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2008年11月30日
【十】箱根アタック 其の六 白水坂・権現坂編
於玉坂を抜けた所で県道732号を横断しますが、
湯本の三枚橋からのお付き合いだったこの道とはこれでお別れです。
そばに「旧街道石畳」という名前のバス停があります。
県道を横断すると白水坂が始まります。
白水坂の入り口
雨が本降りになってきたので傘を差しました。
白水坂
畑宿の後の西海子坂で斜めの排水溝を紹介しましたが、
ここには縦方向の排水溝があります。
写真右上から下りてくる道に沿って溝が作られています。
道はここで左(写真手前)に曲がりますが、
水はまっすぐカーブの外側へと流されます。
縦の排水溝
私は坂を登っているので、ここで右に曲がります。
白水坂に入ってから10分程歩いたでしょうか。
道の右側から大きな石が張り出しています。
何も解説がありませんが、どうやらこれが「変更石」のようです。
豊臣秀吉が小田原攻めの際に、九頭竜弁才天のお告げを受けて
この場所で引き返したと言われています。
大きな石
白水坂の名も「城を見ず」に由来するという話があるようです。
石の脇には「天ヶ石坂」と書かれた石碑があります。
こちらは天蓋のような石があったかららしいのですが、
一体どんな石でしょう。
道の上に覆い被さるような石だったのでしょうか。
グーグルで「天蓋」を検索したら、
通販のサイトに「お姫様ベッド」と書いてありました。
やっぱりその印象が強いようですね。
では、天ヶ石坂を進みましょう。
大きな石の所から10分程歩くと八町平に出ます。
この先にある権現坂の別名が八町坂なので、その上の広場という意味でしょう。
馬子や雲助たちが休憩した場所だそうで、現在は箱根馬子唄の碑があります。
箱根馬子唄の碑
箱根八里は馬でも越すが こすに越されぬ大井川
すぐそばに二子山についての解説板があり、
「前方に見えるコブのような山は‥‥」と書かれているのですが、
周りは木が生い茂り、山など見えません。
後で地図を見たら、私のように小田原方面から来ると
どうやら二子山は後方に見えるようです。
(そこまでは考えなかった)
この先、元箱根までは芦ノ湖に向かって下り坂になります。
5分程歩くと舗装道路と交差します。
湯坂道との合流点
右から来る舗装道路は湯坂道です。
湯坂道は小田原から元箱根まで、東海道より少し北を通る道です。
元は湯坂道が東海道だったのですが、
江戸時代に入って交通量が増えたため、
1618年に湯坂道より勾配の緩い須雲川沿いのルートが開かれました。
ここから少しの間、東海道と湯坂道が重なっています。
東海道・湯坂道はこの交差点を直進です。
ここからの下りが権現坂、別名八町坂です。
権現坂。東海道かつ湯坂道。
100m程行くと道が3方向に分かれています。
江戸時代の東海道は直進、湯坂道は左です。
なお、ここを右へ行くと、200m程で畑宿入口交差点です。
畑宿入口交差点は、三枚橋交差点で国道1号から分かれた県道732号が
再び国道1号に合流する交差点です。
東海道は直進。湯坂道は左。
この湯坂道との分岐点の右に、坂の名前の由来である箱根権現があります。
勾配はかなり急です。
遠くから自動車の音が聞こえます。元箱根はもう目前です。
権現坂の急勾配
分岐点から100m少々、元箱根の標識がありました。
「この下、車多し危険、下りないでください。」と書かれています。
下を覗くと車道が見えます。土手には階段もあります。
以前はここから車道に下りるようになっていたようです。
もうすぐ元箱根
現在はそのすぐ先の杉並木歩道橋で車道を渡ります。
木製の欄干を持つ歩道橋です。
杉並木歩道橋
歩道橋を渡れば元箱根です。
車道を越えた先に遊歩道があります。
箱根宿は1618年、東海道が湯坂道から須雲川沿いのルートに変更された際に
既存の芦川宿を拡大する形で設置されました。
元箱根は箱根宿設置以前からあった古い町です。
杉並木歩道橋から車道と遊歩道を見下ろす
しかし、遊歩道は60m程で終わってしまいます。
