2010年4月 1日
中央線快速の女性専用車廃止
JR東日本が中央線快速電車の女性専用車を廃止するそうです。
関東地方では2005年5月から主要な通勤路線のほとんどで
女性専用車が導入されました。
痴漢行為の抑制を目的に導入されたこの車両、
関東で最悪との噂も聞く埼京線では導入後は痴漢の件数が減ったようですが、
中央線快速や京王線は逆に痴漢が増えたといいます。
埼京線では2009年暮れに防犯カメラの運用が始まっており、
中央線快速にもこれを設置し、
効果の薄い(むしろ逆効果の)女性専用車は廃止するのだそうです。
車両毎の混雑率が偏るとか、ホームの階段の位置との関係とか、
痴漢抑止の代償が何かと面倒だった女性専用車ですが、そんな問題も解消され、
カメラで痴漢以外の防犯効果も高まり一石二鳥というわけです。
ところでこの女性専用車、あくまでネット上に流れる噂からの判断ですが、
随分と強引に導入されたようです。
また鉄道会社に説明を求めても歯切れの悪い回答しか得られないか、
あるいは回答自体が無いかといった感じです。
導入当時、静岡県某所を歩いていたら、
女性専用車の導入を高らかに謳った某政党のポスターをたくさん見ました。
その政党が昨年の政権交代で野党になり、
今年に入って女性専用車の一部廃止と来れば、
導入に当たって何か政治的圧力があったのではないかと勘ぐりたくもなります。
フェミニズムの専門家である上野千鶴子さんは女性専用車について
「後ろ向きの解決策」と指摘したそうです。
私は女性専用車の存在意義を全否定まではしませんが、
女性のために導入したのに女性にそこまで言われるこの車両、
そろそろ再検討の時期に入ったようです。
中央線快速の女性専用車廃止
出典はこちら。
2008年4月 3日
寝台特急さくら
私が住む東京の外れでも桜が咲いたのを見て、
かつてJRに「さくら」という名前の列車があったのを思い出しました。
1991年の夏、私は友達と高知県へ遊びに行ったのですが、
仕事の都合で先に1人で帰ることになりました。
仲間と別れて高知県の中村駅から特急に乗ると、
瀬戸大橋の手前、香川県の坂出駅で、
東京行きの寝台特急「瀬戸」に乗り継ぐ事ができます。
ところが、この旅行の話が出たのが1週間前。
夏休み真っ最中のこの時期、既に瀬戸は満席でした。
仲間たちは往復とも青春18きっぷなので、
指定席の予約は気にしていなかったのです。
そこで、坂出駅で岡山行きのマリンライナーに乗り換えて、
九州方面から来る東京行きの寝台特急に乗る事にしました。
しかし、あさかぜ2号(下関発)、あさかぜ4号(博多発)、富士(南宮崎発)、
はやぶさ(西鹿児島発)、みずほ(熊本・長崎発)いずれも満席。
最後に東京に着くさくら(長崎・佐世保発)だけ空席がありました。
とにかくこれに乗らないと帰れないので切符は買ったものの、
この列車は岡山に止まらないので、広島から乗ることになりました。
中村駅まで仲間が見送りに来てくれました。
ここから1人で高松行きの特急「しまんと」に乗ります。
前方が見渡せる一番前の席が空いていたのでそこに陣取りました。
中村を出る時はがらがらだった車内も次第に混んできました。
中村発高松行き特急「しまんと」
坂出駅で下車。
マリンライナーを待っていたら、高松発東京行きの瀬戸が来ました。
満席で乗れなかった列車です。
岡山から乗った夜の新幹線もがらがらでした。
退屈なので、車内の公衆電話から電話をかけました。
(まだ携帯電話が普及していなかった時代です)
相手は体調不良のため今回の旅行に参加できなかった友人です。
岡山から乗った新幹線は、確か広島まで行ける最終列車でした。
それでも、広島駅で東京行きの「みずほ」を見ることができました。
「さくら」の1本前を走ります。これも満席で乗れなかった列車です。
しかも、「さくら」は14両編成なのに「みずほ」は10両編成。
どうしてこっちを14両にしてくれないんでしょう。
広島駅に停車中の寝台特急「みずほ」
「さくら」が広島を出るのは午前0時10分。
乗り込んだら、案の定周りの人々はみんな寝ていました。
私も買っておいた夜食を食べてとっとと寝ます。
1979年夏、母が豊橋から東京までブルートレインに乗せてくれると言いました。
豊橋に止まる列車は「さくら」と「銀河」だけでした。
できれば特急の「さくら」に乗りたかったのですが、豊橋を通るのは朝7時台。
夜が明けてからの乗車ではつまらないので、
夜中の3時過ぎに豊橋を通る急行「銀河」に乗ることにしました。
そんな時間に乗り降りできる寝台列車があったとは今考えるとすごいのですが、
