます。

国道1号のヘアピンカーブ
国道1号のヘアピンカーブ

国道に入って200m弱、ヘアピンカーブを半分とちょっと進んだ所に
接待茶屋バス停があります。
そこから道路の向こうを見ると、何やら小さな屋根が見えます。

国道の向こうの小さな屋根
国道の向こうの小さな屋根

かつてこの辺りに、バス停の名前の由来となった接待茶屋がありました。
箱根東坂の割石坂にもありましたが、接待茶屋とは、
旅人に無償で食事や飼葉を提供する施設です。
困難な箱根越えを支援するために設けられた施設ですが、公営ではなく、
寺院や商人が運営資金を出していました。
そのため、資金難で閉鎖されては別人による再開の繰り返しだったそうです。
やがて鉄道が開通し、自動車も普及して、接待茶屋はその使命を終えますが、
閉鎖は意外と遅く1970年まで続いていたそうです。

国道の向こうにある小さな屋根の下には、
末期の接待茶屋を支えた鈴木家の2人の胸像があります。
しかし、こちらから近付く事はできません。
恐らくそこへ続く道がどこかにあると思うのですが、わかりませんでした。
聞く所によると、この胸像は鈴木家の関係者が個人的に建てた物のようです。
史跡として整備されないのはそのためでしょうか。
なお、接待茶屋については三島市のウェブサイトに詳しい解説があります。

そして、この接待茶屋バス停のそばから再び細い山道に入ります。

06:20 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年12月 7日

【補遺】生麦と鴨宮

ある夏の日の朝、私は横浜に行く用事があったのですが、
用事は朝のうちに済んでしまい、
9時半過ぎには何もやることが無くなってしまいました。
そこで、東海道スタンプラリーで失敗した部分の
やり直しをすることにしました。

まずは、神奈川宿の手前で違う道を歩いてしまった部分を歩き直すため、
電車を乗り継いでJR鶴見線国道駅へ向かいました。

旧東海道は川崎市から横浜市鶴見区へ入ると、
京急鶴見駅の下から鶴見銀座というあんまり銀座っぽくない商店街を抜け、
下野谷町入口という交差点に出ます。
交差する道は国道15号です。

下野谷町入口交差点
下野谷町入口交差点

川崎から神奈川まで歩いた日は、
ここを右に曲がって国道15号を進んでしまいました。
その時の記事はこちら。
【三】横浜に呑まれた神奈川 前編
ここは国道を横切って直進するのが正しい道です。

旧東海道は正面の赤信号の所へ入って行く。右は国道15号横浜駅方面。
旧東海道は正面の赤信号の所へ入って行く。右は国道15号横浜駅方面。

下野谷町入口交差点を直進すると道はすぐ右にカーブし、
国道15号と鶴見川の間を進みます。
この道が「生麦魚河岸通り」です。
すぐに鶴見線の国道駅の所で線路をくぐります。

生麦魚河岸通り。上の線路はJR鶴見線。
生麦魚河岸通り。上の線路はJR鶴見線。

国道駅は国道15号と旧東海道に跨るように設置され、
高架下が2本の道を結ぶトンネルのようになっています。

国道駅の高架下の通路。奥が旧東海道側。
国道駅の高架下の通路。奥が旧東海道側。

魚河岸通り沿いには魚屋さんがたくさんあります。
芙蓉が咲いています。夏の花です。

魚河岸通りの芙蓉
魚河岸通りの芙蓉

国道駅から1km進むと広い道と交差します。
この道は「東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線」と言いますが、
長いので「産業道路」と呼ばれています。
東京都大田区から始まり、この交差点を右へ200m進んだ所で
国道15号にぶつかって終わります。
その先、キリンビールの工場を左に見ながら500m余り行くと
生麦一丁目交差点で旧東海道も国道15号に合流します。

生麦一丁目交差点。前方に貨物線が見える。
生麦一丁目交差点。前方に貨物線が見える。

交差点の前方にJRの貨物線、通称高島線が見えます。
この線路は京浜東北線(東海道本線)の鶴見駅から
みなとみらい21地区の北にある東高島という貨物駅を通り、
根岸線の桜木町駅に通じています。
鶴見の先は二手に分かれ、一方は南武線経由で鶴見線に、
もう一方は品川-鶴見間の貨物線、通称品鶴線につながっています。
また、桜木町から先は根岸線経由で再び東海道本線に合流します。
貨物は乗り換えができないので、列車が縦横無尽に走れるようになっています。

交差点のすぐそばに生麦事件の碑があります。

生麦事件の碑
生麦事件の碑

イギリス人貿易商チャールス・リチャードソンは
馬で東海道を通行中に騎乗のまま島津久光の行列に乗り入れてしまい、
その場で無礼打ちにされます。
重傷を負ったリチャードソンはその場から逃げますが、
670m程逃げた所で落馬し、追って来た薩摩藩士にとどめを刺されました。
碑があるのはリチャードソンが絶命した場所で、
初めに斬られた場所は産業道路との交差点から200m余り国道駅寄りの所です。

私が訪れた時は8月21日に追悼記念祭を行うという張り紙がありましたが、
毎年やっているかは不明です。
なお、事件があったのは旧暦の文久2年8月21日で、
新暦では1862年9月14日になります。

この先は既に正しい道を歩いているので、
国道15号を少し戻って生麦駅から京急に乗り、横浜でJRに乗り換えました。
二宮と国府津で撮りそびれた写真を撮った後、鴨宮で下車。
小田原鴨宮郵便局へ向かいました。
ここは旧東海道から離れていますが、
旧東海道に因んだ風景印があると聞いたので行ってみることにしました。

小田原鴨宮郵便局
小田原鴨宮郵便局

小田原鴨宮郵便局の風景印
小田原鴨宮郵便局の風景印

今回はかもめ~る(無地)を使用しました。
風景印の図案は、左上に東海道五十三次のイメージと箱根の山々、
右上に新幹線電車、左下にだるま(オーディナリー型)自転車です。
2000年10月1日から使われているそうです。

この図案に使われている新幹線電車は、先頃引退した0系です。
私にとっても、東京と愛知県の豊橋の間を行き来するのに何度も乗った
思い出深い車輌です。

駅から郵便局までの道に、
「新幹線発祥の地」と書かれた小さな旗がたくさん掲げられていました。

「新幹線発祥の地」の旗
「新幹線発祥の地」の旗

昭和初期には東京-下関間に高速鉄道を建設する構想があり、
1939年頃から「弾丸列車計画」として具体化していきました。
これは既存の東海道・山陽本線に並行する形で高速列車対応の新線を建設し、
東京-大阪間を4時間半、東京-下関間を9時間で結ぶという計画でした。
当時鉄道省内部では既に「新幹線」という言葉が使われていたといいます。

弾丸列車計画は太平洋戦争の戦局悪化のため1943年に中止されますが、
それまでに取得した用地や完成したトンネルは
戦後の新幹線に活用されました。

新幹線建設の際、まずは取得済みの用地のうち、
綾瀬市南部から小田原市鴨宮まで約32kmの線路を先行して完成させ、
ここをモデル線として1962年からテスト走行を始めました。
そして、モデル線が既存の東海道本線と接近する鴨宮は、
テスト走行の拠点とされ車両基地が設けられました。

1964年に東海道新幹線が開業する際、モデル線はその路線の一部になり、
また車両基地は線路のメンテナンス基地になりました。
そして1974年には、当時の国鉄により新幹線発祥の地の碑が建てられました。

ところで、自転車はなぜ入っているのでしょう。

風景印をもらった後、今度は電車に乗らず、国道1号まで歩きました。
そして、小田原宿の手前で道を間違えた部分の歩き直しをしました。
酒匂川を渡った先の、ほんの200m程です。
これで歩き直しは完了。バスで小田原駅へ向かいました。

帰りは町田まで小田急ロマンスカーに乗りました。
運良く展望席が取れたのですが、いざ乗ってみると私の席に先客がいました。
相手は外国人で、隣に連れがいるので席を替わって欲しいと
英語で言っています。

その人の本来の席を見ると、展望席ではない普通の席です。
私はわざわざ展望席を選んで切符を買ったのでお断りすることにしましたが、
聞いてわかる外国語も話すとなるとなかなか難しいものです。
是非ともこちらの事情を説明したいのですが、
英語で何と言ったらいいのか私にはわかりません。

結局、こちらの立場を日本語で二度主張したら相手が諦めました。
融通の利かない奴になってしまいましたね。
当然の権利を行使しただけなのに、
何だか日本の印象を悪くしてしまったようで後味が悪いです。
もっとも、英語が通じなかったと思われただけかも知れませんが。

14:44 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年12月 2日

【十】箱根アタック 其の八 箱根峠編

箱根宿を出て箱根峠を目指します。
標高725mの箱根宿から846mの箱根峠まで、あと121m登らなければなりません。
ここからまた山道が始まります。
坂の入り口には石仏が並んでいます。

箱根峠への道の始まり
箱根峠への道の始まり

まずは向坂(むこうさか)です。
江戸時代の杉並木と石畳が残っています。

向坂
向坂

うぐいすのさえずりが聞こえました。

うぐいすの姿も見えたのですが、暗くて撮れませんでした。

次は赤石坂です。国道1号をくぐります。
立体交差ですが国道1号との行き来も可能です。

国道1号と交差する赤石坂
国道1号と交差する赤石坂

続いて釜石坂です。両側に笹が生い茂っています。

釜石坂
釜石坂

今度は風越坂です。引き続き杉と笹と石畳です。

風越坂
風越坂

見事な杉の巨木がありました。

杉の巨木
杉の巨木

この太さは確実に樹齢300年を超えています。
間違いなく江戸時代からある木です。

杉の巨木の根元
杉の巨木の根元

そして挟石坂です。
とても急な坂で、現在はここだけ階段になっています。

挟石坂
挟石坂

上から見た挟石坂
上から見た挟石坂

箱根宿の京方見附から約600m、石畳の坂を抜けるとまた国道1号に出ます。
ここは箱根峠インターチェンジの近くで、
旧東海道から出て来た所がちょうど
国道1号下り線から箱根新道への分岐点です。

国道1号から箱根新道への入り口
国道1号から箱根新道への入り口

ここで箱根新道への道を横断して、国道1号を京都方面へ歩きます。
歩道が無いので自動車専用道路のように見えますが、
道交法上は歩いても問題ありません。
(箱根新道は歩行者進入禁止です)
ただし、車が高速でビュンビュン通過します。
今日は霧が出ているので、真っ白い視界に突然車が現れます。

霧の国道1号
霧の国道1号

国道1号上り線から箱根新道へのアプローチをくぐると、
今度は箱根新道から国道1号への出口があります。
1つの出口から国道1号の東京・大阪両方面へ行けます。

箱根新道出口付近。右は国道1号。
箱根新道出口付近。右は国道1号。

箱根新道からの出口を過ぎるとすぐに左へ分岐する上り坂があります。
箱根くらかけゴルフ場の看板が出ています。
旧東海道はこの坂を上ります。

左に分岐する坂道
左に分岐する坂道。背後に箱根新道からの出口があります。

私がこの坂を上り始めた時、
箱根新道から飛び出してきた飲料メーカーのトラックが
猛スピードで坂を駆け上がって行きました。

この坂を120m程上ると道が左右に分かれます。
旧東海道は右。左はゴルフ場です。

旧東海道は右。左は箱根くらかけゴルフ場。
旧東海道は右。左は箱根くらかけゴルフ場。

分岐点を過ぎると下り坂になります。
前方に箱根峠交差点が見えてきました。

前方に箱根峠交差点
前方に箱根峠交差点

この箱根峠交差点の50m程手前が神奈川県と静岡県の境界です。

神奈川県はここまで。そして関東地方もここまで。
神奈川県はここまで。そして関東地方もここまで。

ここで箱根町のみならず神奈川県、そして関東地方も終わりです。
江戸時代の国名で言うと、相模国から伊豆国に入ります。
日本橋から100km。休み休みとはいえ、まあよく歩いたものです。
でもまだ全体の5分の1ですけどね。

08:31 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年12月 1日

【十】箱根アタック 其の七 箱根宿編

芦ノ湖の畔に出ると、正面に遊覧船乗り場があります。
芦ノ湖の遊覧船は、伊豆箱根鉄道(西武系)が運航する芦ノ湖遊覧船と、
箱根観光船(小田急系)が運航する箱根海賊船があります。
旧東海道が湖畔に出た所にあるのは箱根海賊船の乗り場です。

手前は箱根海賊船「フロンティア」、奥は芦ノ湖遊覧船「第二こま」。
手前は箱根海賊船「フロンティア」、奥は芦ノ湖遊覧船「第二こま」。

箱根海賊船は現在バーサ、ロワイヤル、ビクトリー、フロンティアの
4隻が就航しています。
このうちフロンティアは19世紀にアメリカの河川で使われた蒸気船を、
他の3隻は17~18世紀のヨーロッパの軍艦をデザインモチーフにしています。
それがなぜ「海賊船」と銘打っているのかは謎です。

なお、フロンティアは2009年春に引退するそうです。

海賊船乗り場の前から芦ノ湖畔の国道1号を進みます。
ここも立派な杉並木です。

芦ノ湖畔の杉並木
芦ノ湖畔の杉並木

海賊船乗り場から200m余り、
歩道橋に「沼津27km 三島20km」の標識が掲げられています。
これは国道経由の距離で、旧街道は三島まで15kmくらいです。
その分坂がきついということですね。

遊歩道入り口の所にある歩道橋
遊歩道入り口の所にある歩道橋

この歩道橋の所から旧東海道は国道1号と並行する遊歩道になっています。
この遊歩道の入り口に
江戸から24里(94.2km)の一里塚があるのですが見落としました。

国道1号と並行する杉並木
国道1号と並行する杉並木

箱根八里の歌にも登場する杉並木は、もちろん江戸時代からありました。
今歩いている箱根宿手前と、この先箱根宿を出た辺りは、
江戸時代からずっと残されている杉並木です。
遊歩道は500m程続き、また国道1号に戻ります。

遊歩道の終わり
遊歩道の終わり

特に案内はありませんが、この遊歩道の終点あたりが
箱根宿江戸方見附があった場所のようです。
旧東海道はここで国道と交差して関所へ向います。
しかし、国道を渡った先は現在神奈川県立恩賜箱根公園の駐車場になっており、
ここから140m程、道がありません。

この先駐車場
この先駐車場

国道1号を渡り、駐車場の外側を歩いていきます。
駐車場を通り過ぎると、道が2本あります。
右は箱根関所資料館、左は関所の江戸口御門に続いています。
左の道を行きましょう。

関所への道
関所への道

駐車場から150m程で関所です。
それでは通関です。

箱根関所江戸口御門
箱根関所江戸口御門

ちょっとカメラ確認させてくださいね。
あー、だめですよこんなの撮っちゃ。橋も港も撮影禁止ですよ。
あれ、この本は何ですか。
蟹工船‥‥
ちょっとこっちへ来てください。別室でお話があります。

困るんだよねーこういうの。あっちこっち写真撮っちゃってさぁ。
何が目的なの。こういうの漏れたら大変な事になるんだよ。

愛知県東部の方言である三河弁は非常にのんびりした言葉なのですが、
関東の人が聞くと怒っているように聞こえることがあるそうです。
今回も三河弁で暢気に受け答えしていたら勘違いされたようです。
怒っていないのに怒っていると思われるのは非常に不快です。
結果的にはその事が原因で本当に怒ってしまうので、
やっぱり怒っているじゃないかと言われるのがさらに不快です。
いつの間にか係員と怒鳴り合いの喧嘩になっていました。
そこへ、騒ぎに気付いた別の係員がやって来て言いました。

明治2年に関所は廃止になったから今は特に問題ないよ。

箱根関所京口御門
箱根関所京口御門

そういうことです。

関所を出て、土産物屋が並ぶ道を100m程進むと国道1号に突き当たります。
左が東京方面、右が目指す京都方面です。

国道1号に突き当たる
国道1号に突き当たる

国道1号に入ると道は暫くまっすぐです。
国道を京都に向かって160m程進むと、左側に箱根町郵便局があります。
宿場町に因んだ和風の局舎です。
ここでお目当ての風景印を押してもらいます。

箱根町郵便局
箱根町郵便局

箱根町郵便局の風景印
箱根町郵便局の風景印

箱根町郵便局の風景印は芦ノ湖と富士山です。
切手は「神奈川県の花」のあじさいです。
背景に芦ノ湖と富士山が描かれていますが、
梅雨時に咲くあじさいと富士山が同時に見られたら幸運ですね。

箱根宿が1618年に芦川宿を拡張する形で設置されたことは既に述べましたが、
その際、新たな集落を作るべく小田原、三島両宿から住民が移住しています。
国道1号に出てからこの郵便局の辺りまでは、
小田原宿からの移住者が住んでいた地域です。

厳しい残暑の中(途中から小雨)、小田原から歩いてきたこの日は、
ここで一旦終わりにして帰宅しました。
続きは晩秋の11月上旬なので、この先急に秋の風景になります。

箱根町郵便局から200m程行くと箱根関所南交差点です。
ここで左から、神奈川県道75号湯河原箱根仙石原線、
通称「椿ロード」が合流します。
湯河原から大観山を越えて来た道です。
ここから今歩いてきた関所方面が国道1号との重複区間で、
海賊船乗り場の先にある大芝交差点で国道と分かれて仙石原へ通じています。
この箱根関所南交差点の所に駅伝広場があり、石碑が設置されています。
ここは東京箱根間往復大学駅伝競走、通称箱根駅伝の、
往路ゴール、復路スタート地点の近くです。

駅伝広場の石碑
駅伝広場の石碑

この辺りまで来ると観光客相手の店は少なく、住宅街の様相を呈しています。
郵便局を過ぎてからこの辺りまでが、
三島宿からの移住者が住んでいた地域です。
箱根関所南交差点から160m先の交差点で旧東海道は右に曲がり、
国道1号を離れます。

県道737号分岐点
県道737号分起点

ここは神奈川県道737号長尾芦川線の終点です。
県道737号は芦ノ湖の北の仙石原から芦ノ湖西岸を通り、
芦ノ湖の南にあるここ芦川に至る道です。
ここから少しの間県道737号を進みます。道の両側は住宅地です。
この辺りが箱根宿設置前に芦川宿があった地域です。
この先箱根西坂を歩くにあたり、駒形神社で道中の無事を祈願しました。
県道737号に入って170m程の所にあります。

駒形神社
駒形神社

駒形神社の先30mの所で県道は右にカーブしており、
そこから左に細い道が分かれています。
ここで箱根宿は終わりで、左の細い道が旧東海道です。

この辺りに箱根宿京方見附があった
この辺りに箱根宿京方見附があった

では、国境の箱根峠を目指しましょう。

06:43 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年11月30日

【十】箱根アタック 其の六 白水坂・権現坂編

於玉坂を抜けた所で県道732号を横断しますが、
湯本の三枚橋からのお付き合いだったこの道とはこれでお別れです。
そばに「旧街道石畳」という名前のバス停があります。
県道を横断すると白水坂が始まります。

白水坂の入り口
白水坂の入り口

雨が本降りになってきたので傘を差しました。

白水坂
白水坂

畑宿の後の西海子坂で斜めの排水溝を紹介しましたが、
ここには縦方向の排水溝があります。
写真右上から下りてくる道に沿って溝が作られています。
道はここで左(写真手前)に曲がりますが、
水はまっすぐカーブの外側へと流されます。

縦の排水溝
縦の排水溝

私は坂を登っているので、ここで右に曲がります。

白水坂に入ってから10分程歩いたでしょうか。
道の右側から大きな石が張り出しています。
何も解説がありませんが、どうやらこれが「変更石」のようです。
豊臣秀吉が小田原攻めの際に、九頭竜弁才天のお告げを受けて
この場所で引き返したと言われています。

