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2009年12月 3日

【番外】岩淵の新旧一里塚 前編

県道396号は富士川橋で富士川を渡り、旧富士川町の地域に入りました。
橋を渡ると突き当たりの橋西交差点です。
県道396号はここを左折して蒲原へ向かいます。
右折するとここから始まる県道10号です。
静岡県道・山梨県道10号富士川身延線はここが起点で、
富士川沿いに北上し、山梨県南巨摩郡身延町まで続いています。
その先は山梨県道9号、4号、3号につながり、最終的には甲府まで続く道です。

富士川橋西詰め
富士川橋西詰め。奥が県道396号蒲原方面。手前が県道10号身延方面。(後日撮影)

慶長6年(1601年)に始まった五街道整備の際には
ここに日本橋から37里(145.3km)の一里塚が設けられました。
富士川東岸の旧東海道が上・中・下の各往還に分かれており、
それぞれ異なる渡船場に通じていた事は富士川を渡る前に話しましたが、
慶長7年(1602年)に幕府の命により富士川の定渡船が始まった頃は
専ら上往還が使われていたといいます。
このルートはここより約1km上流、現在の東名高速道路付近で富士川を渡り、
富士川西岸を川沿いに通っていました。
37里の一里塚も上往還経由の距離を元に設置されていました。

天和2年(1682年)には下往還が開通し、
先に開通していた中往還と合わせて3つのルートが完成しました。
下往還は上往還に比べて距離が470間(約855m)短くなっており、
正徳元年(1711年)の朝鮮通信士来朝の際に
一里塚が下往還経由の距離を元にした位置にに移転されました。
なお、一里塚移転前の宝永5年(1708年)には
水害のため東海道が高台に付け替えられ、
富士川西岸部分もルートが変わっています。

かつて富士川橋の袂には
一里塚に植えられていたとされる大きなケヤキの木がありました。
2009年6月発行の富士市の広報によると数年前まで残っていたようです。

富士川の西岸からは富士山がよく見えます。

富士川西岸から見た富士山
富士川西岸から見た富士山

富士川橋から川沿いに上流方向へ300m程の所に渡船上り場常夜灯と
角倉了以(すみのくらりょうい)翁の紀功碑があります。
ここが中往還と下往還の、富士川西岸の渡船場跡です。

渡船上り場常夜灯と角倉了以翁の紀功碑
渡船上り場常夜灯と角倉了以翁の紀功碑。対岸は水神ノ森。

角倉了以は京都の豪商で、慶長12年(1607年)、19年(1614年)の二度、
幕府の命を受けて富士川の開削を行い、
ここ岩淵と甲州鰍沢を結ぶ水運経路を整備しました。
東海道と連携し甲州と江戸を結ぶ重要な交通として機能した富士川の水運は、
東京と山梨県が鉄道で結ばれた明治後期まで続きました。

さて、ここで県道10号を渡って高台へ続く坂道に入るのですが、
事前の調査では、資料によって
渡船上り場のほぼ向かいにある坂を上るルートと、
ここから150m下流寄りにある階段を上るルートの2種類がありました。
どちらが正しいのか決め手になる資料が見つからなかったので、
今回は秋葉山常夜灯がある図のようなルートを選びました。

渡船上り場からのルート
渡船上り場からのルート

なお、事前に参照した資料には
今回歩いたようなルートを東海道とするものはありません。
あくまで私が勝手に決めたルートです。

この辺りは狭い道を挟んで住宅が密集しています。

岩淵の集落
岩淵の集落

しばらく行くと一旦視界が開け、県道から上ってくる坂道と合流します。
この上ってくる道は静岡県道188号岩淵富士川停車場線です。
県道と合流した旧東海道はここを右へ曲がり、さらに坂を上ります。