昔はそんな需要もあったのかもしれません。
さて、12年前に乗れなかった「さくら」のベッドの中で豊橋を通り過ぎ、
次の浜松を過ぎた辺りで食堂車へ行きました。
和洋2種類の定食があるので洋食を注文したら、
フライドエッグとスクランブルエッグどちらがいいかと聞かれました。
私はフライドエッグが何だか知らなかったのでスクランブルにしました。
ぼーっと外を見ながら食べて、静岡を過ぎる辺りまでいたでしょうか。
食後は退屈なので、また車内の公衆電話から友人に電話。
今度は、丁度今列車が走っている静岡県に住んでいたことがある友人です。
その後は、通路の折りたたみ椅子に座って外を眺め、
横浜駅で列車を降りました。
横浜駅を発車する寝台特急「さくら」
横浜駅での寝台特急の乗り降りはその時だけです。
その「さくら」から降りた横浜駅7番乗り場で、
16年半後、今度は「銀河」の最終列車を撮影しました。
どうも私の趣味活動では「さくら」と「銀河」が微妙につながっています。
2005年に「さくら」が廃止される時は見に行けなかったんですけどね。
あの時寝台券が取れなかった列車の多くは後に廃止されました。
今は「瀬戸」が「サンライズ瀬戸」になり、
「富士」と「はやぶさ」が1本にまとめられて残っているだけです。
飛行機のディスカウントチケットが無かった時代、
人々は、設備が古くても相対的に料金が安い寝台特急に喜んで乗っていました。
やっぱり、今の寝台特急は料金が高すぎるんですよ。
2008年3月16日
誰も乗らないのは‥‥
3月15日に行われたJRのダイヤ改正で、
東京-大阪間の寝台急行「銀河」が廃止されました。
この列車の廃止が発表されると、沿線や停車駅には、
最後の姿を記録しようと連日多くの鉄道ファンが繰り出しました。
私も大阪からの帰りに久々に乗車し、
改正前の2週間程の間に東京近辺で何度か撮影しました。
さよならフィーバーが盛り上がり始めた頃、
ウェブ上のニュース配信サイト「イザ!」に
産経新聞提供の「銀河」の記事があるのを見つけたのですが、
読んでいてちょっと気になる所がありました。
その部分を引用します。
JR西日本によると、14日午前10時に始まったラストランの予約受け付けは
わずか30秒で完売。
残り1カ月を切り週末はすでにほぼ満席の状態という。
最後の盛況ぶりに
「『葬式走』ってやつは好きじゃない。
なくなることが決まる前に乗ってくれなきゃ...」
と本音を漏らす鉄道マンも。
遅くて早い魅力...「銀河」廃止間近、"鉄"の列
2008年2月17日21時48分 イザ!
この鉄道マンがどの部署でどういう仕事をしている人なのかは
残念ながら記事中で明らかにされていませんが、
こんな事を言う前に、なぜこうなってしまうのか、
もう少し考えて欲しいと思います。
確かに、「銀河」が廃止されるのは利用者が少ないからです。
では、なぜ利用者が少ないかと言えば、
他の列車やバス、飛行機に比べ、料金が高過ぎて利用しにくいからです。
「のぞみ」の普通車指定席が13,850~14,250円、
「こだま」にツアー扱いで乗車する「ぷらっとこだま」なら
普通車指定席で10,000~11,500円です。
飛行機の正規運賃は2万円を超えますが、
実際は前日までに予約すれば普通席で11,100~14,100円です。
夜行バスの「ドリーム大阪」に至っては、3列シートでも8,610円。
問題の「銀河」はB寝台で何と16,070円です。
一応銀河は新幹線の最終列車より遅く出て一番列車より早く着けますが、
それならホテルで1泊した方がいいと考える人も多いでしょう。
走っている場所は違いますが、「北斗星」や「トワイライトエクスプレス」など
JRには「銀河」より高い料金を取る寝台列車もあります。
しかしそれらは豪華な設備や食事が受けて連日盛況。
一方「銀河」の設備は30年前のまま。
寝台列車が新車も投入せず料金も下げずに30年過ごしてしまった間に、
夜行バスが普及し、飛行機が安くなり、身内の新幹線もスピードアップして、
とうとう寝台列車は鉄道ファンでさえも敬遠してしまうような
「高くて遅くてボロい」最悪の乗り物になってしまいました。
数が減ってきた夜行列車用の設備を整理して再開発したいJR東日本や、
夜中に名古屋を通り抜ける列車より新幹線に乗って欲しいJR東海の意向など、
色々噂は聞かれ、廃止には複雑な事情があるようです。
しかし、自分たちの手抜きで伝統の夜行急行を潰してしまった失態は棚に上げ、
名残を惜しみ無理して乗っている鉄道ファンに対して「葬式走」とは失敬な!