大きな石
大きな石

白水坂の名も「城を見ず」に由来するという話があるようです。
石の脇には「天ヶ石坂」と書かれた石碑があります。
こちらは天蓋のような石があったかららしいのですが、
一体どんな石でしょう。
道の上に覆い被さるような石だったのでしょうか。

グーグルで「天蓋」を検索したら、
通販のサイトに「お姫様ベッド」と書いてありました。
やっぱりその印象が強いようですね。

では、天ヶ石坂を進みましょう。

大きな石の所から10分程歩くと八町平に出ます。
この先にある権現坂の別名が八町坂なので、その上の広場という意味でしょう。
馬子や雲助たちが休憩した場所だそうで、現在は箱根馬子唄の碑があります。

箱根馬子唄の碑
箱根馬子唄の碑

箱根八里は馬でも越すが こすに越されぬ大井川

すぐそばに二子山についての解説板があり、
「前方に見えるコブのような山は‥‥」と書かれているのですが、
周りは木が生い茂り、山など見えません。
後で地図を見たら、私のように小田原方面から来ると
どうやら二子山は後方に見えるようです。
(そこまでは考えなかった)

この先、元箱根までは芦ノ湖に向かって下り坂になります。
5分程歩くと舗装道路と交差します。

湯坂道との合流点
湯坂道との合流点

右から来る舗装道路は湯坂道です。
湯坂道は小田原から元箱根まで、東海道より少し北を通る道です。
元は湯坂道が東海道だったのですが、
江戸時代に入って交通量が増えたため、
1618年に湯坂道より勾配の緩い須雲川沿いのルートが開かれました。
ここから少しの間、東海道と湯坂道が重なっています。
東海道・湯坂道はこの交差点を直進です。
ここからの下りが権現坂、別名八町坂です。

権現坂。東海道かつ湯坂道。
権現坂。東海道かつ湯坂道。

100m程行くと道が3方向に分かれています。
江戸時代の東海道は直進、湯坂道は左です。
なお、ここを右へ行くと、200m程で畑宿入口交差点です。
畑宿入口交差点は、三枚橋交差点で国道1号から分かれた県道732号が
再び国道1号に合流する交差点です。

東海道は直進。湯坂道は左。
東海道は直進。湯坂道は左。

この湯坂道との分岐点の右に、坂の名前の由来である箱根権現があります。
勾配はかなり急です。
遠くから自動車の音が聞こえます。元箱根はもう目前です。

権現坂の急勾配
権現坂の急勾配

分岐点から100m少々、元箱根の標識がありました。
「この下、車多し危険、下りないでください。」と書かれています。
下を覗くと車道が見えます。土手には階段もあります。
以前はここから車道に下りるようになっていたようです。

もうすぐ元箱根
もうすぐ元箱根

現在はそのすぐ先の杉並木歩道橋で車道を渡ります。
木製の欄干を持つ歩道橋です。

杉並木歩道橋
杉並木歩道橋

歩道橋を渡れば元箱根です。
車道を越えた先に遊歩道があります。

箱根宿は1618年、東海道が湯坂道から須雲川沿いのルートに変更された際に
既存の芦川宿を拡大する形で設置されました。
元箱根は箱根宿設置以前からあった古い町です。

杉並木歩道橋から車道と遊歩道を見下ろす
杉並木歩道橋から車道と遊歩道を見下ろす

しかし、遊歩道は60m程で終わってしまいます。
遊歩道の終わりにケンペル・バーニーの碑があります。

ケンペル・バーニーの碑
左がバーニーの碑。右がケンペルとバーニーを讃える碑。

1690年にオランダ使節の一員として来日した
ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルについては、
品川宿の先にある鈴ヶ森刑場の所で紀行文の一節を紹介しました。
ケンペルは1683年から1695年にかけて、実に12年にも及ぶアジア大旅行で
膨大な資料を集めました。
箱根でも多くの植物を採集したそうです。
帰国後には、まず主にペルシャについて書かれた「廻国奇観」を出版。
続いて日本についての本を執筆しますが、
残念ながら草稿を書き上げた段階で死去しました。
1727年、ケンペルの遺稿を元に「日本誌」がロンドンで出版されます。
これがヨーロッパの知識人たちに影響を与え、
19世紀のジャポニズムに繋がっていきます。

一方、シリル・モンタギュー・バーニーは、
オーストラリア出身のイギリス人貿易商です。
1886年に来日し、1920年には芦ノ湖の畔に別荘を建てました。
そして、国道1号に面した別荘の庭先に、
箱根の自然を讃えた石碑を置き、自然保護を訴えました。
碑文にはケンペルの「日本誌」の序文が引用されています。

バーニーは、新興国である日本が、
先進国と同じ過ちを犯す事を懸念していたのではないでしょうか。
恐らくイギリスは、18世紀から19世紀にかけてのの産業革命と引き換えに
何か大事な物を失ってしまったのでしょう。

太平洋戦争を経験してもなお親日家であり続けたバーニーは
1958年に横浜で死去。横浜の外国人墓地に埋葬されたそうです。

1975年、イギリスのエリザベス女王が来日した際、
宮中晩餐会におけるスピーチで「日本誌」の序文を引用したといいます。
すると、忘れられていたバーニーの碑が再評価されるようになり、
1986年にはケンペルとバーニーの功績をたたえる碑が
箱根町によって建てられました。

そんな逸話の残るバーニーの碑には、こう刻まれています。

お前らいい物持ってんだからちゃんと守ってけよ。
頼むから、ほんと、マジで。

ところで、箱根八里の歌にも登場する中国の函谷関には、
かつて2層の楼閣と、3重に張り巡らされた高さ66mの城壁があったそうです。
この貴重な歴史的建造物は1950年代に解体されました。
なんでも、当時中国は急激に鉄鋼を増産しようとしていて、
建物に使われていた煉瓦を製鉄用の炉の材料に使いたかったのだとか。
しかも、そうして作られた鉄鋼は話にならない程の粗悪品で、
結局使い物にならなかったそうです。

新興国の気持ちなど先進国にはわからないのでしょうか。
新興国は本当に立ち止まって考える余裕など無いのでしょうか。
そうやって歴史は繰り返し、貴重な自然や文化遺産が失われるのでしょうか。

私の好きな白帝城は三峡ダムの開発で水没すると思っていたら、
どうやら孤島にはなるものの水没は免れたようです。
中国が先進国になった時、新興国にどんな忠告をするのでしょうか。

さて、続きを歩きましょう。
ここからしばらく車道を歩きます。歩道はありません。
この道は元は国道1号だったそうですが、
今の国道は畑宿入口交差点から芦ノ湖寄りを通る新ルートになっています。
ちょうど遊歩道から車道に出た辺りで、左側から湯坂道が下りてきます。
湯坂道はここで終わりです。
道の両脇に杉の大木が並んでいます。どの木も樹齢300年以上でしょう。

杉並木。ここが湯坂道との合流点。
杉並木。ここが湯坂道との合流点。

車道に出て300m、突き当たりで国道1号にでます。
正面に遊覧船乗り場が見えます。

国道1号に出る。正面は遊覧船乗り場。
国道1号に出る。正面は遊覧船乗り場。

では、関所を目指して芦ノ湖の畔を歩きましょう。
箱根宿江戸方見附までは800m程です。

07:26 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年11月29日

【十】箱根アタック 其の五 樫の木平・笈平編

橿木坂の分岐点から樫の木平への階段を上らず元箱根への道を選びましたが、
結局次の階段を上って樫の木平に来ました。
西海子坂を抜けて県道の七曲りを橿木坂へ向かう頃までは
残暑厳しい快晴の下汗だくで歩いていたのですが、
ここまで来たらだいぶ雲が出てきました。
それでも彼方に小田原の市街地が見えています。
今日は標高26mの小田原から108mの湯本、400mの畑宿を通って、
標高600mの樫の木平まで来ました。
目指す箱根は、芦ノ湖の湖面が標高723m。まだ100m上らなければなりません。

樫の木平からの眺め
樫の木平からの眺め

それでは、ここにある見晴茶屋で食事と休憩です。

見晴茶屋
見晴茶屋

ざるとろろそばです。薬味にしその実が入っているのが珍しいです。
そばのつけ汁にうずらの卵が入っています。
うずらの卵生産量日本一の豊橋市で生まれた私は普通だと思っていましたが、
関東では珍しいみたいです。

見晴茶屋のざるとろろそば
見晴茶屋のざるとろろそば

暇だったようでサービスで色々付けてくれました。

サービス品の数々
サービス品の数々

栗ごはん、しそ寒天、モロヘイヤ、なすとこんにゃくの味噌炒めです。

さて、旧東海道に戻りましょう。
この辺りも引き続き須雲川自然探勝歩道なのだそうです。
元箱根まであと3km程です。石畳が続いています。
少し雨が降ってきましたが、生い茂った木のおかげでほとんど濡れません。

元箱根への道
元箱根への道

15分程歩いたでしょうか、猿滑坂に入りました。
猿滑坂は途中から階段になり、一旦県道に出ます。

猿滑坂
猿滑坂

横断歩道で県道を渡り、さらに階段を上ります。
新編相模国風土記稿には、
「殊に危険、猿猴といえども、たやすくのぼり得ず、よりて名とす」
とあるそうです。坂の入り口の解説板によれば、
昔は県道を渡る横断歩道の辺りが難所だったようです。
県道ができて現在のように階段になったのでしょう。

猿滑坂の途中で県道を渡る。
猿滑坂の途中で県道を渡る。

県道を渡った後の階段は茂みの中を抜け、
県道より高い位置の歩道へと続いています。
この高い歩道も70m程で終わり、再び階段で県道の脇へ下ります。

県道より高い位置の歩道
県道より高い位置の歩道

県道に下りて150m進むと追込坂の入り口があります。
入り口の解説板によると、一応「おいこみざか」と仮名が振ってありますが
新編相模国風土記稿には「ふっこみざか」とあり、
どちらが正しい読みなのかわからないそうです。

追込坂の入り口
追込坂の入り口

追込坂の入り口の先、県道沿いに笈平(おいのたいら)が続いています。
親鸞上人が弟子の性信房と別れた場所だそうです。
追込坂の入り口の脇は小さな公園のようになっており、
そのまま県道を200m進むと箱根旧街道資料館と甘酒茶屋があります。

追込坂は緩やかな坂です。
この道を進んでも資料館と甘酒茶屋の裏を通ります。
途中にあった立て札によると、猪が出ることがあるそうです。
猪も出ないようでは山として寂しいと思いますが、
山道で猪に遭遇したいとは思いません。勝手なものです。

追込坂
追込坂

箱根旧街道資料館の裏まで来ました。
手前の木は楓ですね。秋には紅葉が楽しめそうです。

箱根旧街道資料館の裏
箱根旧街道資料館の裏

杉林の中、石畳が続きます。

箱根旧街道資料館を過ぎた辺りの石畳
箱根旧街道資料館を過ぎた辺りの石畳

明るい所へ出ました。

明るくなった
明るくなった

そうかと思うとまた暗い道になりました。
この辺りが於玉坂らしいのですが、
どこからどこまでが於玉坂なのかはよくわかりません。

伊豆、大瀬村の百姓太郎兵衛の娘お玉が奉公先の江戸から帰郷する際、
道中手形を持っておらず、関所破りをしますが、捕らえられ処刑されました。
1702(元禄15)年のことだそうです。
「入鉄炮出女」という言葉で知られる関所の本来の目的からすれば、
百姓の娘をわざわざ処刑する必要は無いように思えます。
ただ、関所破りが違法である以上無視はできないわけで、
こういう事が時々あるのが、
本当の出女に対する抑止力にはなっていたのかもしれません。

この坂はそんな逸話の残るお玉に因んで命名されたようです。
向こうにまた明るい所が見えます。

於玉坂
於玉坂

県道に出ました。箱根旧街道資料館の裏から400m程の所です。

県道に出る
県道に出る

道端に立てられた大きな札に
「箱根旧街道 元箱根一、二〇〇米」と書かれています。
だいぶ近付きました。

06:06 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年11月28日

【十】箱根アタック 其の四 畑宿・橿木坂編

畑宿に着きました。ここは間の宿です。
湯本から元箱根まで約7kmの山道を休まず歩くのは大変です。
畑宿には大名の休憩に備えて本陣もありましたが、
間の宿であり、旅人の宿泊は禁じられていたため旅籠はありませんでした。

畑宿の入り口で振り返ると、右に大澤坂の出口、
左に湯本・小田原方面への県道732号が見えます。
車道は畑宿に入ると狭くなり、1車線になっています。

畑宿の入り口
畑宿の入り口

畑宿には寄木細工のお店がいくつもあります。
これは、あるお店の店先に置いてあった桂神代です。
寄木細工の材料の1つで、黒色系の有色材です。
このお店は2階が工房で見学もできるようですが、先を急ぎます。
(こればっか)

桂神代
桂神代

畑宿の集落内も道はずっと上り坂です。

畑宿
畑宿

300m行くと県道は右に急カーブを描いています。
歩行者は正面の木立の左脇へ入っていく事ができます。
ここで旧街道は畑宿を出ます。

畑宿の出口
畑宿の出口

県道から70m程でしょうか。畑宿の一里塚があります。
これは上方に向かって左側の塚です。

畑宿一里塚 左の塚
畑宿一里塚 左の塚

そしてこちらが右側の塚です。

畑宿一里塚 右の塚
畑宿一里塚 右の塚

あれ、確か程ヶ谷と戸塚の間にある品濃の一里塚の説明板に
両側の塚が残っているのは神奈川県内で唯一と書いてありましたよ。
ここはまだ神奈川県ですよね。
ここ畑宿の一里塚の説明板には
「石畳の両側に残る畑宿の一里塚は、江戸日本橋から二十三里目に当たり、
東海道中唯一その形態を留めるものです。」
と書かれています。県内どころか東海道中唯一だそうです。

とにかく、ここが日本橋から23里(90.3km)の一里塚です。
一里塚の間の道には石畳が敷かれ、森の中へ続いています。

一里塚付近の石畳
一里塚付近の石畳

一里塚から100m、森の中の石畳ですが、両脇に欄干が見えます。
実はここ、県道732号を跨ぐ橋で、下から車の音が聞こえます。

県道732号を跨ぐ橋
県道732号を跨ぐ橋

この辺りの坂は西海子(さいかち)坂という名前です。
この写真は坂の上から下の方を向いて撮りましたが、
中央に左下から右上に向かって斜めの石の列があります。
これは画面外右側の谷へ向かって排水するための工夫です。
箱根の石畳のあちこちで見られますが、ここは特にわかり易いです。

石畳の排水溝
石畳の排水溝

西海子坂は階段で県道に出て終わります。

西海子坂の出口
西海子坂の出口

県道はここから「七曲り」と呼ばれる区間に入ります。
車道は長さ1.2km、10.1%の上り勾配で、途中2つの直角カーブを挟んで
11回のヘアピンカーブで樫の木平へ上っていきます。
歩道は石畳風になっています。

七曲りの石畳風歩道
七曲りの石畳風歩道

1つ目のヘアピンを過ぎると、歩道は2つ目のヘアピンを通らず
この階段でショートカットです。

2つ目のヘアピンをショートカットする階段
2つ目のヘアピンをショートカットする階段

その先、2つの右直角カーブを挟んで3つのヘアピンを通ります。
この間、県道732号は併走する箱根新道と3回交差します。
そして、4つ目のヘアピンカーブの所から左脇へ階段が出ています。
これこそ、箱根八里最大の難所と言われる橿木坂です。

橿木坂の入り口
橿木坂の入り口

坂と言っても現在は階段になっています。
新編相模国風土記稿には「峭崖に橿樹あり、故に名を得」とあるそうです。
それでは、脳内BGM「箱根八里」のリズムに合わせて上りましょう。

県道がヘアピンカーブで1往復して150m程の距離で上る高低差を
橿木坂はほんの30m程の階段で上ってしまいます。
そのまま次のヘアピンに沿って半分程進むと一旦県道に出ますが、
これで終わりではありません。
県道を10m進めばまた階段です。

橿木坂の続き
橿木坂の続き

「東海道名所日記」には橿木坂について次のような記述があるそうです。

けわしきこと、道中一番の難所なり。おとこ、かくぞよみける。
「橿の木のさかをこゆれば、くるしくて、どんぐりほどの涙こぼるる」

それじゃ橿木坂じゃなくて椚坂です。

50m程階段を上ると分岐点に出ます。
橿木坂の始まりからここまでの130mで、高低差が40m程あるようです。
オフィスビル10層分を階段で上がったようなものです。
昔勤めていた職場では6階の仕事場まで階段で上がりましたが、
その前の職場で12階の事務室まで行くのはさすがにエレベーターでした。
右下には県道のヘアピンカーブが見えます。
まっすぐ階段を上れば樫の木平、左は目指す元箱根方面です。

階段を行けば樫の木平。左は元箱根。
階段を行けば樫の木平。左は元箱根。

私の行く道はもちろん左。先を急ぎましょう。

元箱根への道
元箱根への道

30m程行くと右手に階段があり、見晴茶屋の看板が出ていました。

見晴茶屋への階段
見晴茶屋への階段

そう言えば、お昼ご飯がまだです。やっぱり寄っていきましょう。

16:09 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年11月27日

【十】箱根アタック 其の三 割石坂・大澤坂編

発電所からの坂道を上って、また県道に出ました。
すぐ先に須雲川自然探勝歩道の続きが見えます。

県道に出た所
県道に出た所

女転し坂が通れずしばし外れていた旧東海道に、ここで戻ります。
ここから始まるのが割石坂です。

割石坂の入り口
割石坂の入り口

割石坂は、曾我兄弟の弟、五郎時致が、
仇討ちの前に路傍の巨石で刀の試し切りをしたことからこの名があります。
石なんか切ったら仇討ちの前に刃こぼれしてしまいそうですが、
どうやら仇は討ったようなので問題はなかったのでしょう。

大磯で虎御前の話をした時、曾我兄弟の仇討ちも話題に上りました。
曾我兄弟は父親の仇である工藤祐経を討ちましたが、
兄の十郎祐成はその場で斬り殺され、五郎も捕らえられました。
源頼朝は五郎の助命を考えていましたが、
工藤祐経の遺児に請われて結局は斬首を申し渡します。

この仇討ちというシステムは、仇を討つ事によって
今度は自分が仇になるという矛盾をはらんでいます。
しかし、それはあくまで現代人の考え方で、
当時の武士は特に矛盾など感じていなかったのかもしれません。
現代人の行いも、後の世の人々から見れば、
おかしな事が数多くあるのでしょうか。

割石坂は県道と並行して300m程続きます。
杉林の中に石畳が敷かれています。

割石坂
割石坂

割石坂には一部江戸時代の石畳が残っています。

江戸時代の石畳
江戸時代の石畳

割石坂を抜けて再び県道に出る辺りに、かつて接待茶屋がありました。
接待茶屋は、旅人に無償で食事や飼葉を提供する施設です。
箱根峠を越えた先にも同様に接待茶屋がありました。

割石坂の出口
割石坂の出口

割石坂から出て県道を少し歩くと、左側に大澤坂の入り口があります。

大澤坂の入り口
大澤坂の入り口

大澤坂は、いきなり急な下り坂で始まります。

急な下り坂
急な下り坂

坂を下りきると、大沢川に板橋が架かっています。
さっきまで街道ウォーカーだった私が、急にトレッカーになっていました。

大沢川を渡る
大沢川を渡る

橋を渡ると上りです。
途中、石畳が一部崩れて段差になっている所がありました。
こうしてみると、かなりの厚みがあります。
重機の無かった時代、箱根八里を延々と続いて行く石畳の建設には
多大な労力を要したはずです。

崩れて段差になった石畳
崩れて段差になった石畳

鳥居忱作詞、滝廉太郎作曲の「箱根八里」の一節に
「羊腸の小径は苔滑らか」とあります。
大澤坂は正にその通りで、羊の腸の如くぐねぐねと曲がった小道を行けば、
敷かれた石畳は苔むし、つるつる滑って足を取られます。しかもかなり急です。
大澤坂は別名「座頭転ばし」
なんでここだけこんななのか。
それと、こんな所に座頭が来るのか。

