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2009年6月29日

【十二】いにしえの沼津を石で辿る 後編

沼津城本丸跡を迂回する川廓通りは、さんさん通りに突き当たって終わります。
旧東海道はここを左折し、さんさん通りに入ります。

川廓通りからさんさん通りへ
川廓通りからさんさん通りへ。左が川廓通り。前方が京都方面。

この辺りは三枚橋城の外堀があった場所です。
三枚橋城は戦国時代に築城され、
江戸時代初期には沼津藩主大久保忠佐が城主でしたが、
慶長18(1613)年の忠佐死去で大久保家は断絶し、
翌年三枚橋城も廃城となりました。
沼津城はその跡地に築城されましたが、三枚橋城よりも小規模でした。
1994年、付近の建築工事の際に外堀の石垣が見つかりました。
発掘された石を使用したモニュメントが歩道上に置かれた他、
さんさん通り沿いの沼津東急ホテル前に石垣が再現されています。

三枚橋城外堀跡のモニュメント
三枚橋城外堀跡のモニュメント

沼津東急ホテル前の石垣
沼津東急ホテル前に再現された三枚橋城外堀の石垣

モニュメントのすぐ先の通横町交差点で旧東海道は右折します。

通横町交差点
通横町交差点。旧東海道は右から来て奥へ。

そして、次の信号がある交差点ですぐ左折します。
通横町交差点から100mも離れていません。

旧東海道は右手前から左へ
旧東海道は右手前から左へ

ここから250m先、永代橋通りとの交差点までの間に
本陣、脇本陣跡の碑があります。
まずは左折した交差点の近くに高田本陣跡。

高田本陣跡
高田本陣跡

初めの路地の所に中村脇本陣跡。

中村脇本陣跡
中村脇本陣跡

次の路地の所に沼津本町郵便局があります。
今回はここで風景印を押してもらいます。

沼津本町郵便局
沼津本町郵便局

沼津本町郵便局の風景印
沼津本町郵便局の風景印

沼津本町郵便局の風景印は市の花はまゆうと千本松原と富士山です。
切手は東京の四季の花・木VI はまゆうです。

この日は三島を午後に出発したため、
5時までにここへ来て風景印をもらうのが精一杯でした。
一旦帰宅し、後日ここから吉原へと出発です。

そして3番目の路地の所に清水本陣跡。

清水本陣跡
清水本陣跡

このほか道の反対側に間宮本陣跡があります。
以上、本陣、脇本陣跡は全て石碑が建っているだけです。

江戸時代までは城下町、宿場町として、
また近代以降は保養地として栄えた沼津は、
新陳代謝を繰り返しながら地方都市として発展してきたことでしょう。
傍示石、石垣、石碑と妙に石ばかり見ていると、
それらが沼津の歴史を支えてきたものたちの墓標のように思えます。

清水本陣跡の先の信号で、道は永代橋通りと交差します。
ここが沼津宿の京方見附があった場所ですが、現在は石碑さえありません。

沼津宿京方見附跡
沼津宿京方見附跡。旧東海道は右折。

旧東海道は右に曲がり、永代橋通りに入ります。
ちなみに通りの名の由来である永代橋はここを左に曲がった先にあります。

京方見附から100m、浅間町交差点の所に浅間神社があります。

浅間神社
浅間神社

ここを通ったのは朝8時過ぎです。
お参りして道中の無事を祈願しようと思ったのですが、
黒服の人たちが集まって何かやっていたのでやめておきました。
敷地の周囲に提灯が並べられていたので、何かお正月の行事があったのでしょう。

この浅間町交差点を左折すると千本浜公園へ続く千本浜道です。

千本浜道
千本浜道

魅力的な道ですが、目的地は遠いので先を急ぎます。旧東海道は直進です。
浅間町交差点から静岡県道163号東柏原沼津線が始まります。
(正確に言うと沼津側が終点)
この道をずっとまっすぐ行くと次の目的地、原です。