でも、マナー違反や危険行為、果ては部品泥棒など、
相変わらず馬鹿どもへの対応で余計な仕事が増えているJRの気持ちも
わからないではありません。
私だって、ああいう連中と一緒にされるのが嫌で
3年程鉄道ファンをやめていたんですから。
2008年3月15日
怒鳴っちゃいかん
3月15日はJRのダイヤ改正です。
この改正で私の好きな列車の一つである寝台急行「銀河」が廃止されるので、
最後の姿を記録することにしました。
「銀河」の始発駅は東京駅です。
かつて多くのブルートレインの始発駅だった東京駅は、
昔からホームの先端が立ち入り禁止で、列車の先頭部が撮影できません。
東京を出て最初に停車する品川駅は、向かいのホームから撮影できます。
しかも、そのホームは臨時ホームで、普段は列車の出入りがありません。
しかし、そこから「銀河」が来るホームまでが遠いため、
こちらのホームの照明が「銀河」の車体に十分当たりません。
夜の撮影はちょっと難しいです。
次の停車駅は横浜です。
横浜駅は向かいのホームが近いため、そのホームの明かりで撮影できます。
ホームの先端にも入れる上に、「銀河」の停車位置もホーム中程なので、
無理なく撮影する事ができます。
その次の停車駅は大船ですが、そこまで行くとちょっと遠いので、
私は横浜駅で撮影することにしました。
(もう東京駅では撮ったしね)
「銀河」が横浜駅6番線に到着するのは午後11時25分です。
1時間前に横浜駅に着いたら、もう向かいの7番ホームは
鉄道ファンで埋め尽くされていました。
しかし、うまいことちょうどいい場所に入り込むことができたので、
そこで時間まで待機です。
ホームでは「黄色い線から出ないように」との放送が再三流れています。
ふざけ合う若い子たちを警備員が呼び止めて注意しています。
神奈川県警の警察官まで出てきました。
「銀河」が到着する6番線では、
列車の先頭付近とホーム先端にロープが張られました。
6番線の放送で「銀河」は今日が最終日という説明が流されました。
さあ、いよいよ列車が来ます。
そして飛び交ういつもの怒号。
「おい、そこ下がれよ!」
横浜駅に停車中の「銀河」大阪行き最終列車
どんなに駅員が注意しても、黄色い線より前に出てしまう人がいます。
早くから来て線の内側で待っている人たちから見れば、
そういう人たちが自分の写真に入り込んでしまうのは
非常に腹立たしいことでしょう。
怒鳴りたくなる気持ちもわかります。
しかしその光景は、たまたま居合わせた人々から見ると異様であり、
世間で鉄道ファンの印象が悪い原因の一つになっています。
ルールもマナーも無視の傍若無人な輩を放っておけとまでは言いませんが、
ここは駅です。公共の場所です。イベント会場ではありません。
電車を利用しようとしている人々に不快感を与えてはいけません。
だいたい、そうやって罵声を浴びせるエネルギーがあるなら、
電車の床に座ったり座席に寝そべったりしている連中に
罵声を浴びせる鉄道ファンがいても良さそうなものです。
たまりかねて、結局私も怒鳴ってしまいました。
「気持ちはわかるけど怒鳴るな!」
ええ、もちろん列車とは反対の方を向いて。
2008年2月 2日
絵を描いてみる
古今東西の船の話題をすてきなイラストとともに紹介するPUNIPさんのブログ
「PUNIP CRUISES」で、船の描き方についての記事が連載されています。
最初のお題は、日本チャータークルーズの「ふじ丸」でした。
次のお題は、郵船クルーズの「飛鳥II」でした。
飛鳥IIは私も好きなのでちょっと興味を持ちました。
しかし、私は絵を描くのが苦手です。と言うより、描けません。
3番目のお題は、太平洋フェリーの「きそ」でした。
太平洋フェリーは名古屋-仙台-苫小牧間にフェリーを運航する会社です。
2005年の5月頃だったでしょうか。
暇だったので名古屋駅からあおなみ線に乗ったら電車からフェリーが見えました。
終点の金城ふ頭駅から歩いてフェリーターミナルまで見に行ったら、
当時まだ就航間もなかったきそでした。
ちょうど出港するところで、ブリッジからの指示が拡声器で流れていました。
きそは太平洋フェリーが運航する3隻の中で最大、最新、
そして噂ではもっとも豪華な船です。
木曽川にちなんで命名され、船籍港も名古屋ですが、
残念ながら今年の2月から仙台-苫小牧間の運航になり、
名古屋港では見られなくなってしまいます。