出口が見えてきました
出口が見えてきました

板橋から300m程で大澤坂の出口です。
最後の石段を上がるとまた県道。そして、集落があります。

ここで大澤坂は終わり
ここで大澤坂は終わり

畑宿です。

畑宿に入る
畑宿に入る

一休みしましょうか。

06:12 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年11月26日

【十】箱根アタック 其の二 須雲川編

箱根観音の所で石畳は終わり、再び県道732号を行きます。
この辺りは2車線で、石畳に入る前の温泉街より歩き易くなっています。

県道732号
県道732号

400m程県道の坂道を上ると、ホテル南風荘の入り口の所に、
「観音坂」と書かれた石碑が建っています。
先程の箱根観音に因んだ名前でしょう。

観音坂の石碑
観音坂の石碑

そこからさらに400m程歩いたでしょうか。
今度は「葛原坂」の説明板がありました。
「新編相模国風土記稿」には大雑把な記述しかないようで、
観音坂との境界は不明です。
今もこの辺りは葛の葉が生い茂っていると説明板には書かれていますが、
残念ながら私にはどれが葛の葉かわかりません。
秋になれば花が咲いてわかるのかもしれませんが、
私がここを歩いたのは残暑厳しい9月上旬でした。

この辺りが葛原坂のようです。
この辺りが葛原坂のようです。

葛原坂から箱根新道の須雲川インターチェンジまでは800m程でしょうか。
その辺りから須雲川の集落が始まります。
飲み物の自動販売機があったので、麦茶を買って一休みしました。

今歩いている箱根八里は山道ですから、
もともと沿道の人口は少なかったはずです。
しかし、過疎地では幹線道路の維持・運営は困難ですから、
周辺住民を強制的に移住させ、沿道に適当な間隔で集落が設けられました。
この須雲川もそういう事情で寛永年間(1624-1643)にできたそうです。

さらに進むこと600m、集落の終わりに鎖雲寺があります。

鎖雲寺入り口にある霊泉の滝
鎖雲寺入り口にある霊泉の滝

鎖雲寺には、「箱根霊験躄仇討(はこねれいけんいざりのあだうち)」の
勝五郎と初花の墓があります。

「箱根霊験躄仇討」は飯沼勝五郎という人物の仇討ちを題材にした浄瑠璃です。
兄の仇討ちをしようとしていた勝五郎は病気で足腰が立たなくなり、
妻の初花の介助を受けながら仇を探して旅を続けます。
そしてついに、兄を殺した侍、佐藤剛助に出会うのですが、
足腰立たない勝五郎に代わり、初花が佐藤に勝負を挑みます。
従者の筆助も助太刀しますが、哀れ初花は返り討ちにあいます。

しかし、ここで奇跡が起きます。
足腰立たないはずの勝五郎が思わず満身の力を込めると
急に立ち上がることができるようになりました。
そして、自力で兄と妻の仇を討ってめでたしめでたし‥‥という話です。
その仇討ちの場所は、先程通り過ぎた
箱根新道の須雲川インターチェンジ付近だそうです。

鎖雲寺
鎖雲寺

ちょっといい話ですが、今は郵便局の閉まる時間が気になるので
先を急ぐことにします。

鎖雲時から150m程行くと須雲川橋があります。
下を流れるのは勿論、早川の支流、須雲川です。

須雲川橋
須雲川橋

橋を渡った先で県道は右へ曲がっています。
旧東海道は、橋の先で右へ行かず、まっすぐ進みます。
そこから始まるのが「女転し坂」です。
この坂はネット上の色々なサイトで紹介されていますが、
女「ころがし」坂なのか、女「ころばし」坂なのか、
正しい読みがわかりません。
この少し先にある説明板の振り仮名は女「ころし」坂になっているようです。

女転し坂の石碑
女転し坂の石碑

馬に乗った女性がこの坂で落馬して死んだことから名付けられたそうですが、
ここから、当時の女性は社会的地位が低かったというか、
世の人々が女性というものをどう意識していたかが何となく伺えます。
落馬したのが男性なら「男転し坂」ではなく、その人の名前が使われるでしょう。
そう言えば、保土ヶ谷には権太坂がありましたね。

女転し坂は現在通行できません。
関東大震災で崩落して通れなくなったという話も聞きますが、
現在その辺りは私有地になっているようです。
県道を進むこともできますが、私は須雲川自然探勝歩道を歩くことにしました。
この道は須雲川橋の手前から始まります。

須雲川自然探勝歩道の入り口
須雲川自然探勝歩道の入り口

道はしばらく杉林の中を進んで行きます。
本来は山林の管理用の道なんですね。

杉林の中を行く
杉林の中を行く

途中、飛び石で沢を渡る所がありました。(今は水がありませんが)
この道は歩き易く整備され遠足気分で気楽に歩けます。

飛び石で沢を渡る
飛び石で沢を渡る

500m程歩いたでしょうか。道はやがて東京電力三枚橋発電所に至り、
沈砂池を3つの板橋で渡ります。

三枚橋発電所
三枚橋発電所

橋は、岩の上に板を渡しただけです。

板橋
板橋

板橋の先の坂を上がると舗装道路に出ます。
発電所の管理用車輌が出入りする道です。この坂をさらに上っていきます。

発電所管理用道路
発電所管理用道路

上り切ったら県道に戻りました。ピクニック気分でしたね。

坂を上ると県道
坂を上ると県道

箱根路の旅はまだまだ続きます。

07:12 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年11月25日

【十】箱根アタック 其の一 湯本編

箱根登山鉄道の入生田踏切を過ぎ、箱根町に入りました。
踏切のすぐ先に駒留橋という小さな橋があるのですが、
後で調べたらここが小田原市と箱根町の境界のようです。

踏切から100m程で国道1号に合流しますが、
その少し手前に日本初の有料道路の説明があります。
それによれば、先程通った板橋からこの先の湯本まで、
4.1kmの有料道路が1875年に開通したそうです。
と言っても全く新規に道を造ったわけではなく、江戸時代の東海道の幅を拡げ、
2箇所の急坂を勾配の緩い坂に付け替えて、人力車等が通り易くしたものです。
開通から5年間、人力車1銭、大八車7厘、小車3厘の通行量が徴収されました。

実は、これより古い江戸時代にも有料道路は存在していたようです。
大分県にある長さ342mのトンネル「青の洞門」は1763年開通で、
当初は通行料を徴収したという話が伝わっています。
箱根の方は、我々が「有料道路」という言葉から連想する
近代の有料道路として最初の物ということでしょう。

国道1号に合流
国道1号に合流

国道1号に合流後、わずか130mで旧東街道は再び右へ分岐します。

右の細い道が旧東海道
右の細い道が旧東海道

でも600m弱でまた国道1号に戻ります。

また国道1号に戻る
また国道1号に戻る

国道の右上を箱根登山鉄道の線路が通っています。

箱根登山鉄道。電車は小田急8000形。
箱根登山鉄道。電車は小田急8000形。

左側の歩道に大名行列をモチーフにした柵があります。

大名行列の柵
大名行列の柵

合流から450mで三枚橋交差点です。
この交差点から左へ、神奈川県道732号湯本元箱根線が始まります。
湯本からまっすぐ芦ノ湖を目指し、湖畔で再び国道1号に合流する道です。
ここから暫くこの道が旧東海道です。
ちなみに直進すると箱根登山鉄道の箱根湯本駅です。

三枚橋交差点
三枚橋交差点

三枚橋交差点から県道に入るとすぐに、三枚橋で早川を渡ります。
早川は芦ノ湖を水源とし、小田原城の南1km程の所で太平洋に注ぐ川です。
小田原宿の上方見附からここまで早川の左岸を歩いて来ました。

三枚橋
三枚橋

三枚橋を渡ると温泉街へと続く上り坂が始まります。
この坂の途中、三枚橋から350mの所に箱根湯本郵便局があります。
宿場はまだ先ですが、ここでも風景印を押してもらいましょう。

箱根湯本郵便局
箱根湯本郵便局

箱根湯本郵便局の風景印
箱根湯本郵便局の風景印

箱根湯本郵便局の風景印は湯本温泉郷です。
今回はかもめ~る(ラジオ体操)を使用しました。

郵便局の先、湯本小学校の脇を通り過ぎると、
左手に白山神社、右手に早雲寺があります。
この辺りから温泉旅館が目立つようになります。
道は狭いのですが車が多く、路線バスや旅館の送迎バスも頻繁に通ります。
郵便局から600m程の所にある正眼寺は、
大磯で話題に上った曾我兄弟ゆかりのお寺です。

正眼寺の入り口。右の柱に「曾我兄弟遺跡」と書かれています。
正眼寺の入り口。右の柱に「曾我兄弟遺跡」と書かれています。

いろいろ見たい気もしますが、この先の山道が心配です。
夕方までに箱根の関に着けるよう先を急ぎます。
正眼寺の少し先に江戸から22里の一里塚があるのですが見落としました。

その先すぐ、台の茶屋というバス停を過ぎると、
ちょっとわかりづらいのですが右下へ下りていく道があります。
旧東海道はここを右です。

台の茶屋分岐点。この先石畳。
台の茶屋分岐点。この先石畳。

坂を下りると石畳が始まります。
土がむき出しの山道は、雨や雪の後は大変な悪路になり、
旅人は膝まで泥に沈みながら歩いたといいます。
やがて歩き易くするために竹を敷くようになりましたが、
毎年敷き替えなければならず、費用も労力も馬鹿にならないので、
耐久性の高い舗装として1680年に石畳が敷かれました。

林の中へと続く石畳
林の中へと続く石畳

現在残っている部分や昭和時代に復元された部分だけでも、
箱根の石畳の総延長はかなりの長さになると思います。
また、場所によって完成度に差があるので、
恐らく一度に全部が整備されたわけではないでしょう。
この台の茶屋付近の石畳は
玄関へのアプローチなどに使われる飛び石を密集させたような感じで、
ごつごつして歩きにくいです。
坂を下り切ると、小さな橋で猿沢を渡ります。
猿沢はこのすぐ近くで、早川の支流、須雲川に注いでいます。

猿沢を渡る猿橋
猿沢を渡る猿橋

石畳の入り口にある解説板によると、ここの石畳は延長255mとのことです。
橋を渡ると上り坂で、再び県道に合流します。

石畳出口
石畳出口

合流地点に福寿院(箱根観音)がありますが、失礼して先を急ぎます。

13:40 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年9月19日

【九】小田原町名巡り 其の四

板橋の集落
板橋の集落

板橋見附交差点で国道1号から離れると、板橋の集落に入ります。
車道は2車線。石畳をイメージした歩道に、
側溝の蓋でしょうか、和風の模様が付いています。

石畳をイメージした歩道
石畳をイメージした歩道

700m程行くと箱根登山鉄道の線路をくぐり、上板橋交差点に出ます。
ここでまた国道1号に合流です。

上板橋交差点
箱根登山鉄道の下をくぐると上板橋交差点

国道1号は早川の左岸を通ります。右岸には西湘バイパスが通ります。
国道から早川の対岸を見ると、山の中腹に箱根ターンパイクが見えました。

箱根ターンパイク
箱根ターンパイク

西湘バイパスから直結しているので
旧道路公団系のNEXCOが管理すると思いきや、
実は箱根ターンパイク株式会社という民間企業が管理する「私道」です。
元は東急系の会社でしたが、現在は外資系ファンドが出資しているそうです。
東洋ゴム工業が命名権を取得し、
2007年3月から「TOYO TIRES ターンパイク」という名前になりました。
でも、箱根ターンパイクの方が言いやすいので、定着するかちょっと疑問です。
ネーミングライツは競技場や文化施設にはよく見られますが、
道路はこれが日本初だそうです。

命名権も調べてみると色々あるようで、
路面電車の停留所や、サッカー場のゲートだけ、果ては映画の題名まで
これから考え得る限りの命名権が売買されることでしょう。
「東海道スタンプラリー」も誰か買ってくれませんかねぇ。
宿場53箇所に日本橋と三条大橋を加えて55箇所、
交通費を大雑把に1箇所1万円として、55万円でどうでしょう。

国道を進むこと700m、小田原厚木道路が頭上を越えて行く辺りで踏切を渡り、
再び箱根登山鉄道の北側に出ます。
踏切を渡ると、道が右上と左下に分かれています。旧東海道は左下です。

箱根登山鉄道の踏切
箱根登山鉄道の踏切

また静かな住宅街に入ります。風祭(かざまつり)の集落です。
今度は車道が1車線です。

風祭の集落
風祭の集落

900m程で、今度は入生田(いりうだ)の集落です。
さらに550m、入生田駅の先にある入生田踏切を渡ります。

入生田踏切
入生田踏切

入生田駅と箱根湯本駅の間はレールが3本敷かれています。
箱根登山鉄道の軌間(左右のレールの間の幅)は、箱根湯本駅を境に
小田原側が小田急と同じ1067mm、
強羅側が新幹線と同じ1435mmになっています。
小田原側は小田急の電車、強羅側は箱根登山の電車が走りますが、
入生田と箱根湯本の間だけは両方の電車が走れるようにレールが3本あります。
小田急の電車は右から2番目と左端のレールを使い、
箱根登山の電車は外側の2本を使います。

入生田踏切から入生田駅を望む
入生田踏切から入生田駅を望む。レールが3本あります。

箱根登山鉄道はもともと小田急と無関係だったため
自社の都合で軌間を決めて建設されました。
ところが、1948年に小田急の傘下に入り、
小田原-箱根湯本間は小田急の電車が乗り入れることになりました。
一方、箱根湯本-強羅間は急坂や急カーブが続くため、
専用設計の自社車輌でなければ運行できません。

小田急電鉄5000形
入生田踏切を通る小田急電鉄5000形。

そこで、小田原-箱根湯本間だけ両方の電車が走れるように
レールを3本敷いて対応しました。
また、架線の電圧も小田急が1500V、箱根登山が600Vと異なっていました。
架線は2本張るわけにはいかないので、
小田原-箱根湯本間は小田急に合わせて1500Vに変更し、
箱根登山の電車を両方の電圧に対応できるよう改造しました。
なお、1993年から箱根湯本-強羅間の電圧は750Vになっています。

箱根登山鉄道の軌間と架線電圧
箱根登山鉄道の軌間と架線電圧。
赤線は自社車輌、青線は小田急車輌が走る区間です。

輸送力増強とバリアフリーへの対応のため、2006年3月から
小田原-箱根湯本間の列車は全て小田急の電車で運行されています。
そのため3本レールは普通の2本レールに変えられましたが、
車庫が入生田にあるので、入生田-箱根湯本間だけは
3本レールが残されているというわけです。

箱根登山鉄道1000形
箱根登山鉄道1000形。1986年強羅駅で撮影。
行先表示が小田原になっています。現在は小田原まで行きません。

芙蓉
芙蓉

芙蓉の花が咲いています。
富士山のことを「芙蓉峰」とも言いますが、まだこの旅で富士山は見えません。

箱根町に入る
箱根町に入る

入生田踏切から100m程の所で小田原市から箱根町に入ります。
小田原市内の歩行距離は約12.7kmでした。
もう100m進むとまた国道1号に合流します。

11:10 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年9月18日

【九】小田原町名巡り 其の三

本町交差点です。
前回はここを右に曲り、小田原郵便局に寄ってから小田原駅へ行きましたが、
今回は直進して箱根を目指します。

本町交差点
本町交差点

中宿(なかじゅく)町です。高梨町とともに問屋場があり、10日交替で勤めました。

中宿町
中宿町

五色唐辛子
五色唐辛子の鉢植えがありました。

次は欄干橋町です。
町内から小田原城内へ架けられていた橋の名が町名の由来と言われています。
この辺り、東海道は小田原城の南150m程の所を通っています。

欄干橋町
欄干橋町

欄干橋町にあるお城のような建物は「ういろう」です。
元来は小田原名物の万能薬「透頂香(とうちんこう)」を売る薬局です。
現在、透頂香は薬剤師と相談の上、
効能に合う症状と判断された場合のみ購入できます。
一方お菓子の「ういろう」は、元は薬局で来客用に出していたもので、
明治以降は一般向けに販売するようになりました。
もちろん現在も誰でも買うことができます。
愛知県人の私は、ういろうは名古屋のものだと思っているので無視です。
(嘘です。朝早くて開店前でした)

ういろう
ういろう

続いて筋違橋町です。
ここから南へ安斎小路、狩野殿小路、諸白小路が延び、
小路沿いに武家屋敷が並んでいたそうです。
それぞれの道の名は現在も残り、諸白小路はバス停の名前にもなっています。

筋違橋町
筋違橋町

本町交差点から1km弱、早川口交差点です。
国道の上をJR東海道本線と箱根登山鉄道が並んで跨ぎます。

早川口交差点
早川口交差点。箱根登山鉄道の線路を小田急ロマンスカー(10000形HiSE)が通過中。

かつてここから熱海まで、豆相人車鉄道が延びていました。
人車鉄道とは、客車を人の力で押す鉄道版人力車です。
1895年から1900年にかけて小田原-熱海間25.3kmが建設されました。
片道3時間50分で運行したといいますから、平均速度は6.6km/hです。
自転車くらいの速さでしょうか。歩くよりは速いですね。
人力で押すわけですから、客車は数人しか乗れない小さなものですが、
国鉄並に上等、中等、下等の3グレードに分かれていました。
下等に乗ると線内随一の急坂で降ろされ、客車押しを手伝わされたそうです。
1907年には蒸気機関車による運行になりましたが、
1923年の関東大震災で運行不能になり、そのまま廃止されました。

線路の下をくぐると、御組長屋(おくみながや)です。
ここは城下町の入口なので、
鉄砲や弓を扱う組の者が住む長屋が設けられていました。
江戸方見附付近や、井細田口(現在の小田原駅北東酒匂川沿い)にも
同様の長屋がありましたが、地名になったのはここだけです。

御組長屋
御組長屋

以上、街道沿いに昔の地名をざっと見て来ました。
それぞれをもっと詳しく見て回れば、城下町の機能がよくわかることでしょう。
早川口交差点から170m、板橋見附交差点で小田原宿は終わりです。
向こうに新幹線の線路が見えますが、ここはくぐらず右に曲がります。

板橋見附交差点
板橋見附交差点。こだま537号新大阪行きが通過中。

もう少しで小田原市を出ます。

13:25 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年9月17日

【九】小田原町名巡り 其の二

これより小田原宿
これより小田原宿

小田原宿に入りました。
「相模国風土記稿」によれば、江戸方見附の外、南側に
日本橋から20里(78.5km)の一里塚もあったそうです。
現在は両方の名称を刻んだ1基の石碑があるだけです。

江戸口見附並びに一里塚跡
江戸口見附並びに一里塚跡

江戸方見附跡から450m、新宿(しんしゅく)交差点で、
旧東海道は左に曲がります。
新宿町は江戸時代前期、それまでの城塞都市の構造を改めて
東海道のルートを変更した際にできた町だそうです。

新宿交差点
新宿交差点。直進する広い道は国道1号。旧東海道は左。

新宿町から鍋町へ向かう道
新宿町から鍋町へ向かう道。アジサイが咲いています。

新宿交差点から70m程の所に「鍋町」の標識があります。
その名の通り、鍋などを作る鋳物師が住んでいた町といわれています。

鍋町
鍋町

旧東海道は鍋町の標識のすぐ先を右に曲がります。
今度の町名は「万町」と書いて「よろっちょう」と読みます。
紀州藩の飛脚継立所があった場所だそうです。

万町
万町

小田原おでんのお店がありました。
名産のかまぼこの売り上げが減少傾向にある中、
地元の食材を生かした新名物として小田原おでんが考案されました。
からしは使わず、小田原名産の梅を使った梅みそをつけて食べるのだとか。

