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2009年12月12日

【番外】富士川渡船への道 後編

上往還と中往還を歩いたので、次は下往還です。
下往還は既に吉原から岩淵へ向かう時に歩きましたが、
改めて渡船場へ続く部分を歩いてみます。

下往還即ち県道396号を富士川に向かって歩くと、
富士川橋の80m程手前に左へ入る細い道があります。

富士川橋手前の左へ入る道
富士川橋手前の左へ入る道

この道から河川敷へ下りて行くことができます。

富士川橋の下へ続く道
富士川橋の下へ続く道

道は富士川橋の下へ潜り込むように続いています。

下船居付近から対岸を望む
下船居付近から対岸を望む

富士川橋の下まで来ました。
下往還の渡船場である下船居はこの付近にありました。
県道396号の左側からここへ来ましたが、右側からも道が通じています。
そちらの道を上っていくと水神ノ森、水神社の脇に出ます。

水神社
水神社

渡し船はもう無いので富士川橋で対岸へ渡りましょう。
前にも言いましたが、富士川橋は6連のトラス橋です。
1924年(大正13年)に架けられ、
1988年(昭和63年)に右折レーンを設けるため西側2連が架け替えられました。
古い部分も新しい部分も遠目には同じに見えますが、
近くでよく見ると違いがわかります。

富士川橋の新旧トラス
富士川橋の新旧トラス。奥が大正、手前の太い部材が昭和のトラス。

大正時代のトラスは部材がリベットで組み立てられていますが、
昭和時代のトラスは溶接になっています。
また、トラスの外枠以外の部材を見ると、
大正の方は細い鋼材を組み合わせ、この部材自体もトラス構造になっていますが、
昭和の方は単純な1本の鋼材になっています。

富士川橋の新旧トラス
富士川橋の新旧トラス。左が大正、右が昭和のトラス。

接続部を見ると新しいトラスの方が幅が広くなっているのがわかります。

富士川橋の新旧トラス
新旧トラスの接続部。左が大正、右が昭和のトラス。

富士川橋西詰から上流へ300m、
西岸の渡船場跡から水神ノ森を見るとこんな感じです。
ここは下往還の他、中往還や富士川水運(鰍沢方面)の船着き場でもあります。
(中往還の方向は目印がないのでよくわかりません)

富士川西岸の渡船場跡から見た水神ノ森
富士川西岸の渡船場跡から見た水神ノ森

そこからさらに上流へ600m、東名高速をくぐった先に
道の駅富士川楽座の駐車場があります。
この駐車場から富士川の上流方向に見える川原の辺りに
上往還の渡船が来ていたようです。

富士川楽座駐車場から上流方向を見る
富士川楽座駐車場から上流方向を見る

富士川楽座の前に富士川渡船のレプリカがあります。
水神社の解説板によれば富士川渡船では
定渡船(じょうとせん)、高瀬船、助役船の3種類が使用されたそうです。
ここにあるのは定渡船だそうですが、船の造りから言えば高瀬舟であり、
富士川渡船の3種類の船の違いは不明です。
定渡船は一般の旅行者が乗る普通の船のようです。

富士川の定渡船
富士川の定渡船

この船は長さ5間4尺(10.3m)、幅5尺2寸(1.58m)、深さ2尺(60.6cm)、
乗客は30人程度、牛馬は4頭を運ぶことができます。
船頭は何と5人掛かりで、しかも片道で交代しました。
船頭多くして船山に上ると言いますが、急流の富士川渡船の船頭は
山に登る程の重労働だったことでしょう。
当番船3艘、附船3艘の6艘が用意され、平日は当番船のみを使い、
需要に合わせて附船も使われました。
急流の富士川では船の傷みも早く、毎年3艘が新造され当番船に使われました。
即ち定渡船の寿命は、フル稼働1年、予備1年の計2年ということになります。
建造費用は全て幕府が負担しました。

江戸時代初期には、渡船の業務は西岸の岩淵村が行っていましたが、
交通量の増加に伴い業務が拡大したため、
寛永10年(1633年)から業務の3分の1を東岸の岩本村が行うようになりました。
この体制での運営は明治4年(1871年)まで続き、
その後は自由営業の渡船が大正13年(1924年)の富士川橋竣工まで続きました。

以上、富士川渡船の名残を追ってみました。

2009年12月12日 07:02 | カテゴリー:東海道スタンプラリー