静岡県道163号東柏原沼津線
静岡県道163号東柏原沼津線

県道163号に入って300m、蛇松(じゃまつ)緑道との交差点で富士山が‥‥

蛇松緑道との交差点
蛇松緑道との交差点

‥‥見えません。さっき浅間神社を素通りしたからでしょうか。

蛇松緑道との交差点から約500m、東間門と書かれた歩道橋があります。
ここから先が旧原町のようです。

東間門と書かれた歩道橋
東間門と書かれた歩道橋。これより旧原町。

原宿の入口までは約4.5kmです。

05:36 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年6月28日

【十二】いにしえの沼津を石で辿る 中編

黄瀬川橋で黄瀬川を渡って沼津市に入りました。

黄瀬川橋を渡って振り返る
黄瀬川橋を渡って振り返る

黄瀬川橋から300m程の所に傍示石があります。
「従是西 沼津領」と刻まれ、ここから先が沼津藩の領地である事を示しています。

傍示石
傍示石

江戸時代の初め、沼津には大久保忠佐が支配する沼津藩がありましたが、
慶長18(1613)年に忠佐が死去すると、その後は藩主を継ぐ者が居らず、
幕府領になっていました。
時代が下って安永6(1777)年、
三河国大浜藩主だった水野忠友が沼津に国替えとなり、
以後江戸時代の終わりまでこの地は沼津藩となっていました。
ここ黄瀬川右岸には1778年に傍示杭が立てられましたが、そばにある解説板に、
「傍示杭はその後石製の物に作り替えられ何度か小移転されたが‥‥」
とあります。初めは木製だったのでしょうか。
また、元の位置は現在より数十メートル三島寄りだったようです。

三島広小路駅から3.3km続いた県道145号は、
傍示石の先の東下石田交差点で静岡県道380号富士清水線に合流します。

東下石田交差点
東下石田交差点。左が沼津市街方面。

県道380号に入って600m程進むと、駿府へ十五里と書かれた道標がありました。

駿府へ十五里
駿府へ十五里

日本橋からから府中宿まで44里26町ですから、ここまでが29里26町とすると、
清水町の伏見一里塚から26町、約2.8kmということになります。
後で確認したら2.4km、22町くらいだったので、だいたい合っていますね。
このそばにある解説板によると、この近辺と、先程の傍示石付近にも
江戸時代には松並木があったようです。
道標のすぐ先で左方向に細い道が分かれています。
旧東海道はその細い道です。ここで一旦県道380号から離れます。

県道380号から離れる
県道380号から離れる

広重の沼津の絵には川沿いの道が描かれています。
どうやらこの辺りを描いたものらしく、道の左側に狩野川があるはずなのですが、
高い堤防に遮られて見えません。

この道の先にある狩野川は堤防に遮られて見えない
この道の先にある狩野川は堤防に遮られて見えない

1958年9月26日、台風22号が伊豆半島をかすめ関東地方に上陸しました。
狩野川流域で死者・行方不明者1000名を超える大きな被害が出たため、
この台風は狩野川台風と呼ばれています。
水害のことを考えたら風景についての不満など言っていられません。

県道380号を離れてから約600mの所に沼津一里塚があります。

沼津一里塚
沼津一里塚

本来は日本橋から30里(117.8km)ですが、実は少し日本橋寄りにずれています。
正確に30里の位置に設置すると沼津の宿内になってしまうため、
少し手前で、日枝神社旧参道脇のこの場所に設置したと言われているそうです。
どの程度ずれているかはわかりませんが、
ここから沼津宿の入口までは400mくらいです。
上方に向かって右側の塚のみ残っており、榎が植えられていますが、
元の榎は終戦直後に枯死してしまい、新たに植えられました。

