« 【十】箱根アタック 其の五 樫の木平・笈平編 | メイン | 【十】箱根アタック 其の七 箱根宿編 »
2008年11月30日
【十】箱根アタック 其の六 白水坂・権現坂編
於玉坂を抜けた所で県道732号を横断しますが、
湯本の三枚橋からのお付き合いだったこの道とはこれでお別れです。
そばに「旧街道石畳」という名前のバス停があります。
県道を横断すると白水坂が始まります。
白水坂の入り口
雨が本降りになってきたので傘を差しました。
白水坂
畑宿の後の西海子坂で斜めの排水溝を紹介しましたが、
ここには縦方向の排水溝があります。
写真右上から下りてくる道に沿って溝が作られています。
道はここで左(写真手前)に曲がりますが、
水はまっすぐカーブの外側へと流されます。
縦の排水溝
私は坂を登っているので、ここで右に曲がります。
白水坂に入ってから10分程歩いたでしょうか。
道の右側から大きな石が張り出しています。
何も解説がありませんが、どうやらこれが「変更石」のようです。
豊臣秀吉が小田原攻めの際に、九頭竜弁才天のお告げを受けて
この場所で引き返したと言われています。
大きな石
白水坂の名も「城を見ず」に由来するという話があるようです。
石の脇には「天ヶ石坂」と書かれた石碑があります。
こちらは天蓋のような石があったかららしいのですが、
一体どんな石でしょう。
道の上に覆い被さるような石だったのでしょうか。
グーグルで「天蓋」を検索したら、
通販のサイトに「お姫様ベッド」と書いてありました。
やっぱりその印象が強いようですね。
では、天ヶ石坂を進みましょう。
大きな石の所から10分程歩くと八町平に出ます。
この先にある権現坂の別名が八町坂なので、その上の広場という意味でしょう。
馬子や雲助たちが休憩した場所だそうで、現在は箱根馬子唄の碑があります。
箱根馬子唄の碑
箱根八里は馬でも越すが こすに越されぬ大井川
すぐそばに二子山についての解説板があり、
「前方に見えるコブのような山は‥‥」と書かれているのですが、
周りは木が生い茂り、山など見えません。
後で地図を見たら、私のように小田原方面から来ると
どうやら二子山は後方に見えるようです。
(そこまでは考えなかった)
この先、元箱根までは芦ノ湖に向かって下り坂になります。
5分程歩くと舗装道路と交差します。
湯坂道との合流点
右から来る舗装道路は湯坂道です。
湯坂道は小田原から元箱根まで、東海道より少し北を通る道です。
元は湯坂道が東海道だったのですが、
江戸時代に入って交通量が増えたため、
1618年に湯坂道より勾配の緩い須雲川沿いのルートが開かれました。
ここから少しの間、東海道と湯坂道が重なっています。
東海道・湯坂道はこの交差点を直進です。
ここからの下りが権現坂、別名八町坂です。
権現坂。東海道かつ湯坂道。
100m程行くと道が3方向に分かれています。
江戸時代の東海道は直進、湯坂道は左です。
なお、ここを右へ行くと、200m程で畑宿入口交差点です。
畑宿入口交差点は、三枚橋交差点で国道1号から分かれた県道732号が
再び国道1号に合流する交差点です。
東海道は直進。湯坂道は左。
この湯坂道との分岐点の右に、坂の名前の由来である箱根権現があります。
勾配はかなり急です。
遠くから自動車の音が聞こえます。元箱根はもう目前です。
権現坂の急勾配
分岐点から100m少々、元箱根の標識がありました。
「この下、車多し危険、下りないでください。」と書かれています。
下を覗くと車道が見えます。土手には階段もあります。
以前はここから車道に下りるようになっていたようです。
もうすぐ元箱根
現在はそのすぐ先の杉並木歩道橋で車道を渡ります。
木製の欄干を持つ歩道橋です。
杉並木歩道橋
歩道橋を渡れば元箱根です。
車道を越えた先に遊歩道があります。
箱根宿は1618年、東海道が湯坂道から須雲川沿いのルートに変更された際に
既存の芦川宿を拡大する形で設置されました。