遊歩道の終わりにケンペル・バーニーの碑があります。
左がバーニーの碑。右がケンペルとバーニーを讃える碑。
1690年にオランダ使節の一員として来日した
ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルについては、
品川宿の先にある鈴ヶ森刑場の所で紀行文の一節を紹介しました。
ケンペルは1683年から1695年にかけて、実に12年にも及ぶアジア大旅行で
膨大な資料を集めました。
箱根でも多くの植物を採集したそうです。
帰国後には、まず主にペルシャについて書かれた「廻国奇観」を出版。
続いて日本についての本を執筆しますが、
残念ながら草稿を書き上げた段階で死去しました。
1727年、ケンペルの遺稿を元に「日本誌」がロンドンで出版されます。
これがヨーロッパの知識人たちに影響を与え、
19世紀のジャポニズムに繋がっていきます。
一方、シリル・モンタギュー・バーニーは、
オーストラリア出身のイギリス人貿易商です。
1886年に来日し、1920年には芦ノ湖の畔に別荘を建てました。
そして、国道1号に面した別荘の庭先に、
箱根の自然を讃えた石碑を置き、自然保護を訴えました。
碑文にはケンペルの「日本誌」の序文が引用されています。
バーニーは、新興国である日本が、
先進国と同じ過ちを犯す事を懸念していたのではないでしょうか。
恐らくイギリスは、18世紀から19世紀にかけてのの産業革命と引き換えに
何か大事な物を失ってしまったのでしょう。
太平洋戦争を経験してもなお親日家であり続けたバーニーは
1958年に横浜で死去。横浜の外国人墓地に埋葬されたそうです。
1975年、イギリスのエリザベス女王が来日した際、
宮中晩餐会におけるスピーチで「日本誌」の序文を引用したといいます。
すると、忘れられていたバーニーの碑が再評価されるようになり、
1986年にはケンペルとバーニーの功績をたたえる碑が
箱根町によって建てられました。
そんな逸話の残るバーニーの碑には、こう刻まれています。
お前らいい物持ってんだからちゃんと守ってけよ。
頼むから、ほんと、マジで。
ところで、箱根八里の歌にも登場する中国の函谷関には、
かつて2層の楼閣と、3重に張り巡らされた高さ66mの城壁があったそうです。
この貴重な歴史的建造物は1950年代に解体されました。
なんでも、当時中国は急激に鉄鋼を増産しようとしていて、
建物に使われていた煉瓦を製鉄用の炉の材料に使いたかったのだとか。
しかも、そうして作られた鉄鋼は話にならない程の粗悪品で、
結局使い物にならなかったそうです。
新興国の気持ちなど先進国にはわからないのでしょうか。
新興国は本当に立ち止まって考える余裕など無いのでしょうか。
そうやって歴史は繰り返し、貴重な自然や文化遺産が失われるのでしょうか。
私の好きな白帝城は三峡ダムの開発で水没すると思っていたら、
どうやら孤島にはなるものの水没は免れたようです。
中国が先進国になった時、新興国にどんな忠告をするのでしょうか。
さて、続きを歩きましょう。
ここからしばらく車道を歩きます。歩道はありません。
この道は元は国道1号だったそうですが、
今の国道は畑宿入口交差点から芦ノ湖寄りを通る新ルートになっています。
ちょうど遊歩道から車道に出た辺りで、左側から湯坂道が下りてきます。
湯坂道はここで終わりです。
道の両脇に杉の大木が並んでいます。どの木も樹齢300年以上でしょう。
杉並木。ここが湯坂道との合流点。
車道に出て300m、突き当たりで国道1号にでます。
正面に遊覧船乗り場が見えます。
国道1号に出る。正面は遊覧船乗り場。
では、関所を目指して芦ノ湖の畔を歩きましょう。
箱根宿江戸方見附までは800m程です。
07:26 | カテゴリー:東海道スタンプラリー
2008年11月29日
【十】箱根アタック 其の五 樫の木平・笈平編
橿木坂の分岐点から樫の木平への階段を上らず元箱根への道を選びましたが、
結局次の階段を上って樫の木平に来ました。
西海子坂を抜けて県道の七曲りを橿木坂へ向かう頃までは