小田原おでんのお店
小田原おでんのお店

次は「高梨町」です。
ここは甲州道の分岐点で、町内には問屋場も置かれていました。

高梨町
高梨町

その次は「宮前町(みやのまえちょう)」です。
ここには高札場、本陣、脇本陣があり宿場の中心でした。

宮前町
宮前町

宮前町の清水金左衛門本陣があった場所に
「明治天皇宮ノ前行在所跡」の碑があります。
明治天皇はここに5回宿泊しています。

「明治天皇宮ノ前行在所跡」の碑
「明治天皇宮ノ前行在所跡」の碑。
碑面には「明治天皇小田原行在所址」と刻まれています。

その先の本町交差点で、右から国道1号が合流します。
そこにある古い建物は「小田原宿なりわい交流館」です。
1932年に建てられ、元は網問屋だったものを改装し、
2001年から無料休憩所や市民活動の発表の場として活用されています。
残念ながら私は時間の都合で寄れませんでした。

小田原宿なりわい交流館
小田原宿なりわい交流館

旧東海道は国道1号と合流して本町交差点を直進しますが、
その前に郵便局に寄るためここを右折します。
470m程歩くと小田原郵便局があります。

小田原郵便局
小田原郵便局

小田原郵便局の風景印
小田原郵便局の風景印

小田原郵便局の風景印は小田原城と梅です。
切手は小田原城の天守閣です。

大磯から歩いて来たこの日はここで一旦帰宅することにして、
郵便局のさらに先にある小田原駅へ向かいました。
続きは回を改めて話すことにしましょう。

16:06 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年9月16日

【九】小田原町名巡り 其の一

これより小田原市
これより小田原市

小田原市に入ると、程なく下り坂になります。車坂です。
左手には海が見えます。

車坂から見える海
車坂から見える海

街道沿いの民家のプランターボックスにアルストロメリアが咲いていました。
初夏の花です。

アルストロメリア
アルストロメリア

マンホールの蓋に酒匂川の渡しの絵がありました。

マンホールの蓋
マンホールの蓋

小田原市に入ってから2.2km、国府津駅前交差点を右へはいると、
JR国府津(こうづ)駅があります。
昔の官庁のような4階建ての建物で、2階から上は商業施設ではなく
全てJRのオフィスになっています。

国府津駅
国府津駅

国府津は東海道本線と御殿場線の分岐点です。
御殿場線は箱根山の北側を通り、
御殿場経由で沼津に至る東海道本線のバイパスです。
東海道本線は熱海までJR東日本ですが、御殿場線は全線がJR東海です。

御殿場線の313系
御殿場線の313系電車。JR東海の車輌です。

御殿場線では長らく国鉄から引き継いだ115系電車が使われていましたが、
2007年までに名古屋地区と同じ313系に替わりました。
東海道本線の電車は車体に緑とオレンジの線が入っていますが、
313系はJR東海のコーポレートカラーであるオレンジの線だけです。
このほかに東海道本線でも見られる211系も走っています。

国府津駅開業100周年記念碑
国府津駅開業100周年記念碑

1889年の開通当時、御殿場線は東海道本線の一部でした。
この区間は勾配がきついため、列車の後ろに補助機関車を連結し、
2台の機関車で運行していました。
それでも、機関車が非力だった明治時代は、
東京(新橋)から来た急行列車は国府津で補助機関車を連結すると同時に、
食堂車を切り離して身を軽くしてから箱根越えに挑んだといいます。

現在の御殿場線区間が開通する直前の1888年、
国府津-小田原-湯本間に小田原馬車鉄道が開業しました。
馬車鉄道とは列車のようにレールの上を走る馬車で、
電車が普及するまでは東京などの大都市でも見られました。
小田原馬車鉄道は現在小田原-箱根湯本-強羅間で電車を運行する
箱根登山鉄道の前身です。

1934年、熱海と三島を結ぶ丹那トンネルが開通し、
東海道本線は小田原、熱海経由の新ルートになりました。

一里塚バス停
一里塚バス停

国府津駅前交差点から1.2km程行くと、「一里塚」というバス停があります。
ここは江戸から19里(74.6km)、小八幡の一里塚があった場所ですが、
今は説明板が立っているだけです。

松並木
松並木

その先に松並木がありました。

静岡まで100kmの標識
箱根まで11km、沼津まで45km、静岡まで100km。まだまだ先は長いです。

一里塚から2.2km、酒匂川を渡ります。
現在は酒匂橋が架かっていますが、江戸時代は徒(かち)渡しでした。
(冬季は仮橋あり)
当時の道は、江戸方は現在の橋の袂辺りに来ていたようですが、
上方は橋の袂より約100m上流だったようです。

酒匂川の対岸を望む
酒匂橋の東京側から、対岸の旧街道始点を望む。

現在の酒匂橋は1973年に架けられました。

旧街道上方始点付近からみた酒匂橋
旧街道上方始点付近からみた酒匂橋

酒匂橋を渡って200m余り、旧東海道は城東高校前交差点を左に曲がります。
なお、ここを右に曲がると、先程の徒渡しから続く部分に行けます。

城東高校前交差点
城東高校前交差点

城東高校前交差点を左折したら、すぐに次の角を右折です。
そこから暫く静かな住宅街を抜けていきます。
城東高校前交差点から200m、常剱寺入口交差点で、
酒匂橋から続く国道1号と合流します。

常剱寺入口交差点
常剱寺入口交差点

そして、そこから国道を進むこと800m、ようやく小田原宿に入ります。

20:34 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年8月14日

【番外】ガラスの二宮 後編

二宮駅前にある「ガラスのうさぎ」の敏子の像です。

ガラスのうさぎの像
ガラスのうさぎの像

1945年8月5日、東海道本線二宮駅が機銃掃射を受けましたが、
「ガラスのうさぎ」では、この機銃掃射で敏子の父親が死亡します。
遺体を荼毘に付すため、敏子は東海道の松並木を荷車で小田原まで往復します。
二宮駅付近の国道1号を通ったかどうかわかりませんが、
駅を過ぎた辺りで松の木が散見されます。

二宮駅付近の松の木
二宮駅付近の松の木

二宮駅入口交差点から800m余り、吾妻神社入口交差点で、
旧東海道は右に分かれます。

吾妻神社入口交差点
吾妻神社入口交差点。右が旧東海道です。

400m先の山西交差点でまた国道に戻ります。
高い櫓があります。

山西交差点
山西交差点

山西交差点から460m、川匂神社入口交差点のすぐ手前で、
今度は左に旧東海道が分岐します。

川匂神社交差点
川匂神社交差点付近。左が旧東海道です。

ここは日本橋から18番目の一里塚があった場所です。
塚自体は現存せず、碑が建てられています。

二宮の一里塚跡
二宮の一里塚跡

大磯から小田原までは15.6kmも離れています。
宮-桑名間の海上七里を除くと、
小田原-箱根間16.5km、見附-浜松間16.4kmに次いで3番目に長い区間です。
この辺りには梅沢の立場が設けられていましたが、
本来立場には無いはずの本陣や旅籠があり、実質的には宿場だったそうです。
実は一里塚跡の少し先、民家の敷地内に本陣跡の碑が建っているのですが、
住人らしき方がいたので撮影は遠慮しました。
そこを過ぎると押切坂を下ります。坂が終わると国道に合流です。
国道を離れた部分は300m程でした。

押切坂
押切坂が終わると国道に合流します。

国道に合流して100m、中村川に架かる押切橋を渡ります。

押切橋
押切橋

橋の袂から左を見ると、西湘バイパス越しに海が見えます。
押切橋を渡ると小田原市に入ります。

西湘バイパス越しに見る海
西湘バイパス越しに海が見えます。

ところが、この辺りは境界線が入り組んでおり、
120m程進むと、また二宮町に戻ってしまいます。

さらに180mほど進むと、西湘バイパスの橘インターチェンジの近くで
再び小田原市に入ります。
二宮町内の歩行距離は約3.3kmでした。
あとはずっと小田原市です。でも小田原宿はまだ先です。


<後日談>
二宮駅に機銃掃射の弾痕が残っていると聞いて見に行きました。
駅舎は1982年に改築されましたが、
ホームの屋根に太平洋戦争当時から残っている部分があるのだそうです。

二宮駅のホーム
二宮駅ホームの古い屋根が残る部分。電車は横須賀線から移籍したE217系。

同駅のホームの屋根の大部分は、中央が低く両脇が高いV字形の断面ですが、
東京方の階段からホームへ下りた辺りに、
中央が高い「へ」の字形断面の屋根が付いている部分があります。
ここが古い屋根です。

二宮駅のホーム
画面両脇の柱を境に手前はVの字形、奥はへの字形の屋根。
画面中央の自動販売機から奥はまた新しい屋根になっている。

この部分の木製の梁をよく見ると、弾痕と思しき大きな傷が数箇所ありました。

二宮駅1番線
小田原方面の列車が来る1番線。○印部分に弾痕。
電車は最新型E233系の普通小田原行き。

機銃掃射の弾痕
○印部分の弾痕のアップ。

二宮駅2番線
東京方面の列車が来る2番線。○印部分に弾痕。

機銃掃射の弾痕
○印部分の弾痕のアップ。

恐怖の瞬間の痕跡は、わずかですが残っていました。

08:09 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年8月13日

【番外】ガラスの二宮 前編

大磯町を過ぎると、次は二宮町です。

これより二宮町
大磯町の次は二宮町。松並木の中にアジサイが咲いています。

二宮町に入るとすぐに、郵便マークの付いた大きな建物が見えました。
二宮郵便局です。
ここは宿場町ではないので予定外ですが、折角なので寄って行きましょう。

二宮郵便局
二宮郵便局

二宮郵便局の風景印
二宮郵便局の風景印

二宮郵便局の風景印は、二宮駅前にあるガラスのうさぎの像です。
今回はかもめ~る(あさがお)を使用しました。

二宮町に入ってから郵便局まで300m。
そこから650m先の交差点を右に曲がると、JRの二宮駅です。

二宮駅
二宮駅

人口約3万人、これといった産業もない二宮町で
「ガラスのうさぎ」は唯一全国的に知られているものと言えるでしょう。
この作品は過去何回か映像化されていますが、
1980年8月から9月にかけてNHKの銀河テレビ小説で放映された時は
私も見ていました。
その中で1つ、よく覚えている場面があります。

戦争も次第に敗色が漂い始めた昭和18年。
女の子用の下着類も入手困難になり、物語の主人公敏子は、
兄のお下がりのランニングシャツを着なければならなくなりました。
しかし、小学5年生の女の子がそれをそのまま着るのは恥ずかしいので、
左胸に小さな花の刺繍をして、少しでも女の子らしくなるよう工夫しました。

ところが、学校で体育の時間に着替えをしている時、
この非常時に花など刺繍して恥ずかしくないのか、今すぐほどきなさいと
担任の先生から大きな声で叱られます。
敏子は泣きながら震える手で刺繍をほどこうとするのですが、
急げば急ぐほどうまくほどけず、
結局刺繍をした部分をそっくり切り抜いてしまいます。

原作では刺繍の部分を切り抜いた所でこの場の事は終わり、
放課後母親が先生に呼び出される話に移るのですが、
ドラマでは、ほどけと言ったのになぜ布地ごと切り抜いたのだと
もう一度先生に叱られます。

私はこの場面は覚えていたものの、他の場面はほぼ全て記憶になく、
それどころかこれが
「ガラスのうさぎ」の一場面だという事まで忘れていました。

この場面は原作の最初の章に書かれています。
全体から見れば、話の本題に入る前に、
当時の社会情勢を説明するために語られたエピソードに過ぎません。
それをはっきり覚えているのは、
当時私がこの場面を非常に腹立たしい思いで見ていたからです。

改めて原作を見てみると、この最初の章は、
「ちいさな事件ではない」と題されています。
ドラマの放映当時小学4年生だった私には、
小学生同士、直感的に理解できるものがあったのかもしれません。

戦争文学というものは、こうして事実を伝えてくれれば十分です。
何が正しいとか間違っているとか、余計なことは言わなくても
答は自明です。

しかし残念ながら、このような戦争の悲惨さを伝える作品は、
戦争に対する抑止力としてはほとんど効果がありません。
なぜなら、実際に戦争を始めるか否かを決める立場にある人たちは、
戦争が始まっても悲惨さとは直接関わらずに生活できるからです。
屠殺場を覗かなければ肉を食べられるとか、
殺処分施設を見なければ犬や猫を平気で捨てられるとか、
そういうのと似ていますね。

以前、ある政治家が若者を対象に講演を行った際、
戦術核兵器の保有や使用は憲法違反ではないというような事を言ったそうです。
しかし、違憲か合憲かはさておき、専守防衛の日本の自衛隊で、
一体この人は核兵器を何に使う気でいたのでしょうか。

核兵器は基本的には抑止力として使う兵器です。
日本が戦術核兵器を持った場合、主な標的となるのはやはりあの国でしょう。
しかし、あの国に核爆弾を撃ち込もうものなら、
隣接する2つの国が黙っているはずもなく、結局使えません。
核なんか持っていてもどうせ使えないだろうと、
あの国からなめられるのが関の山です。
それなら通常兵器を配備した方がよっぽど抑止力になります。

冷戦時代、アメリカは核兵器のハッタリ効果を「核の傘」と称していましたが、
実際は戦略核兵器の恐怖の陰で通常兵器による小規模の戦闘が続き、
戦術核兵器は結局十分に効果を発揮できませんでした。
そんな使えない物を今から持ってどうするのか。
昭和ノスタルジーで核兵器など持たないで頂きたい。

件の政治家は、後にしきりに北朝鮮の拉致問題を取り上げていました。
もちろんそれは重要な問題ですが、どうもこの人が動くと、
核武装の口実となる仮想敵国が欲しいのではないかと邪推してしまいます。
もし本当にそうだとしたら、我々はとんだ食わせ者を
国のトップに祭り上げてしまっていたことになります。
「愛国心」とか「改憲」とか、決しておかしな言葉ではないのに、
この人が言うと妙にきな臭く感じられましたから、
ある日突然勝手に辞めてくれてほっとしました。

さて、ガラスのうさぎから随分と話が飛んでしまいました。
そもそも敏子がお下がりのランニングシャツにに刺繍をしたのも
二宮ではなく東京にいた時の話です。
そろそろ東海道の旅に戻りましょう。

12:42 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年6月29日

【八】涙雨の大磯 後編

大磯宿を出るとすぐ松並木が始まります。
この先に伊藤博文と吉田茂の旧邸があります。
「バスで駅まで行って電車に乗る」とか、
「近所のスーパーへ買い物に行く」という事を考えなければ
とても素晴らしい住環境です。

大磯の松並木
大磯の松並木

大磯の松並木で最も高い松
大磯の松並木で最も高い松

写真右の背の高い松は大磯の松並木で最も高い松の木です。
高さは25m、樹齢は約150年です。

切り株の年表
切り株の年表

こちらはマツクイムシにやられてやむなく切り倒した松です。
樹齢217年。この木が生きてきた時代の主な出来事を
その年の年輪の所に書き込んで歴史年表にしてあるのですが、
表面が汚れて読み辛くなってしまっているのが残念です。

ユリとアジサイ
ユリとアジサイ

アジサイに続いてユリが登場。沿道は夏の花で賑わいます。
街道沿いではありませんが大磯駅の近くでサルビアも見かけました。

城山公園前交差点
城山公園前交差点

松並木を抜けて1km余り、城山公園前交差点で旧東海道は右に分かれます。
ちなみに、この先の海岸沿いに有名な大磯ロングビーチがあります。

城山公園の前を通り過ぎる
城山公園の前を通り過ぎる。

城山公園はその名の通り中世の城跡です。
旧東海道は公園の前を通り抜け、次の分岐点を直進です。

城山公園付近の歩道
城山公園付近の歩道

この付近の歩道は、表面に小石を敷き詰めた凝ったものです。
さざれ石交差点の所で砂利が大磯の特産だと言いました。
恐らくそれを生かしたデザインなのでしょうが、
表面がつるつるで滑りやすくなっています。しかもここは坂道です。
偉い人は雨の日にこんな所を歩かないとは思いますが、
大磯の特産品のおかげで怪我をしたなんて事になる前に
直した方がいいと思います。

本郷橋
本郷橋

城山公園を過ぎた所の分岐点のすぐ先に本郷橋があります。
1927年に架けられた古い橋で、かながわの橋100選に選ばれています。
ちょっと調べてみたところ、ここまでに渡った橋の中では
川崎宿手前の六郷橋、藤沢宿内の遊行寺橋、
平塚市の入口に架かる馬入橋が選ばれています。
もう一つ、横浜市に入った所にある鶴見川橋もそうなのですが、
選出後に架け替えられており現在の扱いは不明です。
神奈川県のサイトにある一覧表には掲載されたままなので
外されたわけではなさそうです。

江戸から十七里のプレート
国府本郷一里塚跡にある「江戸から十七里」のプレート

本郷橋の先は少し上り坂になっています。
そして、橋から550mの辺りの路面に
「江戸から十七里」のプレートが埋め込まれています。
ここに国府本郷の一里塚があったのですが、
解説板は立てる場所がなかったのか200m程先にあります。

並木の向こうは国道1号
並木の向こうは国道1号

プレートの辺りから、旧東海道は国道1号と450m程並行し、
国府新宿交差点で合流します。

国府新宿交差点
国府新宿交差点

ところで、東西に長い大磯プリンスホテルの敷地の、
東の端のほぼ真北に本郷橋があり、西の端の真北はまだ先です。
広いんですね。

大磯町はここまで
大磯町はここまで。町内の歩行距離は約7kmでした。

国府新宿交差点から900m程国道を歩くと大磯町から出ます。
小田原はまだまだ先です。
小田原郵便局は夜7時まで開いているので今回は余裕ですけどね。

23:19 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年6月28日

【八】涙雨の大磯 中編

駅入口交差点から国道を100m進んだ左側、
秋葉神社脇の路地に入り20m程行くと、延台寺があります。
ここは先程化粧井戸の所で登場した虎御前が、
曾我兄弟を偲んで庵を結んだ跡と伝えられています。

延台寺山門
延台寺山門

山門の前に立てられた解説板を読むと、
「鎌倉時代の舞の名手、伝説の美女虎御前」とあります。
虎御前は遊女でした。
鎌倉時代の遊女は江戸時代のそれとは違い、歌舞などの技芸を厳しく躾けられ、
時には教養も身につけた知識人だったといいます。
化粧井戸の解説板にあった「大磯を代表する女性」というのは
どうやら「大磯屈指の才媛」という意味のようです。

延台寺本堂
延台寺本堂。階段の上に雨宿りする者1名。

延台寺本堂で雨宿りする猫
雨宿りする者にズームイン。

国道に戻って300m行くと、照ヶ崎海岸入口交差点があります。
ここで国道1号は右へ曲がるのですが、旧東海道は直進です。

照ヶ崎海岸入口交差点
照ヶ崎海岸入口交差点。画面中央から奥へ進む道が東海道。
日本橋まで68kmとありますが、旧東海道は約65kmです。

交差点の脇に素敵なお菓子屋さんを発見。
もちろん買いに行きます。
古い日本建築なのに入口の扉がまさかの自動ドアでびっくりしました。
(今時自動ドアで驚くなんてどんな田舎者だよ)

新杵
照ヶ崎海岸入口交差点の所にあるお菓子屋さん「新杵」

虎子まんぢゅうと西行まんぢゅう
大磯名物虎子まんぢゅうと西行まんぢゅう

左が虎御前に因んだ虎子まんぢゅう、
右が西行に因んだ西行まんぢゅうです。
たぶん虎子まんぢゅうは
この写真から時計回りに90度回した位置が正しい向きです。
どちらも真面目に作られた伝統的なお饅頭です。