岩淵の坂道
岩淵の坂道

結構急な坂です。旧東海道は上り切った突き当たりを左です。
そこから150m程行くと道がクランク状に曲がっています。
ここが間の宿岩淵の入り口です。
幕府が岩淵に宿駅と同様の街並みを整備するよう命じたのは
五街道の整備開始から5年後の慶長14年(1609年)でした。
富士川橋の袂にあった一里塚跡の所でも少し話しましたが、
岩淵は正保年間(1644年~1647年)からたびたび水害に見舞われており、
宝永4年(1707年)12月から翌年閏正月までの3箇月間で
東海道の付け替えと合わせて川縁からこの高台に移転しています。
実は移転直前には大地震や富士山の噴火による降灰もあり、
まさに踏んだり蹴ったりでした。

クランクから70m程進むと、右手に黒い板塀に囲まれた家があります。
ここが小休本陣常盤家です。

小休本陣常盤家の門
小休本陣常盤家の門

宿場(宿泊可能)にある大名などの宿泊施設である本陣に対し、
間の宿や立場(宿泊不可)にある同様の施設を小休本陣と呼ぶそうです。
常盤家は代々富士川の渡船名主を務めた家です。
いつ頃から小休本陣を始めたかは不明ですが、
寛永年間(1624~1643)には業務を行った記録があるようです。
現在残っている建物は安政3年(1856年)の大地震以降に建てられたものです。

小休本陣常盤家は土・日・祝日のみ一般公開されています。
吉原から蒲原まで歩いた日は平日で見学できなかったため後日再訪しました。

小休本陣常盤家の室内
小休本陣常盤家の室内(後日撮影)

この写真の奥の座敷が、大名などの賓客が休んだ「上段の間」です。
手前の部屋より一段高くなっています。

では、東海道に戻って蒲原を目指しましょう。
常盤家の前で振り返ったら富士山が見えました。

常盤家の前から見た富士山
常盤家の前から見た富士山

常盤家の前から500m程行くと、道の両側に大きな榎の木が見えてきます。
これが富士川の川縁から移転した岩淵の一里塚です。

岩淵の一里塚
岩淵の一里塚(後日撮影)

日本橋からの距離は37里(145.3km)です。
1つ前の本市場の一里塚は35里で、
36里は富士川の所なので一里塚がありません。
ただし、本市場の一里塚から岩淵の一里塚までの距離は
実際に測ってみると5km弱のようです。
かつてこの辺りには名物の栗ノ粉餅を売る茶店が並んでいたそうです。
京都に向かって左の塚の木は1967年に虫害のため枯死し、
1970年に2代目が植えられました。

一里塚の所で道は右に曲がります。
見通しの悪いカーブで、結構車が通るので要注意です。
しかもここを過ぎたすぐ先に富士川第一小学校があります。
親御さんは心配でしょうね。

小学校を過ぎた先で道は左に曲がります。
そこから暫くまっすぐなのですが、
次に曲がる交差点が見落としやすいのでこれまた要注意です。
カーブが終わってから300m余り行くと、道の左に秋葉山常夜灯があります。

目印の秋葉山常夜灯
目印の秋葉山常夜灯

常夜灯から約80m、最初の交差点を右に曲がります。

常夜灯の先
常夜灯の先から京都方面を見る。道路標識の所が交差点です。

ここを右に曲がる
ここを右に曲がる

交差点付近にはほとんど目印になる物がありません。
90m先の郵便局が交差点から見えるので、それを目印にしてもいいでしょう。
せっかくですから郵便局に寄ります。

富士川郵便局
富士川郵便局

富士川郵便局の風景印
富士川郵便局の風景印

富士川郵便局の風景印は
東名高速道路富士川サービスエリア、富士川楽座、富士山です。
富士川楽座は富士川橋西詰めから
県道10号を北へ900m行ったところにある道の駅です。
東名高速上り富士川サービスエリアともつながっています。
今回は年賀はがき(いろどり年賀 もも)を使用しました。

では、東海道に戻りましょう。

2009年12月 3日 05:47 | カテゴリー:東海道スタンプラリー