元箱根は箱根宿設置以前からあった古い町です。
杉並木歩道橋から車道と遊歩道を見下ろす
しかし、遊歩道は60m程で終わってしまいます。
遊歩道の終わりにケンペル・バーニーの碑があります。
左がバーニーの碑。右がケンペルとバーニーを讃える碑。
1690年にオランダ使節の一員として来日した
ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルについては、
品川宿の先にある鈴ヶ森刑場の所で紀行文の一節を紹介しました。
ケンペルは1683年から1695年にかけて、実に12年にも及ぶアジア大旅行で
膨大な資料を集めました。
箱根でも多くの植物を採集したそうです。
帰国後には、まず主にペルシャについて書かれた「廻国奇観」を出版。
続いて日本についての本を執筆しますが、
残念ながら草稿を書き上げた段階で死去しました。
1727年、ケンペルの遺稿を元に「日本誌」がロンドンで出版されます。
これがヨーロッパの知識人たちに影響を与え、
19世紀のジャポニズムに繋がっていきます。
一方、シリル・モンタギュー・バーニーは、
オーストラリア出身のイギリス人貿易商です。
1886年に来日し、1920年には芦ノ湖の畔に別荘を建てました。
そして、国道1号に面した別荘の庭先に、
箱根の自然を讃えた石碑を置き、自然保護を訴えました。
碑文にはケンペルの「日本誌」の序文が引用されています。
バーニーは、新興国である日本が、
先進国と同じ過ちを犯す事を懸念していたのではないでしょうか。
恐らくイギリスは、18世紀から19世紀にかけてのの産業革命と引き換えに
何か大事な物を失ってしまったのでしょう。
太平洋戦争を経験してもなお親日家であり続けたバーニーは
1958年に横浜で死去。横浜の外国人墓地に埋葬されたそうです。
1975年、イギリスのエリザベス女王が来日した際、
宮中晩餐会におけるスピーチで「日本誌」の序文を引用したといいます。
すると、忘れられていたバーニーの碑が再評価されるようになり、
1986年にはケンペルとバーニーの功績をたたえる碑が
箱根町によって建てられました。
そんな逸話の残るバーニーの碑には、こう刻まれています。
お前らいい物持ってんだからちゃんと守ってけよ。
頼むから、ほんと、マジで。
ところで、箱根八里の歌にも登場する中国の函谷関には、
かつて2層の楼閣と、3重に張り巡らされた高さ66mの城壁があったそうです。
この貴重な歴史的建造物は1950年代に解体されました。
なんでも、当時中国は急激に鉄鋼を増産しようとしていて、
建物に使われていた煉瓦を製鉄用の炉の材料に使いたかったのだとか。
しかも、そうして作られた鉄鋼は話にならない程の粗悪品で、
結局使い物にならなかったそうです。
新興国の気持ちなど先進国にはわからないのでしょうか。
新興国は本当に立ち止まって考える余裕など無いのでしょうか。
そうやって歴史は繰り返し、貴重な自然や文化遺産が失われるのでしょうか。
私の好きな白帝城は三峡ダムの開発で水没すると思っていたら、
どうやら孤島にはなるものの水没は免れたようです。
中国が先進国になった時、新興国にどんな忠告をするのでしょうか。
さて、続きを歩きましょう。
ここからしばらく車道を歩きます。歩道はありません。
この道は元は国道1号だったそうですが、
今の国道は畑宿入口交差点から芦ノ湖寄りを通る新ルートになっています。
ちょうど遊歩道から車道に出た辺りで、左側から湯坂道が下りてきます。
湯坂道はここで終わりです。
道の両脇に杉の大木が並んでいます。どの木も樹齢300年以上でしょう。
杉並木。ここが湯坂道との合流点。
車道に出て300m、突き当たりで国道1号にでます。
正面に遊覧船乗り場が見えます。
国道1号に出る。正面は遊覧船乗り場。
では、関所を目指して芦ノ湖の畔を歩きましょう。
箱根宿江戸方見附までは800m程です。
2008年11月30日 07:26 | カテゴリー:東海道スタンプラリー