旧東海道と国道の分岐点
左が旧東海道、右が国道1号です。

それでは照ヶ崎海岸入口交差点から続きを歩きましょう。
旧東海道は左、国道1号は右ですが、
国道の方にはもう合流地点のさざれ石交差点が見えています。
この合流地点にかまぼこ屋さんがあるのですが、
そこのさつまあげが絶品との評判を2箇所で聞いていたので
お土産に買って帰ることにしました。
ただ、私はあまり好きではないので
残念ながら本当に絶品かどうかは判断しかねます。(だめじゃん)
いや、その‥‥母が好きなんですよ、練り物は。

さざれ石交差点へ向かう途中で振り返る
途中で振り返ってみました。いい感じのカーブです。

さざれ石交差点までわずか120m。国道へ戻ります。
聞く所によると、この交差点の近くで
かつて「さざれ石」というお菓子が売られていたそうです。
大磯特産の砂利に見かけがそっくりだったことからこの名が付いたそうです。
(たぶん食感は似ていなかったと思います)
お菓子の事はわかりませんが、砂利については1つ言いたい事があるので
後でもう一度話します。

さざれ石交差点
さざれ石交差点

さざれ石交差点から約150m、国道脇の木立の奥に草葺きの屋根が見えます。
これが日本三大俳諧道場の一つ「鴫立庵」です。
ちょっと寄ってみましょう。

鴫立庵の入口
鴫立庵の入口

国道を歩いているとわかりづらいのですが、
この下に鴫立沢という沢があります。
西行の「山家集」にある

心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ

という作品が詠まれた場所です。
国道から鴫立庵への階段を下りると鴫立沢を見ることができます。

鴫立庵の前から見た鴫立沢
鴫立庵の前から見た鴫立沢。
国道の喧噪は水音に掻き消され、ここから既に別世界です。

鴫立庵
沢を橋で渡れば鴫立庵です。

鴫立庵
ほんの数十メートル先が国道とは思えない程静かです。

鴫立庵の座敷
座敷にはアジサイが生けられています。

わずか100円でいい物を見せていただきました。
自分に俳諧の才能が無いことを確認して東海道に戻ります。

湘南発祥之地碑
湘南発祥之地碑

この鴫立庵がある場所は、小田原の崇雪という僧侶が
西行寺を建立するべく草庵を結んだ場所です。
その際、この地の景勝を讃えて「著盡湘南清絶地」と刻んだ石碑を立てました。
大磯が中国湖南省にある湘南と呼ばれる地域に似ていることから
このような文言を刻んだそうです。
これが今日神奈川県西部沿岸地域を湘南と呼ぶことの始まりとされ、
国道沿いに「湘南発祥之地」の碑が立てられています。

国道を更に250m、大磯中学校前交差点の所に大磯宿上方見附跡があります。
ここにファミリーレストランがあります。
おなかが空いたので昼食にしましょう。

大磯宿上方見附跡
大磯宿上方見附跡

入口の張り紙によると、この店は私が訪れた1週間後に閉店だそうです。
大磯宿はここで終わりですが、大磯町はもう少し続きます。

07:23 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年6月27日

【八】涙雨の大磯 前編

平塚宿上方見附がある古花水橋交差点から大磯町に入ります。
平塚宿から次の大磯宿までの距離はわずか2.9km。
東海道全体で3番目に短い区間です。
藤沢から平塚までが長かったからここが短くなってしまったのでしょうか。

これより大磯町
平塚宿を出るとすぐに大磯町

国道1号を300m程進むと現在の花水橋があります。
橋の手前、進行方向左手に、JR貨物の相模貨物駅があります。
1971年に平塚駅の貨物取り扱い業務を分離して新設された駅です。
ウェブ上で全国の地図が見られるサイト「Mapion」の駅名・路線名検索で
「相模貨物」と入力したら出ませんでした。

相模貨物駅
相模貨物駅

一応Mapionの名誉のために言っておくと、
施設名・地名検索で「相模貨物駅」と入力すれば見つかります。

右側の橋の袂には「平成の一里塚」なる物があります。
植えられた木は残念ながら木陰を提供できる程大きくありませんが、
旅の気分は盛り上がります。

平成の一里塚
平成の一里塚

橋の上からは、右前方に高麗山(こまやま)が見えます。
平塚の消防団の前からも見えた、広重の平塚の絵に登場する山です。

花水橋から見た高麗山
花水橋から見た高麗山

かつて高句麗からの渡来人がこの周辺に住んでいたことが
高麗山という名前の由来と言われています。
渡来人は後に武蔵国に移住し、高麗郡が設置されました。
現在の埼玉県日高市、飯能市の辺りです。
高麗山には広葉樹の自然林が残り、紅葉の名所としても知られています。

花水橋から国道をさらに700m弱進むと、化粧坂(けわいざか)交差点です。
藤沢宿から歩いて来たこの日はここで一旦終了。
本当は大磯郵便局まで行ったのですが、
間違えて化粧坂交差点から先も国道1号を進んでしまいました。
実際は化粧坂交差点から右に入る化粧坂が旧東海道なので、
後日ここから歩き直しました。

化粧坂交差点
化粧坂交差点

化粧坂
化粧坂。左手前のアジサイが咲いている所の奥に化粧井戸があります。

保土ヶ谷・戸塚近辺の難所と違い、化粧坂は緩やかな坂です。
入って少し行くと左手に化粧井戸があります。
虎御前がこの井戸で水を汲んで化粧をした事に由来すると言います。
何も化粧専用だったわけでもなかろうに強引なネーミングだと思ったら、
ちゃんと理由がありました。
大磯は海辺の街なので、井戸を掘っても出てくるのは大抵塩水で、
鎌倉時代頃は真水の出る井戸がここだけだったのだそうです。
「化粧に使える水が出る唯一の井戸」という意味でした。

化粧井戸
化粧井戸

この井戸の解説板に
「当時の大磯の代表的女性『虎御前』もこの近くに住み‥‥」とあるのですが、
一体どんな「代表」だったのでしょう。
(この謎は後で解けます)

虎御前と言えば日本三大仇討ちの一つ、曾我兄弟の仇討ちの、
曾我兄弟の兄・十郎祐成の恋人です。
建久4年(1193年)5月28日、曾我兄弟は父の仇討ちに成功するも、
兄の十郎はその場で斬り殺され、弟の五郎も捕らえられて後日処刑されます。

旧暦5月28日に降る雨を「虎が雨」と言います。
虎御前の涙雨という意味です。
歌川広重の東海道五十三次でも、
大磯の絵は「虎ヶ雨」と題された雨降りの絵です。
私が化粧坂を歩いた日は旧暦の5月20日。
厳密には「虎が雨」ではありませんが、雨が降っていました。
間違えて国道の方を歩いたのは梅雨入り前、新暦の方の5月だったので、
この時期に歩き直せて良かったと思います。

化粧坂にあった広重の絵
化粧坂に歌川広重の「虎ヶ雨」がありました。

その先すぐの所に一里塚跡があります。
日本橋から16里、62.8kmです。

化粧坂の一里塚跡
化粧坂の一里塚跡

解説板によると高さは約3mで、
上方に向かって右の塚にせんだん、左の塚に榎が植えられていたそうです。

緩やかな化粧坂を上り切った先に東海道本線の線路があります。
以前はこの道が国道でここに踏切があったそうです。
踏切廃止後も歩行者や自転車が通れるように地下道が造られています。

化粧坂の先にある地下道の入口
化粧坂の先にある地下道の入口。左の塀の向こうが東海道本線。

地下道を抜けた先の道は、両側に大きな松の木が何本かありました。
この辺りが大磯宿江戸方見附跡です。

大磯宿江戸方見附跡付近
大磯宿江戸方見附跡付近

化粧坂交差点からの道は、東海道本線の所で車道が切れているため
車の通りが少ないのどかな道です。
今の時期はアジサイがたくさん咲いています。

大磯宿のアジサイ
江戸方見附の先に咲いていたアジサイ

化粧坂交差点から800m、三沢橋東側交差点で国道1号に戻ります。

三沢橋東側交差点
三沢橋東側交差点

国道に合流して300m程進むと、駅入口交差点があります。
この交差点の所に大磯郵便局があります。
今回はここで風景印を押してもらいます。

大磯郵便局
大磯郵便局

大磯郵便局の風景印
大磯郵便局の風景印

大磯郵便局の風景印は
鴨立庵、大磯海岸の海水浴場、高麗山の遠景です。
切手は小田原城の銅門(あかがねもん)です。
小田原はまだ先ですが、小田原城の切手が2種類あるので
1つ手前の大磯でも使いました。

先程の駅入口交差点を右に曲がって上り坂を250m程行くと、
JR東海道本線の大磯駅です。
現在の駅舎は1925年落成。
瓦屋根ですが、入口の軒の上にある縦長の窓が洋風で、
和洋折衷な感じの外観です。

大磯駅
大磯駅

内部は洋風です。
写真は改札前の天井で、画面左の3枚の窓がある所が正面の壁です。

大磯駅改札前の天井
大磯駅改札前の天井

話が長くなったので、ここで一区切りとします。
駅入口交差点まで戻って東海道の続きを歩きましょう。

07:47 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年6月 2日

【七】歌川広重が見た平塚

目の前には相模川と、そこに架かる馬入(ばにゅう)橋。
ここで茅ヶ崎市から平塚市に入ります。

これより平塚市
これより平塚市

馬入橋の途中に国道1号の距離標があります。
日本橋から62kmですが、旧東海道はこの辺りで約58kmです。
隣を走る東海道本線も相模川を渡る橋の上で東京駅から62kmです。

国道1号62kmポスト
国道1号は相模川の所で日本橋から62kmです。

東海道本線62kmポスト
東海道本線も相模川の所で東京駅から62kmです。
電車は普通列車小田原行き。最新型のE233系。

橋を渡ると平塚の市街地に入る所で道が二手に分かれます。
国道1号は右へ、旧東海道は直進です。
この近くに江戸から15番目の一里塚がありましたが、今は説明板だけです。

平塚市街の入口
平塚市街の入口。国道1号は右へそれ、旧東海道は直進します。

そこから1km程進むと、JR平塚駅に通じる広い道を横切ります。
そして、さらに進むこと600m、平塚宿江戸方見附があります。
石垣の上に盛り土をして竹矢来を組んだバリケードが再現されています。

平塚宿江戸方見附
平塚宿江戸方見附

見附から100m程の所に大きなクスノキがあります。
1895年3月28日、当時ここにあった平塚小学校の校庭に種がまかれ、
6月15日に双葉が出たという記録が残っているそうです。

平塚市見附町のクスノキ
平塚市見附町のクスノキ

クスノキのそばに崇善公民館があります。
帰宅後に調べたところ、1950年にはここで平塚市議会が開かれたそうですが、
もともとは何だったのか、いつ頃の建物なのかよくわかりません。

崇善公民館
崇善公民館

そこからさらに300m進むと、平塚本宿(ほんしゅく)郵便局があります。
今回はここで風景印を押してもらいます。

平塚本宿郵便局
平塚本宿郵便局

平塚本宿郵便局の風景印
平塚本宿郵便局の風景印

平塚本宿郵便局の風景印は
七夕竹飾り、高麗山、旧東海道を表す松並木、富士山の遠望です。
切手は慶事用50円切手です。

平塚で見つけたアジサイ
平塚で見つけたアジサイ

日本橋から春の花を愛でつつ旅をしてきましたが、ここで夏の花の登場です。

郵便局からさらに300m進むと、平塚市消防団第一分団があります。
ここは西組問屋場跡です。
平塚宿は一般の旅行者より大名などの宿泊が多い宿場でした。
そのためでしょうか、参勤交代が行われるようになると業務が激増し、
1箇所の問屋場では対応しきれなくなりました。
そのため、平塚宿の東にあった八幡新宿を平塚宿に編入し東組問屋場を増設、
従来からの問屋場を西組問屋場として対応しました。

平塚市消防団第一分団
平塚市消防団第一分団。西組問屋場跡です。

1945年7月16日、多くの軍需工場があった平塚市が空襲の標的となりました。
当時の市域は平塚駅から概ね2kmの範囲でしたが、
その面積の約8割を消失する甚大な被害を受けました。
恐らく江戸時代の宿場町の名残も、空襲でほとんど消失したのでしょう。
そんな事を考えつつ、消防団の建物に近付こうと歩道橋を渡ると
大磯へ続く道の向こうに見覚えのある山影が見えます。

高麗山
歩道橋から見た高麗山

あれはまさしく、東海道五十三次の平塚に登場する高麗山(こまやま)です。
日本橋から東海道を歩いてきて、ここで初めて感動しました。
歌川広重さん、あなたの描いた風景は170年の間にすっかり変わりましたが、
高麗山だけは変わりませんよ!
(神奈川台場の坂の事は忘れてください)

シャッターに広重の平塚
消防団のシャッターに歌川広重の平塚の絵がありました。

ここで少し寄り道をします。
消防団の所を右に曲がると、突き当たりに要法寺があります。
ここを左に曲がった先の右手、西仲町公園に「平塚の塚」があります。
そばに立てられた解説板によると、こんな謂れがあります。
857年、桓武天皇の曾孫に当たる女性政子が東国へ向かう旅をした折り、
この地で亡くなり、埋葬されて塚が築かれました。
その塚の上が平らになったので「ひらつか」と人々から呼ばれるようになり、
「平塚」という地名の元になったといいます。

平塚の塚
平塚の塚、というよりむしろ平塚。

柵の中は盛り土で、確かに上が平らです。
しかし、気持ちはわかりますが「平塚の塚」という名前はどうでしょう。
現実にはこれ自体が「平塚」なのに、
この名前ではどこかに「平塚の平」も存在しそうです。

しかも、帰宅後に調べてみると、
解説板で政子の父親即ち桓武天皇の孫とされる高見王は
存在したかどうかも怪しい謎の人物だそうです。

高見王がいなければ政子もいなかったことになります。
(いや、別の人物の娘として政子自身は存在したのかもしれません)
そうなると、地名の根拠もなくなってしまいます。
(いえ、政子の墓でなくても平らな塚があるのは事実です)
平塚市はどうなってしまうのでしょう。
(今更街は無くなりません)
大丈夫か、平塚。
(大丈夫です)

右が東海道
平塚市消防団第一分団前の分岐点。右が旧東海道です。

さて、消防団の所まで戻って続きを歩きましょう。
ここまで歩いてきた道は、引き続きまっすぐ西を目指します。
旧東海道は消防団の前でこの道から右へ分かれます。
そして、300m余り住宅街を進むと、
平塚市街の入口で別れて北へ迂回した国道1号と合流します。
ひょっとして、七夕祭りの時に交通規制がかからないように
こうして中心街を避けているのでしょうか。

国道1号に合流
国道1号に合流。右が旧東海道。奥が東京方面。東京まで67kmです。

国道1号に合流して100m、古花水橋交差点に出ます。
ここから300m余り先に花水川を渡る花水橋がありますが、
かつて川はこの辺りを流れており、交差点名に名残をとどめています。
先程消防団の前で分かれた道がまっすぐここまで来て合流します。
ここに平塚宿の上方見附があります。

平塚宿上方見附
平塚宿上方見附

平塚宿を出ると、平塚市もここで終わりです。次は大磯町に入ります。

21:50 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年6月 1日

【番外】茅ヶ崎の左に富士は見えるか

国道1号に戻って間もなく茅ヶ崎市に入りました。
ここは東海道本線辻堂駅の北800m程の場所です。

これより茅ヶ崎市
茅ヶ崎市に入ります。松並木です。

時折緩い曲線を描いて長く続く道は、
車道が2車線、車道と分離された歩道、街路樹という構成です。
規模は大きすぎず小さすぎず、まさに現代の街道といった風情です。
茅ヶ崎市に入ってすぐに高い松の木がありました。

高い松の木
茅ヶ崎市の入口にある高い松の木

藤沢宿と平塚宿の間には、
四ツ谷、牡丹餅、南湖(なんご)、八幡の4つの立場がありました。
四ツ谷はもう過ぎてしまいましたが、
藤沢市内のちょうど国道1号に戻った辺りです。
牡丹餅と南湖は茅ヶ崎市内です。
八幡はよくわからないのですが、今の平塚駅の近くではないかと思います。

大乗仏教の経典の一つである華厳経に、
善財童子が文殊菩薩の命により53人の師を経て
普賢菩薩の所で悟りを開いたという一節があります。
一説によると、東海道の宿場の数はこれに因んで53箇所にしたのだとか。
となると、必ずしも宿場の配置が
実際の交通事情に合致しない所もあったことでしょう。

宮-桑名間の海上七里を除くと、東海道の宿場間の平均距離は8.8kmですが、
実際は最長が小田原-箱根間の16.5km、最短は御油-赤坂間の1.7kmで、
かなりばらつきがあります。
また、平坦な道もあれば急坂の続く難所もあります。
そんな事情から、宿場間には立場や間の宿が設けられることが多々あります。

ところが、立場や間の宿には、
旅行者の宿泊禁止などの厳しい制限がありました。
宿場町を保護するためです。
宿場は道中奉行の管轄です。
道中奉行は大目付や勘定奉行が兼任したので、
宿場町の保護にはひょっとして利権が絡んでいたのでしょうか。
だとすると現代における道路族みたいなものですね。
この先通る予定の菊川は、元は宿場町だったのが
徳川家康による宿駅整備の際に間の宿に降格されています。
不運ですね。

藤沢-平塚間は13.7kmで、日本橋から箱根までの間では、
小田原-箱根間16.5km、大磯-小田原間15.6kmに次ぐ3番目に長い距離です。
速い人でも2時間半はかかる距離ですから立場が発展したのでしょう。

茅ヶ崎で見かけたハーフティンバーの建物
茅ヶ崎で見かけたハーフティンバーの建物。
写真にはありませんが奥にもう1棟建っています。

本村というバス停の所に素敵なハーフティンバーの建物がありました。
飲食店でしょうか。

茅ヶ崎一里塚
茅ヶ崎一里塚

茅ヶ崎市に入ってから歩くこと3.6km、
サティの前を通り過ぎ、茅ヶ崎駅に近付くと、道の左側に一里塚があります。
日本橋から14里、約55kmです。

茅ヶ崎で見かけた花
茅ヶ崎で見かけた花

ここでも春の花が咲いています。

一里塚から、茅ヶ崎駅北口の賑わいを通り抜けて1.3km、
茅ヶ崎茶屋町郵便局があります。
ここに東海道の名所に因んだ風景印があるので押してもらいます。

茅ヶ崎茶屋町郵便局
茅ヶ崎茶屋町郵便局

茅ヶ崎茶屋町郵便局の風景印
茅ヶ崎茶屋町郵便局の風景印

茅ヶ崎茶屋町郵便局の風景印は
富士山の遠望、鳥井戸橋、南湖の左富士の碑です。
今回は通常はがき(スズメ)を使用しました。
実は歌川広重は南湖の左富士も描いているのですが、
茅ヶ崎は宿場町ではないので東海道五十三次の作品群に含まれず、
今回使用している東京国立博物館の絵はがきにも残念ながら入っていません。

茅ヶ崎茶屋町郵便局の先で道は大きく右に曲がり、
その後400m程北西に進みます。
この辺りがかつて立場があった南湖です。
南湖付近では上方に向かって左に富士山が見えます。
これが南湖の左富士です。
このような場所はここ南湖と吉原の2箇所だけです。
現在は沿道に建物が並び富士山が見えにくくなりましたが、
幸い東西方向に流れる千ノ川を渡るので、
ここに架かる鳥井戸橋の上で西側の視界が開け、
天候によっては富士山が見えます。