一里塚のそばには玉砥石があります。
今から1200~1300年前、玉類を磨く砥石として使われたと考えられています。

玉砥石
玉砥石

狩野川対岸の香貫地区で玉の加工が行われていたとする説があるものの、
今の所決定的な証拠は見つかっていないそうです。

一里塚から200m程で県道380号に戻ります。
この辺りでは「旧国一通り」または単に「旧国一」と呼ばれているようです。

県道380号に戻る
県道380号に戻る

このすぐ先で沼津宿に入りますが、特に目印はありません。
県道380号に戻って500m、国道414号と交差した先で県道が少し右に曲がります。

沼津市街に入った県道380号
沼津市街に入った県道380号

江戸時代はこの正面に沼津城があり、東海道は左へ迂回していました。
現在その道筋は川廓(かわぐるわ)通りとして残されています。

左の細い道が川廓通り
左の細い道が川廓通り

ちなみに三島広小路駅の所から続いていた県道上の路面電車は、
このまま県道380号を進み、
すぐ先の大手町交差点で右折して沼津駅前へ行っていました。

川廓通りは、昭和30年代まで残っていたとされる
石畳をイメージした舗装になっています。
左側は狩野川ですが、堤防に遮られて見えません。
川廓通りに入って150m程行くと、頭上をあゆみ橋が跨いでいます。
あゆみ橋は中央公園と狩野川対岸を結ぶ人道橋で、
川廓通りからも上がることができます。

あゆみ橋
あゆみ橋

あゆみ橋の袂、今歩いて来た川廓通りから見ると右上に中央公園があります。
ここは沼津城の本丸跡です。

中央公園
中央公園。右奥があゆみ橋。

沼津城は安永6(1777)年、
水野忠友が三河国大浜から国替の際に築城されました。
慶応4(1868)年、水野氏が上総国菊間へ国替になった後、
城の建物は沼津兵学校の施設として使われました。
兵学校は明治5(1872)年に東京へ移転し、後に建物は取り壊されました。
通常城跡といえば石垣ぐらいは残っているものですが、
ここはほぼ何も残っていません。

川廓通りに戻って東海道の続きを歩きましょう。
あゆみ橋から100m程で川廓通りはさんさん通りに突き当たって終わります。

川廓通りの終わり
川廓通りの終わり

旧東海道はここを左ですが、その前にちょっと右の方を見てみます。

沼津城大手門跡
沼津城大手門跡

この辺りが沼津城の大手門跡です。
今は大手町という町名に名残を留めるのみです。
さんさん通りをこのまま右の方へ進むと沼津駅です。
では、東海道に戻りましょう。

08:28 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年6月27日

【十二】いにしえの沼津を石で辿る 前編

境川に掛かる境川橋で三島市は終わりです。
境川橋は欄干がなければ見落としそうな小さな橋です。
現在の橋は1929年竣工。結構古いですね。

境川橋
境川橋

境川橋から右の方を見ると、
建物の間からコンクリート製の大きな樋が見えます。
これが千貫樋(せんがんどい)です。

千貫樋
千貫樋

千貫樋は境川を跨いで農業用水を通すための樋です。
創建は諸説ありますが、15~16世紀頃のようです。
清水町観光協会のサイトによれば、長さ39間(71m)、幅1間(1.8m)、
深さ15寸(45cm)、高さ1丈5尺(4.5m)の木製の樋だったそうです。
1923年の関東大震災で崩落し、
その後鉄筋コンクリートで再建されたものが現存しています。
境川橋にある解説板によれば現在の千貫樋の大きさは
長さ42.7m、幅1.9m、深さ45cm、高さ4.2mですから、
昔より短くなっているようです。

名前の由来はこれまた諸説あるようで、
・架設が巧みなため銭千貫に値する
・この用水が高千貫の田地を潤している
・建設費が銭千貫を費やした
などが伝えられているそうです。

千貫樋は現役の農業用水ですが、
近年は老朽化が進み、今後が危ぶまれているそうです。
この大正時代の樋は早めに見学しておいた方が良さそうです。

それでは境川を渡って駿河国に入りますが、ここは清水町。
目指す沼津はもう少し先です。

これより清水町
これより清水町

同じ清水でも
2003年まで存在した清水市(現・静岡市清水区の一部)とは無関係です。

160m程行くと、道の右側に石造りの常夜灯があります。
この常夜灯は弘化3(1846)年、ここの筋向かいの交差点に建てられました。
昭和初期から終戦後にかけての耕地整理でよそへ移されていましたが、
2001年に再び旧東海道沿いのこの場所に移築されました。
この先しばらくの間、沿道に同様の常夜灯が数多く見られます。