そんな事を思い出していたら、急にこの船を描いてみたくなりました。
PUNIPさんのお手本は水彩で着色されていますが、
私は面倒なので鉛筆だけで済ませました。
背景に名古屋港ポートビルを描いて、
ガーデンふ頭を離岸したところということにしました。
本当はフェリーはここに来ないんですが、まあいいじゃないですか。
名古屋のフェリーターミナルって、辺鄙な所にあって殺風景なんですよ。
まあ、名港トリトンとかセントレアとか、
実際に通る場所にも色々いい背景はあるんですが、
私の画力ではこの辺が限界です。
それから、なんだか水面の位置も変ですが、まあいいじゃないですか。
(それはよくない)
他にも突っ込み所は満載ですが、それは今後の課題ということで。
この絵は千里の道の第一歩ですから。
(行き倒れになるかもしれないけど)
2007年3月31日
夜行バス
久し振りに夜行バスに乗りました。
新宿発23時30分。翌朝6時30分に名古屋に着きます。
座席は通路を挟んで両側に2人掛けが並んでいるので、少々狭いのですが、
空いていたので2人分の席を1人で使うことができました。
横の窓のカーテンは、予めぴったり閉じられています。
やがて消灯。運転席と客席の間のカーテンも閉じられ、
車内は真っ暗になりました。
一応読書灯は付いていますが、読書などせずに寝た方が良さそうです。
最初はまっすぐ座り、背もたれを倒して寝ようとしていました。
しかし、これでは頭がふらふらします。
途中休憩で一旦車外に出て戻ってみると、
私の後ろ、最後列の席の人の足先だけが通路に飛び出しています。
2人掛けの席に横向きに寝ているようです。私も真似してみることにしました。
まずは、窓側の壁にもたれて、通路側の席へ足を伸ばしてみます。
これだとちょっと背中が痛いようです。
次に、体の向きはそのままで、上半身を壁ではなく背もたれの方にあずけてみます。
体は痛くありませんが、小さく縮こまるようにして席に収まるので、
窮屈な感じがします。
次は、窓側の席に座った状態から、
そのまま頭が通路側になるように横になってみました。
これは車体の揺れが気になります。
こうして夜通し試行錯誤が続きました。
朝5時。運転席と客席の間のカーテンが開けられました。
愛知県の天気予報は、午前中は雨。
体を起こして座り直し、遙か前方のフロントガラスを通して外を見ると、
かなり激しく降っているようです。
前方の景色はよく見えませんが、楽な姿勢が見つかりました。
2006年12月26日
長音三声
船の汽笛に、「長音三声」という鳴らし方があります。
文字通り、長い音を3回鳴らすやり方で、
感謝、お別れといった意味があるそうです。
横浜港の大さん橋に来る船は氷川丸の前を横切ります。
横浜に来た外国の客船は、大さん橋を離れると、
氷川丸の長音三声に送られてベイブリッジをくぐりました。
12月25日は氷川丸の営業最終日。
同じ会社が運営するマリンタワーも同時に営業終了です。
私も午後から氷川丸に乗船し、船上で別れを惜しむことにしました。
乗船口に続く通路には行列が出来ていましたが、10分程で乗り込めました。
前にも見たことがある船内を、もう一度時間を掛けてゆっくり見学。
写真も撮りながら、営業終了となる午後6時半になるのを待ちました。
氷川丸Aデッキのプロムナードから見えるマリンタワー
色々迷った末、私はブリッジの下のデッキに上がり、
後方にある煙突の横からマリンタワーを見通す位置にカメラを構えました。
お別れの汽笛が鳴らされる時をしっかり記録します。
汽笛は煙突の正面側に付いていますから、ここは最も大きな音が聞こえる場所です。
ビデオですから、びっくりしてカメラが動かないように、
手すりに肘をついてしっかりと構えます。
長音三声。
マリンタワーの照明が消えると、船上の人々から拍手が沸き起こりました。
どこで鳴らしているのでしょうか。他の船からの長音三声も聞こえます。
営業終了に先立つ12月21日、日本郵船が氷川丸の処遇について
同社のウェブサイトで発表しました。
それによると、氷川丸は今まで通り山下公園で保存されるそうで、
来年春から1年掛かりで保存のための整備を行うとのことです。
開港150周年を迎える2009年に展望台の営業を再開するマリンタワーとともに
将来に向けて残されることになり、ほっとしました。
ところで、予めわかっているのに
大きな音がするとびっくりして飛び上がってしまうのは何故なのでしょう。