鳥井戸橋
鳥井戸橋

南湖の左富士の碑
南湖の左富士の碑。鳥井戸橋の袂にあります。

石原橋から富士(の方向)を望む
石原橋から富士(の方向)を望む

これは鳥井戸橋のすぐ西側に架かる石原橋から西の方を見たところです。
今日は見えません。
なお、石原橋を通る道は「左富士通り」と命名されています。

その先で道は左に曲がり、再び西へ向かいます。
そこから300m、小出川を渡る手前に旧相模川橋脚があります。

旧相模川橋脚
旧相模川橋脚

現在相模川はここから1.5km程西を流れていますが、
鎌倉時代は河口を数本持ち、その本流がこの辺りを流れていたそうです。
1923年の関東大震災の際、地下にあった7本の柱が地上に出現。
調査の結果1198年にここに架けられた橋の橋脚と判明しました。
しかし、何だか様子が変です。近付いてよく見てみましょう。

近くで見た旧相模川橋脚
近くで見た旧相模川橋脚

あの、これ木じゃないみたいなんですけど‥‥。

近くにある説明板を読んだら、これはレプリカでした。
本物は朽ちないようにこの下に埋めてしまったそうです。
できれば掘り出して博物館に展示して欲しかったのですが、
そんな事をする場所も予算も無いのかもしれません。

茅ヶ崎の出口の道祖神
茅ヶ崎の出口の道祖神

小出川を渡って1km余り、
現在の相模川を渡る馬入橋の手前に道祖神がありました。
ここで茅ヶ崎市は終わりです。
すぐに平塚市ですが、宿場の江戸方見附までは2.5km程あります。

21:47 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年5月30日

【六】藤沢の「ほんちょう」と「ほんまち」

県道30号戸塚茅ヶ崎線を進み藤沢市に入りました。
道路脇には松の木も植わっています。
駐車場に置かれた車のナンバーも「横浜」から「湘南」に変わりました。

これより藤沢市
これより藤沢市

やがて道は長い下り坂になります。
遊行寺(ゆぎょうじ)坂です。
元の道を掘り下げて改修したため両側が高い崖になっています。

一里塚跡の標柱
一里塚跡の標柱

かつて一里塚があった場所が標柱で示されています。
「現在は何も残っていません」とわざわざ書かれています。
標柱があるのは元の地面より低い場所ですから、
上に何か残っているのではと期待する人も多いのでしょう。
この近くに見附跡の標柱もあるようですが見落としました。

遊行寺
遊行寺

坂が終わる少し手前の右手にある大きなお寺が遊行寺です。

県道30号は遊行寺坂が終わるとそのまま直進しますが、
旧東海道は遊行寺の先で右に曲がり、県道を離れます。

ただ、この辺りから右に入る細い道は2本あり、
どちらが旧東海道かは資料によって異なります。
今回は決め手になる案内表示などが無く、距離も短いため、
両方の道を歩いてみました。

県道から右折する場所
ここを右へ行くと遊行寺の南側の門の前。
奥の「クスリ」と書かれた建物の向こうにもう1本道がある。

手前の道はうっかり見落としそうな程細く、
遊行寺の総門(表門)の前に出ます。
旧東海道は門の前で左折です。

遊行寺総門
遊行寺総門

奥の道は、これと言って変哲のない道でした。
突き当たりを左折して遊行寺総門の前からの道と合流します。

その先にある赤い欄干の橋が遊行寺橋です。
かつてここに架けられていた大鋸(だいぎり)橋は
歌川広重の浮世絵に描かれています。
下を流れる川は境川です。

遊行寺橋
遊行寺橋

橋を渡った先で国道467号に突き当たります。
旧東海道はここを右折し、800メートル程の短い間国道を通ります。
その途中に藤沢本町郵便局があります。
今回はここで風景印を押してもらいます。

藤沢本町郵便局
藤沢本町郵便局

藤沢本町郵便局の風景印
藤沢本町郵便局の風景印

藤沢本町郵便局の風景印は
「広重東海道五十三次・藤沢、『昔話のある町』の看板」です。
切手は「神奈川県の花」のふじです。
藤沢市の花であるふじと江の島が描かれています。

「昔話のある町」の看板
「昔話のある町」の看板

これが「昔話のある町」の看板です。

この日は神奈川台関門跡を午前10時に出て、
藤沢本町郵便局には午後4時半に着きました。
過去2回、最後の郵便局に着くのはぎりぎりでしたが、今回は順調でした。
ここで一旦帰宅し、後日続きを歩きました。

藤沢もまた宿場町を感じさせる物は寺社以外ほとんどありません。
江戸方見附跡や一里塚跡がそうであったように、本陣跡も標柱だけです。
ただ、街道沿いには古い建物が散見され、
昔から栄えた町であることはわかります。

旧東海道藤沢宿内の古い建物

旧東海道藤沢宿内の古い建物

街道沿いの医院にあった鉢植え
街道沿いの医院にあった鉢植え

ここでも春の花が街道を行く旅人の目を楽しませています。

郵便局から500m弱、白旗交差点で早くも国道467号と別れます。
ただし今回は国道の方が右折。旧東海道は直進し、
ここから神奈川県道43号藤沢厚木線になります。
この辺りに義経の首洗い井戸があるはずなのですが、
見つからないのでまた今度にします。
そこから200m弱で伊勢山橋です。

伊勢山橋
伊勢山橋

下を小田急江ノ島線が通っています。
橋の袂から坂を下りるとすぐに藤沢本町駅です。
町名の読みは「ほんちょう」で、郵便局も藤沢「ほんちょう」郵便局ですが、
駅は藤沢「ほんまち」です。
各駅停車だけが停車します。

藤沢本町駅
藤沢本町駅。
5200形各停町田行き(左)と1000形各停片瀬江ノ島行き。

ところで、今回の旅に関連する移動では、
保土ヶ谷宿で相鉄(相模鉄道)、ここ藤沢宿で小田急に乗りました。
どちらも久々の乗車だったのですが、
いつの間にか車体にポップな感じの新しいロゴマークが付いています。
新車はともかく、昔から走っている古い車輌に付いているのを見ると
ちょっとびっくりしますね。
私はずっとJRの沿線に住んでいるのですが、
1987年の国鉄民営化の時に一斉にJRマークが付いたのを見て
若干抵抗を感じたことを思い出しました。

伊勢山橋を渡るとすぐ上方見附跡があります。
例によって標柱のみ。これで藤沢宿は終わりです。

伊勢山橋から1km程、メルシャン藤沢工場の向かいに
「おしゃれ地蔵」があります。
女性の願い事なら何でも叶えてくれるお地蔵さんで、
願いが叶ったら顔に白粉を塗ってお礼をするのだそうです。
仲の良い女性の代わりに私がお参りではだめでしょうか。
とりあえずだめでもいいから
彼女のために何かお願いしておけばよかったですね。

おしゃれ地蔵
おしゃれ地蔵。解説板によると地蔵よりむしろ道祖神の形態だそうです。

メルシャン藤沢工場の先、羽鳥交差点で、
白旗交差点から歩いてきた県道43号が右へ分岐してお別れ。
ここから神奈川県道44号伊勢原藤沢線になります。
しかしそれも束の間、わずか1km先の四ツ谷交差点で
藤沢市に入る手前でお別れした国道1号に戻ります。
藤沢バイパス出口交差点からわずか5.5km程の間に
道は国道1号→県道30号→国道467号→県道43号→県道44号と変わり、
結局国道1号に戻ります。
これだけ変わるともうどうでもいい気がしてきます。

藤沢市はここまで
藤沢市はここまで。市内の歩行距離は約5.8kmでした。

そして、国道を歩くこと700m、藤沢市が終わります。
次の宿場は平塚ですが、その前に茅ヶ崎市を通ります。

15:52 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年5月29日

【五】戸塚の長い坂道 後編

戸塚宿に着きました。

吉田大橋
吉田大橋

今はファミレスになっている江戸方見附から400m、
柏尾川に架かる橋が、広重の浮世絵にも登場する吉田大橋です。
大橋と言っても長さは50m程。現在の橋は1986年に架けられました。

横から見た吉田大橋
横から見た吉田大橋

吉田大橋の袂にある広重の浮世絵
吉田大橋の袂にある広重の浮世絵。中央の道標が妙秀寺に現存しています。

橋の袂の説明板に広重の絵がありました。
この絵にある「左りかまくら道」と書かれた道標が
近くの妙秀寺で保存されています。
もちろん行ったのですが、お葬式の準備中だったので
見ないで戻ってきてしまいました。

戸塚駅付近の旧東海道沿いには、
トミーテックの街並みコレクションにありそうな素敵な建物が
いくつもありました。

旧東海道戸塚宿内の古い建物

旧東海道戸塚宿内の古い建物

旧東海道戸塚宿内の古い建物

吉田大橋から600m、戸塚駅のすぐ脇に、
先程のワンマン道路建設のきっかけを作った「開かずの踏切」があります。
そして、そこから300m、戸塚駅西口の旧東海道沿いに戸塚郵便局があります。
今回はここで風景印を押してもらいます。

戸塚郵便局
戸塚郵便局

戸塚郵便局の風景印
戸塚郵便局の風景印

戸塚郵便局の風景印は
「国道1号線に残る戸塚宿の松並木とお軽勘平記念碑と富士山」です。
切手は「東京の四季の花・木II」のサクラです。
戸塚区の花がサクラなのでこの切手を選びました。

大坂下
大坂下交差点

本陣跡、富塚八幡を通り過ぎつつ市街地を1km程進むと
大坂下という交差点があります。
この少し手前に上方見附があるはずですが見落としました。
ここで戸塚宿はおしまいです。
ここから大坂が始まります。上り坂が1km以上続きます。

坂を上り始めてすぐ庚申塔がありました。

戸塚の庚申塔
戸塚の庚申塔

謡曲「鉢の木」では、鎌倉幕府の御家人佐野源左衛門が、
貧乏で馬に十分なえさを与えられず、
この大坂を通る際に馬が2回も転びます。
会社から通勤用のガソリン代が支給される今のサラリーマンと違って
昔の人は大変だったんですね。

大坂下交差点から約900mの所で、戸塚宿手前の不動坂交差点で分岐した
横浜新道戸塚支線、通称ワンマン道路と合流します。
その少し先に、戸塚郵便局の風景印にも描かれた
お軽勘平戸塚山中道行の場の碑があります。
仮名手本忠臣蔵の四段目と五段目の間の所作事、
「道行旅路の花聟」通称「お軽勘平」の舞台に建てられた碑です。

お軽勘平戸塚山中道行の場の碑
お軽勘平戸塚山中道行の場の碑

江戸時代、現代劇の上演は基本的に禁止でした。
しかも忠臣蔵は、赤穂藩取りつぶしに対して不満を言う、
幕府に対して批判的な内容です。
そのままでは上演できません。
そこで室町時代の恋愛の話に置き換えられたのがこの「お軽勘平」です。
初演は1833年です。

現代人の私から見ると江戸時代は何かと窮屈な時代に思えますが、
170年後の人々は今の我々の事をどう思うのでしょう。
案外、後期高齢者医療制度の事など知って、
「えーっ、平成時代の政治ってそんなむちゃくちゃだったの?
当時の庶民は良く生きていられたね」なんて思うのかもしれません。

原宿一里塚跡
原宿一里塚跡

さらに2km弱進むと、原宿の一里塚跡があります。
塚自体は残っていません。
そこから2km、藤沢バイパス出口交差点で国道1号と別れ、
ここから分岐する県道30号戸塚茅ヶ崎線に入ります。

横浜市の終わり
横浜市の終わり

県道を300m程進むと、広い横浜市もそこで終わり。
横浜市内の歩行距離は約28kmでした。
ここから藤沢市に入ります。藤沢宿は目前です。

06:12 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年5月28日

【五】戸塚の長い坂道 前編

武相国境の標柱
武相国境の標柱

境木の武相国境を過ぎると、今度は焼餅坂を下ります。

焼餅坂
焼餅坂

ここはかつて茶屋が並び焼餅を売っていたとか。
今は静かな住宅街です。
坂を下りきったあたりでJR横須賀線の東戸塚駅から1km程の道のりです。
坂の上り下りに自信があれば、なかなかの住環境です。

その先、少し坂を上ると品濃の一里塚があります。
江戸からの距離は9里。
ここは神奈川県内の一里塚で唯一、道の両側の塚が残っています。

品濃の一里塚 西側
品濃の一里塚。
こちらは上方に向かって右の塚で、公園として整備されています。

上方に向かって右の塚は公園として整備されており、
てっぺんまで登ることができます。
脇から塚の裏手へ回る道があり、途中に公園の入り口があります。

品濃の一里塚 東側
こちらが左の塚。

左の塚は立ち入り禁止の札があったのですが、
後で調べたらこちらも裏手に公園があるという資料もありました。
そう言えばてっぺん近くにそれっぽい柵があったので、
旧東海道側の斜面が立ち入り禁止になっているだけかもしれません。

その先も暫く住宅地で、学校や農地もあります。
右手には高層ビルが見え、東戸塚駅へつながる歩道橋がありますが、
旧東海道は幅の狭いのどかな道のままです。
やがて道は下り坂になります。品濃坂です。

品濃坂
品濃坂を下りきった所。

品濃坂を下りると品濃坂歩道橋があります。
下を通るのは、横浜市主要地方道17号環状2号線です。
横浜の中心街がある中区を避けるようにして南北を結ぶ幹線道路です。

品濃坂歩道橋
品濃坂歩道橋

旧東海道はこの写真で歩道橋を渡って左の階段を下りたところから
画面奥へと続いています。
元はつながっていたのが、環状2号線ができて分断されてしまいました。

品濃坂歩道橋を下りた所
品濃坂歩道橋を下りた所。右が旧東海道。

旧東海道を示す標識
旧東海道を示す標識

戸塚区内はこんな標識で旧東海道が示されています。
ありがたいのですが、紙に印刷して透明フィルムで保護しただけの物で、
いつまでもつか不安です。

そこから暫くは、東戸塚駅の南にある住宅街です。
焼餅坂・品濃坂辺りより緑が少ない代わりに平坦で歩きやすいです。
歩道橋を渡ってから約800m、
保土ヶ谷宿上方見附以来の国道1号にぶつかりますが、
そのまま突き抜けて、並行する細い道に入ります。
(相対的に細いだけで特に狭い道ではありませんが)
ここから約700mは、たまに国道に戻りつつ細い道を進みます。

赤関橋の東海道をイメージした絵
赤関橋の東海道をイメージした絵

途中の赤関橋には東海道をイメージした絵が彫られています。
赤関橋から300m程でまた国道に合流し、ここからは国道を進みます。
そこから約900m、不動坂交差点のすぐ手前に、
神奈川県指定天然記念物、益田家のモチノキがあります。
樹齢約300年とのこと。見事ですね。

益田家のモチノキ
益田家のモチノキ

ところで、「モチモチの木」という絵本がありますけど、
あの本で、秋になると実をつけ、
実を粉にしておもちにするとほっぺたが落ちるほどおいしくて、
霜月二十日の晩に灯がともるというモチモチの木って
ひょっとしてモチノキなんでしょうか。
そばに解説板があるので読んでみましょう。

「この樹皮より鳥もちを作ることからモチノキの名の由来があり‥‥」

違いましたね。

不動坂交差点付近
不動坂交差点付近

この木のそばから旧東海道は国道から離れて左に進みます。
一方、国道1号は不動坂交差点で二手に分かれます。
左が元来の国道1号で、戸塚駅の所の踏切で東海道本線と交差します。
ここは東海道本線と横須賀線の電車がひっきりなしに通る開かずの踏切です。
渡るのに30分待たされたという話も聞きます。

昔、吉田茂首相が大磯の邸宅から東京へ向かう際、この踏切で業を煮やし、
踏切を通らないバイパスを造らせたという逸話が残るのが、
不動坂交差点から右へ進む横浜新道戸塚支線、通称「ワンマン道路」です。
この先400m程の所で東海道本線の上を跨ぎます。

ハム工場
ハム工場

不動坂交差点付近から旧道を暫く進むと、かつてのハム工場がありました。
神奈川県の多くの業者によって製造される鎌倉ハムは
1874年、イギリス人ウイリアム・カーチスが
外国居留民のために作ったのが始まりとされています。
その発祥の地が今歩いているこの辺りなのですが、
当時ここは鎌倉郡だったため鎌倉ハムの名が付いたのだとか。

不動坂交差点手前から500m弱でちょっと広い道に突き当たります。
ここを右へ行くと、程なく舞岡入口交差点で
国道1号(ワンマン道路じゃない方)に合流します。
そして舞岡入口交差点から300m、ようやく戸塚宿江戸方見附跡です。
現在はファミリーレストランです。

江戸方見附跡碑
江戸方見附跡碑

江戸を早立ちした旅人は、
ここ戸塚宿で最初の宿泊をすることが多かったそうです。
私の場合は日本橋-川崎間を正味約6時間、川崎-神奈川間を3時間、
神奈川-戸塚間を4時間で歩いています。
午前4時に日本橋を出れば夕方5時に着ける計算ですが、
3日に分けて歩いているので、1日で歩き通せるかどうかは怪しいです。

話はひとまずここまで。後編に続きます。

06:21 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年5月26日

【四】程ヶ谷は細長い谷 後編

元町橋を渡り、昔の程ヶ谷宿だった元町地域を抜けました。
このまままっすぐ行けば道はまた国道1号に合流しますが、
旧東海道はその少し手前で右へ曲がり、権太坂に入ります。

権太坂の入り口
権太坂の入り口

江戸から東海道を西へ向かう場合、権太坂は最初の難所です。
こういう難所を乗り切るコツは、
脳をトランス状態にして、疲労に気付く前に上り切る事です。
元町ガード交差点の所にあった自動販売機で飲み物を買っておき、
脳内で「できるかな」のテーマ音楽を再生しながら
一定の速さでどんどん上ります。
春の花が咲いています。
ちなみに私はノッポさんと同じ高校を卒業しました。(本当です)
どうでもいいですね。

権太坂
権太坂

途中で横浜新道を跨ぎます。
写真にはありませんが、横浜ランドマークタワーも見えました。

横浜新道
横浜新道

上り始めて20分弱、約1km進みました。この辺りが権太坂のてっぺんです。

権太坂頂上付近
権太坂頂上付近

そこから250m程行くと突き当たりです。
旧東海道は右ですが、ちょっと左の方へ寄り道をします。

権太坂の先の突き当たり
旧東海道は突き当たりを右。投げ込み塚の碑は左。

ほんの数分歩くと、投げ込み塚の碑があります。
江戸を早立ちした人は、その日のうちに戸塚を目指しました。
ここ権太坂は戸塚に着く手前の難所。
疲労が蓄積して行き倒れになる人も少なくなかったといいます。
その行き倒れの人を投げ込んだと言われる井戸がありました。
近年、横浜市の行った発掘調査で、
実際に投げ込みが行われていた事が確認され、
ここに供養碑が建てられました。
なお、投げ込み井戸はここにあったわけではないそうです。

投げ込み塚の碑
投げ込み塚の碑

さっきの突き当たりまで戻って今度は右へ。
200m程先の大きな木がある所が境木立場跡です。
立場とは宿場間に設けられた休憩所です。
ここは江戸方から来ると権太坂、
上方から来ると品濃坂・焼餅坂を上り切った場所なので
休憩できる場所があったわけです。

境木立場跡
境木立場跡の大木

そしてここで保土ヶ谷区から戸塚区に入ります。
今はどちらも横浜市ですが、江戸時代はここが武蔵国と相模国の国境でした。
それ故「境木」という地名なのです。

武相国境の標柱
武相国境の標柱。2005年に立てられました。
後ろの階段を上ると境木地蔵尊です。

ここ境木にある境木地蔵尊にはこんな言い伝えがあります。

鎌倉の腰越海岸に流れ着いたお地蔵さんが、
「江戸へ行きたい。もし途中で動かなくなったらそこで降ろしてくれ」
と言うので、腰越の漁師たちが荷車に乗せて運ぶことにしました。
ところが、境木まで来たら荷車を引いていた牛が動かなくなったので、
初めに言われたとおりお地蔵さんをそこへ置いて帰りました。

