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2008年12月 7日

【補遺】生麦と鴨宮

ある夏の日の朝、私は横浜に行く用事があったのですが、
用事は朝のうちに済んでしまい、
9時半過ぎには何もやることが無くなってしまいました。
そこで、東海道スタンプラリーで失敗した部分の
やり直しをすることにしました。

まずは、神奈川宿の手前で違う道を歩いてしまった部分を歩き直すため、
電車を乗り継いでJR鶴見線国道駅へ向かいました。

旧東海道は川崎市から横浜市鶴見区へ入ると、
京急鶴見駅の下から鶴見銀座というあんまり銀座っぽくない商店街を抜け、
下野谷町入口という交差点に出ます。
交差する道は国道15号です。

下野谷町入口交差点
下野谷町入口交差点

川崎から神奈川まで歩いた日は、
ここを右に曲がって国道15号を進んでしまいました。
その時の記事はこちら。
【三】横浜に呑まれた神奈川 前編
ここは国道を横切って直進するのが正しい道です。

旧東海道は正面の赤信号の所へ入って行く。右は国道15号横浜駅方面。
旧東海道は正面の赤信号の所へ入って行く。右は国道15号横浜駅方面。

下野谷町入口交差点を直進すると道はすぐ右にカーブし、
国道15号と鶴見川の間を進みます。
この道が「生麦魚河岸通り」です。
すぐに鶴見線の国道駅の所で線路をくぐります。

生麦魚河岸通り。上の線路はJR鶴見線。
生麦魚河岸通り。上の線路はJR鶴見線。

国道駅は国道15号と旧東海道に跨るように設置され、
高架下が2本の道を結ぶトンネルのようになっています。

国道駅の高架下の通路。奥が旧東海道側。
国道駅の高架下の通路。奥が旧東海道側。

魚河岸通り沿いには魚屋さんがたくさんあります。
芙蓉が咲いています。夏の花です。

魚河岸通りの芙蓉
魚河岸通りの芙蓉

国道駅から1km進むと広い道と交差します。
この道は「東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線」と言いますが、
長いので「産業道路」と呼ばれています。
東京都大田区から始まり、この交差点を右へ200m進んだ所で
国道15号にぶつかって終わります。
その先、キリンビールの工場を左に見ながら500m余り行くと
生麦一丁目交差点で旧東海道も国道15号に合流します。

生麦一丁目交差点。前方に貨物線が見える。
生麦一丁目交差点。前方に貨物線が見える。

交差点の前方にJRの貨物線、通称高島線が見えます。
この線路は京浜東北線(東海道本線)の鶴見駅から
みなとみらい21地区の北にある東高島という貨物駅を通り、
根岸線の桜木町駅に通じています。
鶴見の先は二手に分かれ、一方は南武線経由で鶴見線に、
もう一方は品川-鶴見間の貨物線、通称品鶴線につながっています。
また、桜木町から先は根岸線経由で再び東海道本線に合流します。
貨物は乗り換えができないので、列車が縦横無尽に走れるようになっています。

交差点のすぐそばに生麦事件の碑があります。

生麦事件の碑
生麦事件の碑

イギリス人貿易商チャールス・リチャードソンは
馬で東海道を通行中に騎乗のまま島津久光の行列に乗り入れてしまい、
その場で無礼打ちにされます。
重傷を負ったリチャードソンはその場から逃げますが、
670m程逃げた所で落馬し、追って来た薩摩藩士にとどめを刺されました。
碑があるのはリチャードソンが絶命した場所で、
初めに斬られた場所は産業道路との交差点から200m余り国道駅寄りの所です。

私が訪れた時は8月21日に追悼記念祭を行うという張り紙がありましたが、
毎年やっているかは不明です。
なお、事件があったのは旧暦の文久2年8月21日で、
新暦では1862年9月14日になります。

この先は既に正しい道を歩いているので、
国道15号を少し戻って生麦駅から京急に乗り、横浜でJRに乗り換えました。
二宮と国府津で撮りそびれた写真を撮った後、鴨宮で下車。
小田原鴨宮郵便局へ向かいました。
ここは旧東海道から離れていますが、
旧東海道に因んだ風景印があると聞いたので行ってみることにしました。

小田原鴨宮郵便局
小田原鴨宮郵便局

小田原鴨宮郵便局の風景印
小田原鴨宮郵便局の風景印

今回はかもめ~る(無地)を使用しました。
風景印の図案は、左上に東海道五十三次のイメージと箱根の山々、
右上に新幹線電車、左下にだるま(オーディナリー型)自転車です。
2000年10月1日から使われているそうです。

この図案に使われている新幹線電車は、先頃引退した0系です。
私にとっても、東京と愛知県の豊橋の間を行き来するのに何度も乗った
思い出深い車輌です。

駅から郵便局までの道に、
「新幹線発祥の地」と書かれた小さな旗がたくさん掲げられていました。

「新幹線発祥の地」の旗
「新幹線発祥の地」の旗

昭和初期には東京-下関間に高速鉄道を建設する構想があり、
1939年頃から「弾丸列車計画」として具体化していきました。
これは既存の東海道・山陽本線に並行する形で高速列車対応の新線を建設し、
東京-大阪間を4時間半、東京-下関間を9時間で結ぶという計画でした。
当時鉄道省内部では既に「新幹線」という言葉が使われていたといいます。

弾丸列車計画は太平洋戦争の戦局悪化のため1943年に中止されますが、
それまでに取得した用地や完成したトンネルは
戦後の新幹線に活用されました。

新幹線建設の際、まずは取得済みの用地のうち、
綾瀬市南部から小田原市鴨宮まで約32kmの線路を先行して完成させ、
ここをモデル線として1962年からテスト走行を始めました。
そして、モデル線が既存の東海道本線と接近する鴨宮は、
テスト走行の拠点とされ車両基地が設けられました。

1964年に東海道新幹線が開業する際、モデル線はその路線の一部になり、
また車両基地は線路のメンテナンス基地になりました。
そして1974年には、当時の国鉄により新幹線発祥の地の碑が建てられました。

ところで、自転車はなぜ入っているのでしょう。

風景印をもらった後、今度は電車に乗らず、国道1号まで歩きました。
そして、小田原宿の手前で道を間違えた部分の歩き直しをしました。
酒匂川を渡った先の、ほんの200m程です。
これで歩き直しは完了。バスで小田原駅へ向かいました。

帰りは町田まで小田急ロマンスカーに乗りました。
運良く展望席が取れたのですが、いざ乗ってみると私の席に先客がいました。
相手は外国人で、隣に連れがいるので席を替わって欲しいと
英語で言っています。

その人の本来の席を見ると、展望席ではない普通の席です。
私はわざわざ展望席を選んで切符を買ったのでお断りすることにしましたが、
聞いてわかる外国語も話すとなるとなかなか難しいものです。
是非ともこちらの事情を説明したいのですが、
英語で何と言ったらいいのか私にはわかりません。

結局、こちらの立場を日本語で二度主張したら相手が諦めました。
融通の利かない奴になってしまいましたね。
当然の権利を行使しただけなのに、
何だか日本の印象を悪くしてしまったようで後味が悪いです。
もっとも、英語が通じなかったと思われただけかも知れませんが。

2008年12月 7日 14:44 | カテゴリー:東海道スタンプラリー