2006年10月29日
氷川丸をちょっと拝借
横浜の氷川丸とマリンタワーが財政難のため営業を終了することになりました。
氷川丸は日本郵船、マリンタワーは横浜市の所有になるそうです。
現在の運営会社は日本郵船と横浜市が主に出資しているそうですから、
それで問題の解決になるのか少々疑問ではあります。
ただ、船という物は、鉄の箱を海水に浸して潮風に晒しているのですから、
現状を維持するだけでも相当な苦労があるでしょう。
お金があってもそうおいそれとは引き取れません。
しかも文化財に指定されているとあっては尚更です。
2004年夏、両施設の売却話が浮上した際、日本郵船から、
氷川丸の引き受け手がない場合は同社が引き取るような発言がありました。
あまり積極的な言い方ではなかったところを見ると、
同社としては、大切な文化遺産であると同時に、
きっとお荷物でもあるのでしょう。
こういった物が無くなってしまう事を誰もが惜しむものの、
それを保存する際の苦労など、
やはり専門家でなければ想像する事もできないものと思われます。
氷川丸のファンネル(煙突)とマリンタワー
氷川丸の船内には一等の乗客のための豪華な設備がいくつかあります。
客室をはじめ、専用のラウンジや食堂が見学できるのですが、
どの部屋も通路から中を覗き込むだけです。
しかし、一等スモーキングルームだけは誰でも自由に入ることができます。
私は以前、その一等スモーキングルームを貸し切りで使ったことがあります。
船内にはいくつかレンタルホールとして使える部屋があるのですが、
この一等スモーキングルームもその一つでした。
(貸し切りでの使用は2006年10月一杯で終了)
横浜市指定有形文化財でもある氷川丸の一室を独占して一体何をしたかと言うと、
当時入っていたメーリングリストのオフ会でした。
幹事の私は何回か氷川丸に電話で問い合わせをして、現場の下見もして、
結構張り切って準備を進めていました。
ところが、参加予定の人が1人減り、2人減り‥‥
当日集まったのはたったの4人。
半分自棄で、割としょーもない写真を撮ったりして楽しみました。
氷川丸は今後ももちろん保存されますが、
一般公開等、どのような形で運営されるのかはまだ発表がありません。
恐らく博物館としての展示は引き継がれるでしょうが、
ビアガーデンや、コンサート等のイベントはどうでしょうか。
もうあんな目的で船内の一室を借りるなんて不可能になるかもしれません。
当日は集まりが悪くて少々がっかりでしたが、貴重な体験でした。
2006年9月 5日
気をつけろと言われても
8月下旬のある日、たぶん29日の夜だったと思うのですが、
建物に飛行機が突っ込んで炎上する夢を見ました。
2001年にアメリカで起こったテロににていますが、
建物は6階建てぐらいで、飛行機もセスナのような小さなものでした。
「眠り男の夢占い」というサイトによると、
「社会的に影響の強い大事故が起こる可能性があるので要注意」だそうです。
まさか、いくら何でもそんな予知能力が私にあるわけないと思っていたのですが、
9月2日の毎日新聞夕刊を見て仰天しました。
曳航中の元客船沈没
どうやらこれだったようです。
そう言えば、夢の中で飛行機が落ちた時は池の上から眺めていて、
ボートがひっくり返って慌てていました。
それがヒントだったのですね。
もっとも、仰天したのはこんな貴重な船を沈めてしまった事に対してであって、
予知能力にびっくりしたわけではないのですが。
沈んだのは1927年に就航した「ステラポラリス」という船です。
もともとスウェーデンの船だったのですが、引退後に日本の企業に買い取られ、
静岡県沼津市に係留されて、
海上レストラン「スカンジナビア」として使われていました。
昨年営業をやめた後の動向がずっと気になっていたのですが、
故国スウェーデンの企業に売却され、改装のため曳航する途中で沈没したようです。
残念です。要注意と言われても、これでは注意のしようがありません。
沈没船が海底から浮いて来る夢など無いものですかね。
Stella Polaris 就航から引退、日本でのレストラン営業までの解説(英語)
The Great Ocean Liners内のページ
2006年4月29日
くれない丸の強運
今日は東京・神田の交通博物館に行きました。
5月14日を最後に閉館するので、さよならフィーバーで賑わっています。