すると今度はお地蔵さんがお堂を建てて欲しいと言い出すので、
境木の村人たちがお堂を建てたら人々がお参りに来るようになり、
境木は賑やかな場所になりました。

石のお地蔵さんが流れてくるというのもにわかには信じがたいし、
実のところ運ぶのが予想外に大変でここで諦めたか、
最初から境木に安置するつもりだったのかもしれませんが、
そんな伝説の残るお寺があります。

次の戸塚宿までは5km程です。

06:38 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年5月25日

【四】程ヶ谷は細長い谷 中編

広重の浮世絵に描かれた橋がかつてあった場所だという公園を通り抜けます。
公園内で道は左に曲がり、西区以来の環状1号に合流します。
なお、この公園の右脇から延びる細い道を
旧東海道とする資料もあるようですが、
今回は保土ヶ谷区設置の案内板に従い環状1号を歩きました。

公園から環状1号へ
公園から環状1号へ

途中、素敵な古い建物をいくつかみつけました。

旧東海道程ヶ谷宿内の古い建物

旧東海道程ヶ谷宿内の古い建物

帷子会館

通りはやがて緩く左へ曲がりJR保土ヶ谷駅へ至りますが、
旧東海道は曲がらずまっすぐ分岐する細い道を進みます。

旧東海道と保土ヶ谷駅方面の分岐点
旧東海道と保土ヶ谷駅方面の分岐点

分岐点にあるお店のシャッターに昭和の香りのキャラクター。
今ここで営業しているのは食べ物屋さんなのですが、
この絵は電気屋さんのマスコットだったような気がします。

昭和の香りのキャラクター
昭和の香りのキャラクター

ここから300m程の間に助郷会所、問屋場、高札場の跡がありますが、
全て解説が書かれた標柱のみで、現在は何も残っていません。

東海道本線の踏切
JRの踏切。横須賀線の電車が通過中。

その先に踏切があります。
東海道本線と横須賀線の電車がひっきりなしに通過します。
この踏切の辺りから町名が保土ヶ谷町になります。
保土ヶ谷町は長さ1.6km、幅は広い所でも150m程の細長い地域です。
この辺りは今井川によって削られてできた谷で、
旧東海道もその今井川に沿っています。

保土ヶ谷の地名の由来は諸説ありますが、民俗学者の柳田国男は、
この地形が女性の陰部(=ほと)に似ているからという説を発表しています。
私は不勉強で、この説を肯定する事も否定する事もできませんが、
この地形が女性の陰部に似ているとすれば、
まっすぐな谷はみんな保土ヶ谷になってしまいそうな気がします。

ただ、これに関連してちょっと面白い話があります。
程ヶ谷宿に入った所に帷子橋という橋がありました。
帷子は裏地のない和服の総称ですが、下着と解釈する事もできます。
だから「程ヶ谷宿の帷子橋」と来れば、一体どんな橋かと興味が沸くわけで、
それ故帷子橋は多くの浮世絵に描かれたのではないかというのです。
これは私のサイトと相互リンクして頂いている伊達゛百一さんのブログ
「東海道を旅しよう! 霊柩車編」で述べられている事です。
実際の由来がどうであれ、
保土ヶ谷という地名から女性の陰部を連想する事は可能ですからね。

以前から広告でしばしば使われる手法に、
セックス或いは死を連想させる物を画像内に隠しておき、
見る人の潜在意識に訴えるというものがあります。
例えば、煙草の箱に描かれた動物の顔に
よく見ると男女の性器に見える部分があるとか、
水割りのグラスに入った氷の一つが向きを変えると髑髏に見えるとか、
そういう広告が実際にあったようです。
「程ヶ谷宿の帷子橋」はこれより露骨な手法ですが、
たかだか400年程度では人間の心理は変わらないのでしょう。

本陣跡
本陣跡。通用門のみ残っています。旧東海道はここを右へ。

踏切を過ぎると、今度は神奈川宿青木橋以来の国道1号に突き当たります。
そこにあるのが本陣跡です。
塀の中に当時の通用門のみ残っていますが、公開はされていません。
旧東海道はここで国道1号に合流し、右に曲がります。

本金子屋跡
本金子屋跡。伝・明治2年建築。

立派な建物があるので近付いてみたら、本金子屋という旅籠の跡でした。
江戸時代から営業していたようですが、
この建物は1869(明治2)年に建てられたと伝えられているそうです。
今は営業していません。

上方見附・一里塚跡
上方見附・一里塚跡。昭和初期までこの付近にも松並木があったそうです。

上方見附は本陣跡から600m程でしょうか。
同じ場所に一里塚跡もあります。日本橋から8里です。
今はいずれも残っていませんが、松を植えるなどして雰囲気を出しています。
これで一応程ヶ谷宿は終わりなのですが、
ここは1648年の東海道ルート変更に伴い江戸方に移転した宿場の終わりです。
それ以前はこの先権太坂の手前までの元町と呼ばれる地域に
宿場があったとされています。

上方見附・一里塚跡のすぐ先で国道1号は左へ少しそれます。
そこから別れてまっすぐ進む細い道が旧東海道です。
500m余り進むと横浜保土ヶ谷三郵便局があります。
今回はここで風景印をもらいます。

横浜保土ヶ谷三郵便局
横浜保土ヶ谷三郵便局

横浜保土ヶ谷三郵便局の風景印
横浜保土ヶ谷三郵便局の風景印

横浜保土ヶ谷三郵便局の風景印は境木地蔵と権太坂だそうです。
切手は「神奈川県の花」のヤマユリです。
ヤマユリは県の花に指定されています。

郵便局から200mほど進むと突き当たりに出ます。元町ガード交差点です。
右に東海道本線のガードがあります。
旧東海道は左折です。その先は緩い上り坂で、すぐに元町橋があります。
渡ると右手に庚申塔があります。橋の手前までが昔の宿場町でしょうか。

元町の庚申塔
元町の庚申塔

橋の袂に元町についての解説がありました。
それによると、元町辺りに軒を連ねる民家の茅葺き屋根に、
イチハツというアヤメに似た花が咲いているのが珍しく、
旅人たちの評判になっていたそうです。
明治の初めには外国人にも知られるようになったというので
遙か昔の事かと思えば、
昭和30年代頃までは神奈川県の観光案内にも紹介されていたといいます。

今年(2008年)は中国の北京でオリンピックが開催されますが、
7年前に開催地に決まったまさにその日、たまたま私は北京にいました。
万里の長城では夜の開催地発表に備えてイベントの準備が進められており、
ホテルに戻ったら従業員がロビーのテレビの前に集まり
発表を今か今かと待っていました。

まだ都心近くでも古い街並みが残っている所がありましたが、
地下鉄建設のために古い城壁が一部壊されたと聞きました。
その時は何だかもったいないような気がしたのですが、
思えば日本も過去に同じ方法で発展してきました。
この旅の出発点である日本橋の上の首都高速が完成したのは
東京オリンピックを控えた1963(昭和38)年です。
程ヶ谷宿元町で民家の茅葺き屋根にイチハツが咲いていたのも
だいたいその頃までというわけです。

日本橋
日本橋の上を首都高速が跨いでいます。

たとえあの時東京でオリンピックが開催されなかったとしても、
首都高速もカラーテレビも新幹線もいつかは実現したでしょう。
しかし、生まれる6年前にオリンピックが開催されたおかげで
私は生まれた時から「何でもある生活」を享受する事ができました。
(携帯電話だけは大人になるまでありませんでしたが)
時代は違いますが、北京の人たちはきっとこれから
そういう恩恵を受けることになるのでしょう。
外国人の私としては「後悔しない再開発ができるといいですね」としか
言いようがありません。

自動販売機で飲み物を買い、デジカメで写真を撮りながら、
遙か500km先を目指して歩くという酔狂な旅の途中で
そんな事を考えました。

08:55 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年5月24日

【四】程ヶ谷は細長い谷 前編

神奈川宿の、広重の浮世絵にも描かれた台町の坂を上りきると、
右手に神奈川台関門跡の碑があります。
ここまでが神奈川宿です。
坂を下って行くと、上台橋という橋があります。
下は横浜駅西口から延びている道路です。
その先で神奈川区から西区に入り、やがて道が左右に分かれます。

県道への入り口
県道への入り口

左は県道横浜環状1号、右は県道と並行する細い道です。
資料によっては右の道を旧東海道としている物もありますが、
西区では左の環状1号を旧東海道としているようです。

西区の東海道の目印
西区の東海道の目印

西区内の東海道は路面にこんな目印が埋め込まれています。

浅間神社への道
浅間神社への道

県道が新横浜通りと交差する所が浅間下交差点です。
交差点の所にある公園の先で東海道は県道と別れて右折し、
1本裏の通りに入ります。
先程県道に入らず右へ行った道とここで合流します。

浅間神社
浅間神社

浅間神社の入り口です。
ここにある洞窟は富士山に通じているという伝説があり、
かつて源頼朝も調査を行ったとか。
実際は横穴式古墳だそうです。

芝生の追分
芝生の追分

700m程行くと芝生(しぼう)の追分です。
右の道を行くと300m程先で国道16号と合流し、八王子方面へ向かいます。
旧東海道は直進です。
ここから80メートル余りは旧東海道が西区と保土ヶ谷区の境界です。
西区内の東海道は1.5km程で終わります。

松原商店街
松原商店街

追分のすぐ先から松原商店街に入ります。
昔ながらの商店街ですが、結構賑わっています。
商店街を抜けた所で国道16号を横切ると、
今度はシルクロード天王町商店街です。
商店街に入るとすぐに程ヶ谷宿の江戸方見附跡があります。
元は盛り土などがあったようですが、今は説明板だけです。
ここから宿場に入ります。

江戸方見附跡の解説板
江戸方見附跡の解説板

少し行くと右手に橘樹(たちばな)神社があります。
ここはかつて牛頭(ごず)天王社という名前で、
この辺りの地名である天王町の由来になっています。

橘樹神社
橘樹神社

その先で帷子川を渡る橋が帷子橋です。
帷子川がここを流れるようになったのは戦後の事で、
以前はもう100m程先に帷子橋がありました。

帷子橋
帷子橋

商店街を抜けると相模鉄道の天王町駅があります。
相模鉄道はもともと
現在のJR東日本相模線(茅ヶ崎-橋本)を運行していた会社で、
1921年に茅ヶ崎-寒川間が開業、1931年に橋本まで全通しました。
その後、1943年に神中鉄道(横浜-厚木-中新田口)を吸収合併しましたが、
1944年には軍需輸送の都合で茅ヶ崎-橋本間を国に買収されました。
その結果、現在の相模鉄道の路線網は
旧神中鉄道の路線から発展したものになっています。

天王町駅
天王町駅

旧東海道が天王町駅の下をくぐり抜けた先に小さな公園があります。
ここはかつて帷子橋があった場所で、
橋の欄干と常夜灯を模したモニュメントがあります。
広重の浮世絵にある新町橋はここにあった橋です。

旧帷子橋跡
旧帷子橋跡

木の橋を渡り賑わう宿場へと続く江戸時代の道を想像しつつ先へ進みます。

10:31 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年5月 7日

【三】横浜に呑まれた神奈川 後編

神奈川宿の旅は青木橋に着いたところで一旦帰宅し、
後日そこから再出発しました。
橋の袂に京急の神奈川駅があります。

神奈川駅
神奈川駅

京急の公式サイトによると、
この駅舎は清水の舞台をイメージした建物だそうです。
「神奈川宿歴史の道」の道筋に位置しているからだそうです。
でも、どの辺が清水の舞台なのかわからない上に
神奈川宿と清水寺は関係ないと思います。

神奈川駅
反対側から見た神奈川駅。

青木橋を渡って反対側から見てみましょう。
清水以前にそもそも舞台になっていない気がします。
電車は800形の各駅停車(たぶん品川行き)です。

国鉄神奈川駅跡地付近
電車がいる辺りにかつて国鉄の神奈川駅がありました。

この写真は神奈川駅を出て横浜駅に向かう京急の電車です。
ちょうど今電車がいる辺りに、かつて国鉄の神奈川駅がありました。

1872年に開業した日本最初の鉄道は新橋-横浜間の路線でした。
当時の新橋駅は現在の汐留シオサイトの所にあり、
当時の横浜駅は開港場に程近い現在の桜木町駅でした。
そして、ここ神奈川宿には神奈川駅が設けられました。
後にこの路線が西へ延長され関西の鉄道と接続される時、
海に向かって飛び出した位置にある横浜駅は本線から外れてしまいました。

その後紆余曲折あって、結局1915年に本線上に新しい横浜駅を作り、
それまでの横浜駅を桜木町駅に改名しました。
この新しい横浜駅が1928年に今の位置に移転したら
あまりにも神奈川駅と接近しすぎているということで、
神奈川駅が廃止されました。

現在の横浜駅周辺は、かつての宿場町である神奈川区です。
1858年に日米修好通商条約が締結された時点では、
開港場は神奈川湊になる予定でした。
しかし、実際の開港場は敢えて神奈川を避け、
半農半漁の寒村、横浜村に変更されました。
現在の横浜市中区の辺りです。

横浜市役所も関内駅に近いのだし、
今の横浜駅の位置なら駅名は神奈川の方が自然なわけですが、
どうしても本線上に「横浜」という名の駅を置かねばならなかったのは、
県庁も市役所も抱える近代的な新興都市が
本線上の主要駅というある種の「代表権」を
江戸時代の宿場町に持って行かれてはたまらないと考えたからでしょうか。

さて、続きを歩きましょう。
品川から(実は泉岳寺から)ずっと一緒だった京急とも神奈川でお別れです。
青木橋を渡った先の、ビルの谷間にある細い道が旧東海道です。

青木橋を渡ると正面に三宝寺が見えます。
大きな台に載った驚きの建物です。
よく見ると左下の建物と渡り廊下でつながっています。

三宝寺
画面中央、台の上にあるのが三宝寺。

左下のビルは旧東海道に面しています。
ちゃんと正面に三宝寺と書いてあります。

三宝寺の下のビル
三宝寺の下にあるビルの旧東海道側。

その隣は大綱金刀比羅神社です。
ここにはかつて江戸から7番目の一里塚がありました。

大綱金刀比羅神社
大綱金刀比羅神社。後ろに三宝寺が見えます。

この先から道は上り坂になります。

広重の絵の場所
広重の絵の場所

歌川広重の「東海道五十三次」では、
神奈川宿の風景としてこの場所が描かれています。
広重の絵では道の左手に茶屋が並び、その裏手はすぐ海になっています。
今更東海道なんて言っても寺社くらいしか残っていないのでしょうが、
品川宿などそれでも雰囲気作りに力を入れています。
お洒落な港町のイメージを大切にする横浜市は、
どうやら古臭い江戸時代の宿場町には興味がないようです。

坂の途中に田中家という料亭があります。

田中家
田中家

広重の神奈川宿の絵をよく見ると、
「さくらや」という看板を掲げた旅籠があります。
そのさくらやの現在の姿がこの田中家です。
田中家のウェブサイトを見ると「御利用法」という項目があり、
予約から当日の事まで流れがざっと説明されています。
なかなか興味深いサイトです。

坂を上りきると、右手に神奈川台関門跡の碑があります。
鶴見橋関門とともに横浜警備のために設けられた関門の跡です。

神奈川台関門跡の碑
神奈川台関門跡の碑

ここで神奈川宿は終わりです。
横浜ですから江戸時代の宿場町の雰囲気はあまり期待していませんでしたが、
それにしてもほぼ現代の大通りと静かな住宅街に終始した感ありです。
次の保土ヶ谷宿の入り口までは2km程です。

06:20 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年5月 6日

【三】横浜に呑まれた神奈川 前編

八丁畷駅を過ぎて暫く行くと、市場上町という交差点があります。
左を見ると京急の踏切があります。
何の案内もありませんが、ここで川崎市は終わり。
地図で見ると縦に長い川崎市を横に通り抜けたので、
結構呆気なく通り過ぎてしまいました。
ここから横浜市鶴見区です。
静かな住宅街を歩いて行くと、左側に市場村一里塚があります。
江戸から5番目の一里塚です。

市場村一里塚の碑
市場村一里塚の碑

後で気付いたのですが、これは碑で、一里塚本体ではありません。
どうも不勉強でいけませんね。

その先、鶴見川橋で鶴見川を渡ります。
鶴見川橋を渡った所に鶴見橋関門旧蹟碑があります。

鶴見橋関門旧蹟碑
鶴見橋関門旧蹟碑

1859年に横浜港が開港すると
生麦事件など外国人が殺傷される事件が頻発したため、
横浜周辺にいくつもの関門や番所を設けて警備を強化しました。
東海道上では神奈川宿の出入り口に当たる鶴見と神奈川台に関門が、
また川崎宿から保土ヶ谷宿の間に20箇所の見張り番所が設けられました。

さらに進むと沿道はだんだん賑やかになり、
やがて京急鶴見駅とJRの鶴見駅の前に出ます。
旧東海道は京急鶴見駅の所で高架の線路をくぐり、寂れた商店街を進みます。
商店街を抜けると、六郷橋で別れた国道15号と交差します。
そこにJR鶴見線の国道駅があります。

国道駅の改札口
国道駅の改札口

国道駅は昭和初期の風情が漂う駅として知られています。

本来はここで国道15号を横切って進まなければいけないのですが、
私は誤ってここから国道15号を進んでしまいました。
本来の道はそこから2km弱進んだ東海道本線の貨物線の下で
国道15号と合流します。
そして、そのすぐ先から神奈川区に入ります。

今回は少々訳あって、
川崎宿出発が午後2時半とかなり遅くなってしまいました。
しかも撮影の都合で六郷橋の川崎側から歩き直しています。
そのため神奈川宿の入り口まであと数百メートルの地点で
時刻は既に4時半を過ぎていました。
これでは予定の郵便局に5時までに着く事ができません。
そこで、例によって現代人に戻り、子安駅から京急に乗ります。
(京急鶴見駅の下の自販機で飲み物を買った時点で現代人でしたが)
ここから2つ先の仲木戸駅までワープです。

子安駅
子安駅

今回は横浜西神奈川郵便局です。
国道1号沿いにあります。

横浜西神奈川郵便局
横浜西神奈川郵便局

横浜西神奈川郵便局の風景印
横浜西神奈川郵便局の風景印

横浜西神奈川郵便局の風景印は
歌川広重「東海道五十三次」の神奈川とみなとみらい21地区のビル群です。
切手は「神奈川県の花」のバラです。
横浜市の花がバラなのでこの切手を選びました。

風景印をもらったら電車で子安駅まで戻り、続きを歩きます。
子安駅から国道15号を2km程進むと、滝の橋という橋があります。

滝の橋
画面下の小さな橋が滝の橋。左が江戸方。
上を通るのは首都高速神奈川1号横羽線。
画面奥は江戸時代は海でした。

かつてこの橋の江戸側に神奈川本陣、京都側に青木本陣があり、
橋の袂には高札場もありました。
今は何の痕跡もありません。
現在の滝の橋は1966年に架けられました。
下を流れる滝の川沿いに遊歩道が整備されています。

滝の橋の先200m程の右手に宮前商店街の入り口があります。
日本橋からのお付き合いだった国道15号とはここでお別れして
商店街の方へ進みます。
なお、国道15号はその先300mくらいの所にある青木通交差点で
国道1号と合流して終わっています。

宮前商店街入り口
宮前商店街入り口

商店街といってもそんなに商店が集中しているわけでもないようです。
長さは200m程。抜けた先に青木橋があります。

青木橋
青木橋

青木橋は国道1号がJRと京急の線路を跨ぐ橋です。
ここに着いたのは午後6時。一旦帰宅です。
話も長くなったのでここまでを前編とします。

15:56 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年4月29日

【二】川崎滑り込み

大森からしばらくは国道15号を歩きます。
戦後間もない1947年、大森区と蒲田区が合併しました。
新しい区名は両方から一字ずつ取って大田区にしたそうです。
だから、大田区内に「大田」という町名はありません。
聞くところによると、太田道灌と関係があると勘違いしている人もいるとか。
(それなら太田区になるはず)