常夜灯
常夜灯

250m程行くと、三島清水郵便局があります。
せっかく前を通るので風景印を押してもらいましょう。

三島清水郵便局
三島清水郵便局

三島清水郵便局の風景印
三島清水郵便局の風景印

三島清水郵便局の風景印は
「富士山に同山を源とする柿田川に自然林と鮎」です。
同じ清水町内にある三島徳倉橋郵便局、長沢郵便局と共通の図案です。
今回はかもめ~る(夏の海)を使用しました。

400m程進むと左右にお寺があり、それぞれに一里塚があります。
京都に向かって左は宝池寺です。
こちら側の一里塚は風雨にさらされ崩れてしまったため、
1985年に修復されました。

宝池寺一里塚
宝池寺一里塚

この宝池寺側には立場もあったそうです。

京都に向かって右側は玉井寺(ぎょくせいじ)です。
こちら側の一里塚は江戸時代以来の物です。
一里塚も年月を経た物は、近年改修された物に比べ風格が感じられます。

玉井寺一里塚
玉井寺一里塚

両方を合わせて伏見一里塚と呼びます。
日本橋から29里(113.9km)です。

この玉井寺には、山号の扁額等、白隠の遺墨がいくつかあります。
白隠は江戸中期の禅僧です。
当時曹洞宗などと比較して衰退していた臨済宗を復興させ、
「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山と原の白隠」と謳われました。
この先の原宿に生まれ、出家後は諸国を巡って修行を積んだ後、
再び原に戻っています。

伏見一里塚から200m先の八幡(やはた)交差点で国道1号を横切ります。
国道1号はここから富士市方向が、
沼津市街の北側を迂回する沼津バイパスになります。
また、沼津バイパスができる前の国道1号である県道380号がここから始まります。
実はこの先で旧東海道は県道380号になるのですが、
今は引き続き県道145号で静かな住宅街の中を行きます。

清水町内の旧東海道
清水町内の旧東海道

八幡交差点から約500m、交差店名の由来であろう八幡神社があります。

八幡神社
八幡神社

八幡神社の境内に対面石があります。
治承4(1180)年、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せて来た時、
源頼朝は鎌倉からこの地に出陣しました。
そして、奥州から駆けつけた弟の義経と対面し、
この石に腰掛けて源氏再興の苦心を語り合い、
懐旧の涙にくれたと伝えられています。

対面石
対面石

対面石
風のたよりに、みちのくにいると聞いていた、九郎義経とは、おまえか。

対面石
はい九郎義経でございます。

対面石
この頼朝が旗あげと聞いて、遠くよりかけつけてきたのか。

対面石
伊豆には兄君がおられると聞かされ、長い間、
伊豆の空をしたわしく思っておりました。

頼朝が座った石の脇に柿の木が2本あります。
義経との対面の時、頼朝が柿を食べようとしたら渋柿だったため
ねじって傍らに捨てたところ、後に芽を出しました。
それが幹を絡ませねじり合っていたので
いつしか「ねじり柿」と呼ばれるようになったそうです。
まあ、樹齢800年の柿の木が和歌山県にあるそうですから
頼朝の頃の柿の木が植わっていてもおかしくはないでしょう。
しかし、ある地元在住の方のサイトに、
昔は対面石はもう少し北の方にあったのを付近の工事の都合で移動した
という記述があるのを見つけました。
柿の木も移植したのでしょうか。
そもそも源義経は謎の多い人物で、
実は頼朝と対面した場所も特定できていないといいますから、
これ以上追求するのはやめておきましょう。

八幡神社の参道入口から200m、道の左側に少しだけ松並木があります。
長沢の松並木です。

長沢の松並木
長沢の松並木

松並木から100m余り、黄瀬川橋で黄瀬川を渡ります。
この橋を渡れば沼津市です。清水町内の歩行距離はわずか1.9km。
橋から富士山が見えました。

黄瀬川橋から見た富士山
黄瀬川橋から見た富士山

05:53 | カテゴリー:東海道スタンプラリー