私も勿論、長いこと訪れなかった交通博物館を、
最後にもう一度くらい見学しておこうと思って出掛けたのですが、
目的はもう一つありました。
3月4日の記事で話した通り、横浜のレストラン船「ロイヤルウイング」は、
元は関西汽船の「くれない丸」という船でした。
その船の模型が交通博物館にあるというのです。
もともと国鉄の博物館だった交通博物館の展示は、やはり鉄道が中心。
ただでさえ小さな展示スペースで、しかも鉄道連絡船の模型が幅をきかせる中、
数ある内航客船の中から選ばれた「くれない丸」。
苦しい経営が多いレストラン船の中で、
「ロイヤルウイング」は希有な成功例であるとも聞きます。
きっとこの船は強運の持ち主なのでしょう。
交通博物館の展示品を引き継ぎ来年さいたま市に開館するのは、
その名も「鉄道博物館」。
もちろん、鉄道専門の博物館です。
「くれない丸」の模型は、どうなるのでしょう。
持ち前の強運で新たな居場所を確保して欲しいものです。
2006年3月 4日
横浜の気高き翼
夕刻、赤レンガ倉庫前から横浜駅東口行きのシーバスに乗ると、
煌々と明かりを灯した美しい船に出会います。
レストラン船「ロイヤルウイング」です。
その素敵な外観は美しいばかりでなく、少々謎めいています。
船体は細長く、船尾が尖っています。
船体に引かれた青い線は、端の部分が矢尻のような形になっています。
遊覧船というより、長距離航路の客船のような姿です。
近くで見ると船体の鉄板がごつごつと波打っている部分があり、
何だか古そうな感じでした。
どうも、ただの遊覧船ではないようです。
何か別の用途に使われていた船を改造したのでしょうか。
謎のレストラン船の正体はネット上でわかりました。
この船は関西汽船が大阪・神戸と別府を結ぶ航路に使っていた船でした。
今は、さんふらわあシリーズ4隻で運航されている航路です。
就航した時は「くれない丸」という名前で、1960年から運航開始。
なるほど、私の思った通りです。
1960年代といえば、新婚旅行で九州へ行くのが流行だったそうです。
私の両親も1968年に結婚し、新婚旅行の行き先は九州・沖縄でした。
かつて多くのカップルを乗せて瀬戸内海を行き来したくれない丸、
ロイヤルウイングとなった今は船上で結婚披露宴もできるそうです。
船の一生は人の一生に似ていると言います。
長距離航路の廃止や運航を休止するクルーズ船も珍しくない中、
建造から40年を経た古い船が新天地でひときわ輝いている姿は、
年齢を重ねてもなお魅力を深め続ける大女優と言ったところでしょうか。
アンティークと呼べる程になっても活躍を続けて欲しいものです。
2006年2月25日
軍艦とポマード
急に昔の軍艦プラモの事を思い出しました。
最近はどうなのかわかりませんが、昔の艦船プラモには、
モーターを取り付けて実際に走らせる事ができる物も多かったようです。
(こうする事をモーターライズと言います)
私が小学生の頃だったと思うので、1980年前後でしょうか。
自分で買ったか、友達が持っていたのか、
どこのメーカーのどの船のキットかも忘れてしまいましたが、
プロペラ軸の部分からの浸水を防ぐためにポマードを詰めるよう
説明書に指示があったのを覚えています。
ポマードのようなドロドロした物でそれができるというのが
実に不思議に思えましたが、私は実際に試せませんでした。
我が家にはポマードが無かったのです。
最近船に興味を持つようになり、港に船を見に行ったりすると、
船についていろいろな事が知りたくなります。
全長241m、総トン数50142tの飛鳥IIには一体どれだけのポマードが‥‥
いやいや、いくら何でもそれはないでしょう。
では、どうやって浸水を防いでいるのでしょう?
自動車や鉄道の場合、こういう事を解説している本がたくさんあるのですが、
船は少ないです。と言うか、書店に並ぶ船の本は、
ボート免許と軍艦の本ばかりです。
どうも商船は、まだ趣味の一分野としては未熟のようですね。
そう言えば、軍艦のプラモはたくさんありますが、
商船はタイタニックなどの超有名船以外ほとんどありません。
(氷川丸など軍に徴用された船の平時仕様が若干ありますが)
ここで皆さんに質問です。
船は右側通行、左側通行のどちらか知っていますか?
赤いランプは船体のどちら側を示すか知っていますか?
大型船の燃料は主に何を使っているか知っていますか?