東海道を歩いていると、
京急の梅屋敷駅の辺りで旧大森区から旧蒲田区に入るようです。
梅屋敷駅を過ぎるとすぐに聖蹟蒲田梅屋敷公園があるのですが、
残念ながら時間がないので通過します。

蒲田付近は京急の線路を高架線にする工事が行われています。
以前、京王線の府中付近が高架になった時もその高さに驚きましたが、
こちらの高架橋は2段重ねでもっと高いようです。

やがで道は多摩川に突き当たり、ここを六郷橋で越えます。
江戸時代初期、すなわち徳川家康の命により東海道の整備が行われた頃、
ここに橋が架けられました。
しかし、1688年の洪水で橋が流されると、
以後は明治の初めまで渡船での行き来になりました。
歌川広重の東海道五十三次にも六郷川(多摩川)の渡船が登場します。

六郷橋
六郷橋

明治以降、ここには何回か橋が架けられ、
1984年には現在の六郷橋が一部完成しました。
この橋を渡ると東京都から神奈川県に入ります。

神奈川県川崎市を示す標識
これより神奈川県川崎市。

渡船のモニュメントがあります。

渡船のモニュメント

橋を渡りきったところで旧東海道は国道15号とお別れし、
川崎駅の方へ向かいます。

旧東海道を示す標識
旧東海道が矢印で示されています。

旧東海道を示す石柱
こちらは道路脇に立てられた石柱。

今回は川崎市役所通郵便局で風景印を押してもらいます。
ここは旧東海道に面しているのですが、手前の街路樹に隠れて目立たず、
時間ぎりぎりだというのに見過ごして一旦通り過ぎてしまいました。

川崎市役所通郵便局
川崎市役所通郵便局

川崎市役所通郵便局の風景印
川崎市役所通郵便局の風景印

川崎市役所通郵便局の風景印は東京湾アクアライン川崎側入り口です。
川崎市内のかなり多くの郵便局で使われている共通のデザインです。
切手は「東京の四季の花・木II」のツバキです。
川崎市の木がツバキなのでこの切手を選びました。
この日はここで終了。一旦帰宅し、後日続きを歩きました。

旧東海道はJR川崎駅前から延びる「新川通り」と交差します。
この大通りとの交差点に「小土呂橋」と書かれています。

小土呂橋交差点
小土呂橋交差点

名前から想像できますが、新川通りの所には以前新川堀という川があり、
東海道は小土呂橋という橋で新川堀を渡っていました。
今は暗渠になっているそうです。

新川通り
新川通り

小土呂橋を過ぎると間もなく川崎宿を出ます。
暫く進むと、線路脇に松尾芭蕉の句碑があります。
江戸時代の旅は時間がかかる上に危険も多く、
旅立ちは別れを惜しんで送り、無事帰れば喜んで迎え入れたといいます。
1694年、51歳(数え年)になった芭蕉が江戸から西へと旅立つ際には、
門人たちがここまで見送りに来たといいます。
さらに、奥の細道でお供をした河合曽良は、
高齢の芭蕉を気遣い箱根の関まで付いていきます。

松尾芭蕉句碑
松尾芭蕉句碑

麦の穂をたよりにつかむ別れかな

芭蕉はその年の秋に亡くなり、門人たちとはこれが永遠の別れになりました。

八丁畷駅
八丁畷駅

芭蕉の句碑のすぐ先に八丁畷駅があります。
駅前の踏切を渡って400m程行くと横浜市に入ります。
次は神奈川宿です。

23:28 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年4月25日

【一】品川行ったり来たり

高輪大木戸を過ぎた先に泉岳寺があります。
年配の人に「逆ギレ」という言葉を説明する時、私は忠臣蔵を例にします。
まあ、偉そうに説明する私も、逆ギレを「さかぎれ」と読んでしまうのですが。
(だって、その方が日本語として自然じゃん)

品川駅
中央がJR品川駅。右端が京急品川駅。

暫く行くと品川駅の前に出ます。
ここはまだ港区です。品川区ではありません。ややこしいですね。
ちなみに品川区には目黒駅があります。これも目黒区じゃないんですね。
品川駅の先でJRの線路を跨ぎ、京急の踏切を渡ります。

京急の踏切
京急の踏切。ツツジが咲いています。電車は2100形の快特泉岳寺行き。

踏切の先に屋形船の溜まり場があります。
今は埋め立てが進みましたが、江戸時代まで東海道のこの辺りは海沿いで、
品川駅も1872年に開業した時は海辺だったといいます。
歌川広重の浮世絵でも、街道沿いの建物の背後はすぐ海になっています。

船溜まり
船溜まりの屋形船。水路を写真右奥へ進むと天王洲アイルです。

本陣跡は現在「聖蹟公園」という公園になっています。
1868年、京都から江戸へ向かう明治天皇の宿舎にここが使われた事を記念し、
御聖蹟の碑が建てられています。

御聖蹟の碑
聖蹟公園にある御聖蹟の碑。

と、ここまで歩いて、どうも様子がおかしい事に気付きました。
よく見ると、私が歩いている道は東海道より1本海寄りの道でした。
京急の踏切の所まで戻ってみると、隣にもう1つ踏切があり、
脇に「従是南 品川宿 地内」と書かれた柱が建っています。
ここが入り口だったんですね。

もう一つの踏切
これがもう一つの踏切。品川宿の入り口を示す柱が建っています。

日本橋から品川宿入り口まで、旧東海道は現在国道の一部になっていますが、
ここから大森までは国道から外れます。
沿道には旧東海道である事を示す標識も建てられています。

旧東海道の標識
旧東海道の標識

暫く行くと、街道沿いは商店街になっています。
結構賑わっているみたいです。

児童公園
児童公園に凝った滑り台。右は藤棚。

恐らく地元の子供たちの遊び場であろう小さな公園です。
この滑り台、江戸時代の灯台を模した形でしょうか。
右の藤棚も古風な造りです。その下にある背の高い箱も気になります。
また、写真にはありませんが、この公園の入り口には
静岡県のどこかの宿場町から移植したという松の木もあります。
(同様の松はここ以外の公園にもあります)

品川寺山門
品川寺山門

青物横丁駅の近くに品川寺(ほんせんじ)、海雲寺があります。
この近辺までが品川宿です。
宿場周辺には古いお寺が多く、見るべき場所はたくさんあります。
しかし、この東海道の旅は物見遊山が目的ではありません。
京都まで歩いて行くのが目的です。
日本橋に続いて品川でも道に迷って時間が無いので先を急ぐ事にします。
東京に住んでいる限り品川は好きな時に来られるからいいでしょう。

品川宿を出て少し歩くと、浜川橋という小さな橋があります。
この先にある鈴ヶ森刑場へ送られる罪人を親族らがここで密かに見送り、
涙を流して別れたという場所で、「涙橋」の別名があります。
現在の橋は1934年に架けられました。結構古いですね。

浜川橋
浜川橋

浜川橋を過ぎた先で重要な事を思い出しましました。
郵便局へ行くのを忘れています。
歩いて戻ると時間的に厳しいのでここは現代人に戻る事にして、
(デジカメで撮影している時点で既に現代人なのですが)
再び浜川橋を渡り、立会川駅から京急で鮫洲駅まで行きました。
ここから大井町の品川郵便局まで歩きます。
街道沿いの郵便局には風景印が無いので、
少し離れたここで風景印を押してもらいます。

品川郵便局
品川郵便局

品川郵便局の風景印
品川郵便局の風景印

品川郵便局の風景印は品川寺の江戸六地蔵、品川神社、大井埠頭です。
1989年から使われている物で、その前は鈴ヶ森遺跡と大井埠頭だったそうです。
切手は旧50円普通切手です。
品川宿の先にある蒲田の梅屋敷に因んでメジロの絵の切手にしました。

再び電車で立会川まで戻り、続きを歩きます。
先程の浜川橋の先に鈴ヶ森刑場跡があります。
1690年にオランダ使節の一員として来日した
ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルの紀行文に次のような記述があります。

品川の手前には刑場があって、
通り過ぎる旅行者はそれを目にしてむかつくような気持ちになる。

(江戸参府旅行日記 ケンペル著 斉藤信訳 東洋文庫)

今も残る火炙りや磔のための柱を立てる台座は通りに面した場所にあり、
ここでの処刑が見せしめのためであった事が伺えます。

ここで旧東海道は再び国道15号線と合流します。
少し歩くとまた別れ、ミハラ通りという細い道になりますが、
やがてまた合流します。
そこから5km程国道を歩くと多摩川です。
多摩川を渡れば川崎です。夕方5時までに着かないとハンコがもらえません。
先を急ぎましょう。

20:48 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年4月23日

【振り出し】日本橋迷走

構想二十数年、準備期間約2年という無駄に長い計画期間を経て、
いよいよ東海道の旅が始まります。
まずは日本橋へ。出発点まで電車で移動してしまうところが現代人です。

日本橋駅に着いたのは午前9時40分頃。
昔は「お江戸日本橋七つ立ち」と言って早朝の出発が常識でしたが、
今回はそういうわけにはいきません。
日本橋郵便局で風景印を押してもらう必要があるので、
窓口が開く午前9時より早い出発はできないのです。
まあ、それにしたって
あと1時間くらい早く着いても良さそうなものですけどね。

まずは出発点となる日本橋の確認なのですが、着いた所はなぜか江戸橋。
こんなに近い場所なのにどうして迷うのでしょう。
袂の古いビルを気にしつつ、日本橋の方へ移動します。

日本橋
これが日本橋。画面奥が京都方面。

初代日本橋は1603年に架けられ、翌年には五街道の起点に定められました。
その後19回の架け替え、修復を経て、1911年に現在の日本橋が完成しました。
橋の中央には日本国道路元標が埋め込まれています。

日本橋の中央部
橋の中央部の路上。手前のセンターラインの所に道路元標が埋め込まれています。

これが道路元標。
これが道路元標。

道路元標のレプリカ
橋の袂にあるレプリカ。

日本橋を撮影している間に10時を過ぎてしまいました。
早いところ郵便局へ行って風景印をもらいたいのですが、
日本橋郵便局の場所がわかりません。
地下鉄の駅にある周辺の地図には、単に「郵便局」としか書かれていません。
この周辺には意外と郵便局が多くて、どれが日本橋郵便局やらわかりません。
日本橋の袂の交番で聞けば良かったな、と思いつつさまよっていたら、
ようやく屋上に郵便マークのある大きな建物を発見。
よく見れば、さっき気になった江戸橋の袂にある古いビルの隣です。
大き過ぎて見えなかったみたいです。

日本橋郵便局と三菱倉庫本社
手前が日本橋郵便局。

ちなみに後で調べたら、この古いビルは三菱倉庫の本社でした。
1930年竣工で、2011年までに建て替える計画があるとか。

日本橋郵便局の風景印は日本橋と前島密の胸像です。
切手は「東京の四季の花・木II」の菊です。
ここは皇居に近いのでこの切手を選びました。


日本橋郵便局の風景印
日本橋郵便局の風景印。

風景印をもらって再び日本橋まで戻ると既に10時40分。
やれやれ、何とも先が思いやられますが、これでいよいよ出発です。
とっとと京都目指して歩き始めましょう。


ハナカイドウと野村證券ビル
ハナカイドウがさいています。後ろのビルは1930年竣工の野村證券本店。
日本橋の袂にあります。

東京駅の前を通り抜け、京橋、銀座、新橋、浜松町と
私にとってお馴染みの地名が続きます。
増上寺へと続く大門交差点で東京タワーが見えました。

東京タワー
大門交差点から見た東京タワー。

この東京タワーも不思議な建物です。
高さは332.6m。
日本一高いビルである横浜ランドマークタワーの高さが295.8mですから、
東京タワーは周辺のどのビルよりも高いはずです。
ところが、先日皇居前から東京タワー目指して歩いてみたら、
この東京で一番高いはずの建物を、あろう事か途中で見失ってしまいました。
こんなに大きな物が近くにあるのに見えないなんて、
何だかおもしろいですね。

金杉橋
金杉橋

大門から少し歩くと金杉橋があります。
ここは永代橋と共に島送りの舟が出る場所でした。
一応、永代橋から舟に乗るのは二度と戻って来られない者で、
この金杉橋から乗る者は戻れるあてがあるという事になっていますが、
実際はそのような決まりがあったわけではないそうです。
かつてはここまでが江戸市中とされていました。
というわけで、私もいよいよ江戸を離れます。
(舟には乗りません)

高輪大木戸跡
高輪大木戸跡

さらに30分程歩くと、高輪大木戸跡があります。
江戸府内の入り口に治安維持と交通規制を目的として設けられた木戸も、
江戸時代後期には廃止されていたそうです。
今は片側の石垣が残るのみです。
時間はちょうど正午。これでいよいよ江戸ともお別れ‥‥って、
日本橋から一体何回の「いよいよ」があったんでしょうね。

さて、今日はどこまで行けるでしょうか。

06:54 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年4月18日

凝り過ぎ

2月21日の「思いは遙か東海道」で発表したとおり
東海道を旅して風景印を集めることにしました。

私は東京在住なので日本橋から歩き始めます。
出発点の近くには日本橋郵便局があります。
最初の宿場町品川は、かつての宿場の周辺に風景印のある郵便局がないので、
少し街道から外れますが大井町の品川郵便局まで行くことにしました。
次の川崎は、街道沿いの川崎市役所通郵便局に風景印があります。
その次の神奈川は、横浜西神奈川郵便局です。
以上、日本橋以外は事前に宿場周辺の郵便局を回って確認しました。

風景印は、切手さえ貼ってあれば大抵どんな紙にでも押してくれます。
しかし、ここはひとつ東海道の旅にふさわしい物をと思い、
歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の絵はがきを用意しました。
東京国立博物館のミュージアムショップで売っている55枚セットは
そのままプレゼントにも使えるような立派な化粧箱入りです。
完成したらいい記念になるでしょう。

そこまでするなら切手にも凝りたいところです。
東海道五十三次の切手と言えば、国際文通週間。
毎年秋に発行されるこの記念切手には、
よく歌川広重の東海道五十三次が使われます。

しかし、なぜかこの切手の額面は高額です。
まあ、高いと言っても近年の物で110円から130円ですが、
全部で55枚必要ですから、全て50円切手にした場合との差額は
最終的には3000円以上になります。

また、一度に全ての宿場の絵柄が発行されるわけでもありませんから、
揃えるなら古い切手を探して買い集めることになります。
今までに全ての宿場が発行されたかどうか知りませんが、
あまり古い時代の切手は高価な上に探すのも大変です。
例えば、ウェブで通販をやっているあるお店で調べたところ、
1962年発行の日本橋が580円、1961年の箱根が790円、
1959年の桑名が980円、
1960年発行の蒲原に至っては1600円でした。

それなら、五十三次でなくてもいいから、
その土地と関連の深い絵柄の物を探してみましょう。
手っ取り早いのは「ふるさと切手」です。
地域限定の切手ですが、東京中央郵便局などでも手に入ります。
記念切手や特殊切手の多くは額面が80円ですが、
ふるさと切手は額面50円のものも少なくありません。
風景印は最低50円の切手が貼ってあれば押してもらえるので好都合です。

ところが、東海道の宿場の4割を抱える静岡県の切手が、
調べてみると意外に少ないのです。
そこで、宿場町の自治体が市町村の花や木に指定している植物を調べ、
他の地域のふるさと切手に該当する物があれば使うことにしました。
例えば、原宿がある沼津市の花はハマユウですが、
「東京の四季の花・木VI」という4枚組のふるさと切手にハマユウがあるので
これが使えます。
(ちなみに沼津宿は別の切手を用意しました)
東京のふるさと切手は種類が多く、神奈川県の宿場でも、
川崎(市の木・ツバキ)と戸塚(横浜市戸塚区の花・サクラ)で使います。

ところで、宿場にちなんだ50円切手を55種類も集められるのでしょうか。

50円切手は2007年度に23種類、2006年度には32種類も発行されています。
もちろん、2008年度も記念切手やふるさと切手の発行が予定されています。
その中に50円切手がどのくらいあるのかわかりませんが、
私が東海道を歩いている間にも発行されるでしょう。

東京中央郵便局では在庫がある限り過去の切手も販売されています。
人気の高いふるさと切手は再発行されることもあります。
郵便局で手に入らない過去の切手は、額面より若干高い程度なら
コレクター向けの専門店で買ってもいいでしょう。

どうしても宿場町にふさわしい切手が無かったら、
ちょうどその宿場に着いた頃に発行された切手でもいいでしょう。
それも無ければ、もう50円切手なら何でもいいです。
折しも昨年10月1日、郵政民営化と同時に新しい50円普通切手が発売されました。
今までの50円切手も在庫がある限り販売されますし、
慶事用50円切手も加えれば、これだけでもう3種類です。
(さすがに弔事用50円切手を使うのは気が引けますが)

絵はがきと切手
手前は品川宿の絵はがき。左上は五十三次の絵はがきが入っている箱。
中央のふるさと切手は小田原城、河津桜、東京の四季の花。

と、そんな事をやってもたもたしていたら、
「今年はいよいよ東海道を歩く」と宣言してから2箇月も経ってしまいました。
ようやく日本橋から箱根の先あたりまでの切手を集めて、
ついに今日出発‥‥のはずだったのですが、悪天候のため延期。
やれやれ、こんな調子で果たして京都まで行けるのでしょうか。

21:22 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年2月21日

思いは遙か東海道

昭和生まれには懐かしい永谷園の「東西名画選カード」
私はこれで東海道五十三次を知りました。

かつてお茶づけ海苔など永谷園の製品に入っていたこのカード、
もともとは品質保証の検印を押すためのものだったようですが、
ただの紙に押しても面白くないので東海道五十三次のカードにしたのだとか。
カードの絵柄は次第に増え、浮世絵以外にも洋画などが加わり、
最終的には10のシリーズが揃ったようです。

それでもやはり、私が好きだったのは東海道五十三次。
東海道という一本の道に沿って描かれた55枚の絵は一連の物語です。
そこを徒歩で行き来した江戸時代の旅人たちに思いを馳せつつ、
いつかは自分もこの道を歩く事を夢見ていました。
小学生の頃からそんな事を考えていたなんて、随分と渋好みで酔狂な子供です。
ただ、やはり要する日数や費用の面で子供には負担が大きく、
先送りにしているうちに、いつの間にか三十路を越えていました。

転機は2006年。NHKのテレビ番組「街道てくてく旅」で東海道の旅を見て、
そう言えば自分もやるつもりだったのだ‥‥と、ぼちぼち準備を始めました。

近年、東海道を歩く人は多いと聞きます。
旅の記録で個性を出すには何か変わった事をしようと思い、
思いついたのが風景印集めです。
風景印というのは郵便局で押す消印の一種なのですが、
観光などの記念になるよう局ごとに異なる図柄が入ったものです。
日付が入っているので、各宿場で風景印を押してもらえば、
その日にそこまで行った証拠になるというわけです。
(歩いて行った証拠にはなりませんが)
全ての郵便局に風景印があるわけではありませんが、
周辺に一つくらいはあるでしょう。
どうしても無ければ普通の消印でも構いません。
(全ての宿場に郵便局がある事は確認済みです)

実は「街道てくてく旅」の東海道編が終わってから気づいたのですが、
番組でも風景印集めをやっていたようです。
まあいいです。あちらは品川や箱根など一部の宿場が抜けています。
私は完全制覇を目指します。(もう準備始めちゃったし)

そして今年、ようやく出発する決心をしたのですが、
本気で準備を始めてから2年とは、時間かかりすぎですね。
京都に着くのは一体いつの事やら。

21:35 | カテゴリー:東海道スタンプラリー