自動車なら免許を持っていない人でも知っているでしょう。
「道路は誰でも歩くが海上を歩く人はいない」
なんて言われてしまえばそれまでですけど、
日本は周りを海に囲まれ、造船技術も高いのですから、
何だか淋しい気がします。
(ちなみに正解は右側通行、左側を示す、重油です)
豪華客船と言われる飛鳥にも手頃な値段の国内クルーズがあり、
水上バスやレストラン船など、気軽に楽しめる船は結構あるものです。
近年、バスや旅客機の趣味雑誌も発行されていますから、
もう少し時間がたてば、船も趣味の一分野として認識されるでしょうか。
その時私は「船オタク」の先駆者に‥‥ならなくてもいいか。
と、プラモの説明書のポマードからそんな事を考えつつ、
明日横浜で行われる飛鳥IIの命名式を楽しみに待っています。
ところで、船底のプロペラ軸からの浸水を防ぐ方法ですが、
銀河IIに乗っていた学生さんが教えてくれました。
(この人については銀河IIの邂逅を参照してください)
やはり、パッキンやオイルシールで浸水を防ぐのだそうです。
リグナムバイタというおもしろい木の事も聞きましたが、
それについてはまたの機会に。
2006年2月18日
銀河IIの邂逅
見慣れないアドレスから電子メールが届きました。
私のサイトの記事「練習船銀河II一般公開」を見てくださったそうです。
しかもその方は、私が名古屋で銀河IIを見学した時に
実習生として乗っていたのだそうです。
航海中に撮った写真を送っていただいたので、
私の銀河IIのページに掲載させていただきました。
初めは、もともとあった銀河IIのページの最後にその写真を載せて、
簡単な説明文を書くつもりでした。
ところが、その学生さんから頂いたメールの内容を思い出すと、
もっと色々書きたくなり、結局新たに1ページ作ってしまいました。
私信ですから内容の紹介は差し控えますが、
船員の仕事があまり理解されていないという言葉には大きく頷きました。
私自身が理解していませんからね。
我々は普段、石油がどうやって運ばれてくるかなどに
思いを巡らせることはほとんどありません。
NHKのプロジェクトXで、巨大タンカー「出光丸」の事を知っても、
数日後には忘れてしまいます。
海賊なんてフック船長ぐらいしか知りません。
一通りの「知識」はあっても、「理解」はしていないと言えそうです。
戦時中、「ガソリンの1滴は血の1滴」などと言われたそうですが、
実は今だってそうなのです。
まあ、海運関係者でもない上に道楽でバイクに乗っている私ですから、
今更そんなことを言っても説得力は無いのですが、
学生さんの熱意に動かされたとでも言いましょうか。
私のサイトの記事は、全て私が実際に見聞きした事です。
こうして改めて船について考える機会を得られたのも、
実際に練習船を見に行ったからでしょう。
そうして書いた記事を発表し、
その記事を読んでくれた訪問者から良い影響を受ければ、
個人サイトを公開する甲斐もあるということです。
コンピューターネットワークは、通信手段に過ぎません。
大事なものはネット上にはありません。
通信回線の向こうにいる誰かが持っています。
2006年2月11日
箱庭の飛鳥
豪華客船「飛鳥」を運航する郵船クルーズのサイトから
飛鳥のスクリーンセーバーをダウンロードできます。
世界地図の昼の部分は明るく、夜の部分は暗く表示され、
航海中の飛鳥の位置までわかってしまう
ユニークな世界時計のスクリーンセーバーです。
私が使っているのは液晶モニターなので、
本来スクリーンセーバーは要らないそうですが、
おもしろいのでインストールして時々ながめています。
今年のお正月、出航を目前に控えた飛鳥を横浜港で眺める機会がありました。
出航後、スクリーンセーバーを見て、
今日はシンガポールだ、インドネシアだと居場所を知るのが
なぜか日々の楽しみでした。
この感覚は何でしょう。
列車の模型は、ただ置いてあっても鉄道好きの人が注目するだけですが、
ひとたび線路の上を走ると、子供も大人も、鉄道ファンでない人も、
その走りについ見入ってしまいます。
飛鳥のスクリーンセーバーは、交通博物館の鉄道模型さながらに、
世界地図の中を飛鳥が移動します。
飛鳥そのものが見えるわけでもないのに、毎日見てしまいます。
飛鳥は南方の海を北へ向けて進み、日本に近付きます。
そして今朝、遅めに起きてスクリーンセーバーを見たら、
画面の真ん中にこう書いてありました。
2006年2月11日、客船「飛鳥」は全てのクルーズ航程を終了いたしました。
長らくご愛顧いただき、まことにありがとうございました。
飛鳥の居場所を知らせる印は、世界時計の東京の所にあります。
帰って来ました。これで終わりです。
私にとってはこれといった縁もない船ですが、何だか感慨深いのが不思議です。
1ヶ月に渡るクルーズで、乗っていない私までも楽しませた飛鳥は
きっと素晴らしい船です。
乗らない船で1ヶ月楽しめた私は安上がりな船好きです。
2週間後には「飛鳥II」の命名式があります。
1ヶ月後には、飛鳥がドイツの客船「アマデア」に生まれ変わって横浜に来ます。
まだまだ楽しめる「飛鳥」です。
2006年1月14日
敬意の夜行列車
母がお年玉と称して本を買ってくれました。
なんでも、正月に古本屋に行ったら、
自分が欲しい本の隣にあったからついでに買ったんだとか。
(推定価格100円)
その本は宮脇俊三さんの「時刻表おくのほそ道」
地方私鉄を訪ねる紀行文で、雑誌の連載記事を後でまとめた本です。
最初に訪れるのは北海道の鉄道なのですが、
同行した編集者の提案で、飛行機ではなく列車で北海道へ向かいます。
まだ青函トンネルが無かった頃で青函連絡船に乗るのですが、
宮脇さんは乗船時にこんな事を言います。
「やっぱり北海道へ渡るには、これでなくちゃいけない。
あと3時間もすれば函館が見えてくる。
こういうふうに徐々に接近して行くのが北海道への礼儀です」
私も、函館へ行く時はいつも夜行列車でした。
単純に「列車が好きだから」というわけではないのですが、
どうしてもそうでなければならないと思いつつも、
なぜかと問われれば答えられませんでした。
なんだか宮脇さんが答を教えてくれたみたいでちょっと嬉しいです。
昨年は出張でよく飛行機に乗りましたが、
北海道へ行く機会が無くて良かったと思います。
どたばたと慌ただしく到着し、がたがたと気忙しく仕事をして、
用が済んだらとっとと帰る‥‥。
そんな事をしたら自分にとっての「聖地」が荒らされてしまう気がします。
でも、帰りぐらいは飛行機にしても罰は当たらないかも。
滞在時間も長くなるし‥‥と少々軟弱な考えも無くはありません。
2006年1月 1日
零戦人生
太平洋戦争については、自分なりの歴史観を元に総括したいと以前から思っています。
というのも、小・中学校時代に聞いた戦争の話が、
どれもこれも戦争に対する嫌悪感ばかりが強く、後味の悪いものだったからです。
今考えれば、反戦を強要するような教育は洗脳と同じで、
明らかに間違った反戦教育です。
戦争に対し否定的な意見を吐く者は「非国民」とする軍国主義時代の教育と、
本質的には何ら変わりません。
私のような戦争を知らない世代は、
過去の戦争について事実をできる限り詳細に知り、
そこから自分で結論を導き出さねばなりません。
(恐らく多くの人は戦争に否定的な意見を持つでしょう)
丁度大晦日にNHKで零戦の番組を放映していたので、
改めてそんな事を考えてみたのです。
零戦といえば、太平洋戦争の緒戦における高い戦果や、
「積乱雲と零戦は避けてよい」という米軍の命令などが有名です。
反面、運動性能を高めるための極端な軽量化のため機体の強度が低く、
防御力や急降下時の速度において米軍機に劣っていたことも、
零戦の弱点としてよく知られています。
さすがに設計陣は零戦の欠点をよく理解しており、
海軍に対し何度も改良の提案をしたそうです。
しかし、重量の増加や弾薬搭載量の減少を伴うため、
戦闘力の低下につながるとして受け入れられなかったそうです。
メーカーから欠点を指摘され、戦闘能力を落とす提案を受け入れるのは、
海軍のプライドを著しく傷つける事だったのかもしれません。
しかし、結局それが航空機部隊の壊滅を招き、
敗戦へと繋がっていったわけです。
小・中学校時代には成績優秀で難関高校に入学できたものの、
その後は意地を張ってばかりで、
卒業後は暫く今で言うところのニートになっていた自分と
何だか似ている所があるような気がします。
大上段に構えて偉そうな事を言ってみたところ、
棚に上げてあった自分の欠点が発覚。
歴史を学ぶことの大切さを知った年末でした。
前回、12月26日の記事で、自分の欠点と向き合えない話をしましたが、
新しい年を迎えるに当たって早速一歩前進。めでたしめでたし。
(こんな調子でいいのか?)
2005年11月13日
銀色のロンドンバス
9月に名古屋でロンドンバスに乗りました。
この時のビデオを「ロンドンバス 名古屋を走る」と題して公開していますが、
この時乗ったバスの事を調べていたら、
なんとロンドンバスを改装したカフェバーが浅草にある事が判明。
早速友人のBlueRibbon夫妻を誘って行きました。
銀色のロンドンバスの2階席へ上がると、まだ他のお客さんは来ていません。
すかさず、名古屋で座れなかった最前列の席に陣取ります。
このバーの素晴らしいところは、このまま夜の銀座へと走り出してしまう事です。
普通のバスの屋根ほどの高さにある客席で
銀ブラ中の人々の視線を浴びながら飲むデンキブランもなかなかいいものです。
人はなぜドライブが好きなのでしょう。
背の高いバスに乗って、お酒を飲みながら、繁華街を行ったり来たりする。
たったこれだけの事に「非日常」の楽しみがあるなんて、
我々の生きる「日常」の世界は想像以上に狭いのかも知れません。
だいたい、銀色の2階建てバスが現れただけで
まるで夢の世界からやって来た乗り物のように見えてしまうなんて、
窮屈な世の中に生きている証拠でしょう。
この日の客は我々3人のほか、もう1組の3人連れだけ。
こんな素敵なバーですが、まだまだ知られていないのでしょうか。
もったいないような、かといってあまり有名になり過ぎてほしくないような‥‥。