残暑厳しい快晴の下汗だくで歩いていたのですが、
ここまで来たらだいぶ雲が出てきました。
それでも彼方に小田原の市街地が見えています。
今日は標高26mの小田原から108mの湯本、400mの畑宿を通って、
標高600mの樫の木平まで来ました。
目指す箱根は、芦ノ湖の湖面が標高723m。まだ100m上らなければなりません。
樫の木平からの眺め
それでは、ここにある見晴茶屋で食事と休憩です。
見晴茶屋
ざるとろろそばです。薬味にしその実が入っているのが珍しいです。
そばのつけ汁にうずらの卵が入っています。
うずらの卵生産量日本一の豊橋市で生まれた私は普通だと思っていましたが、
関東では珍しいみたいです。
見晴茶屋のざるとろろそば
暇だったようでサービスで色々付けてくれました。
サービス品の数々
栗ごはん、しそ寒天、モロヘイヤ、なすとこんにゃくの味噌炒めです。
さて、旧東海道に戻りましょう。
この辺りも引き続き須雲川自然探勝歩道なのだそうです。
元箱根まであと3km程です。石畳が続いています。
少し雨が降ってきましたが、生い茂った木のおかげでほとんど濡れません。
元箱根への道
15分程歩いたでしょうか、猿滑坂に入りました。
猿滑坂は途中から階段になり、一旦県道に出ます。
猿滑坂
横断歩道で県道を渡り、さらに階段を上ります。
新編相模国風土記稿には、
「殊に危険、猿猴といえども、たやすくのぼり得ず、よりて名とす」
とあるそうです。坂の入り口の解説板によれば、
昔は県道を渡る横断歩道の辺りが難所だったようです。
県道ができて現在のように階段になったのでしょう。
猿滑坂の途中で県道を渡る。
県道を渡った後の階段は茂みの中を抜け、
県道より高い位置の歩道へと続いています。
この高い歩道も70m程で終わり、再び階段で県道の脇へ下ります。
県道より高い位置の歩道
県道に下りて150m進むと追込坂の入り口があります。
入り口の解説板によると、一応「おいこみざか」と仮名が振ってありますが
新編相模国風土記稿には「ふっこみざか」とあり、
どちらが正しい読みなのかわからないそうです。
追込坂の入り口
追込坂の入り口の先、県道沿いに笈平(おいのたいら)が続いています。
親鸞上人が弟子の性信房と別れた場所だそうです。
追込坂の入り口の脇は小さな公園のようになっており、
そのまま県道を200m進むと箱根旧街道資料館と甘酒茶屋があります。
追込坂は緩やかな坂です。
この道を進んでも資料館と甘酒茶屋の裏を通ります。
途中にあった立て札によると、猪が出ることがあるそうです。
猪も出ないようでは山として寂しいと思いますが、
山道で猪に遭遇したいとは思いません。勝手なものです。
追込坂
箱根旧街道資料館の裏まで来ました。
手前の木は楓ですね。秋には紅葉が楽しめそうです。
箱根旧街道資料館の裏
杉林の中、石畳が続きます。
箱根旧街道資料館を過ぎた辺りの石畳
明るい所へ出ました。
明るくなった
そうかと思うとまた暗い道になりました。
この辺りが於玉坂らしいのですが、
どこからどこまでが於玉坂なのかはよくわかりません。
伊豆、大瀬村の百姓太郎兵衛の娘お玉が奉公先の江戸から帰郷する際、
道中手形を持っておらず、関所破りをしますが、捕らえられ処刑されました。
1702(元禄15)年のことだそうです。
「入鉄炮出女」という言葉で知られる関所の本来の目的からすれば、
百姓の娘をわざわざ処刑する必要は無いように思えます。
ただ、関所破りが違法である以上無視はできないわけで、
こういう事が時々あるのが、
本当の出女に対する抑止力にはなっていたのかもしれません。
この坂はそんな逸話の残るお玉に因んで命名されたようです。
向こうにまた明るい所が見えます。
於玉坂
県道に出ました。箱根旧街道資料館の裏から400m程の所です。
県道に出る
道端に立てられた大きな札に
「箱根旧街道 元箱根一、二〇〇米」と書かれています。
だいぶ近付きました。
06:06 | カテゴリー:東海道スタンプラリー
2008年11月28日
【十】箱根アタック 其の四 畑宿・橿木坂編
畑宿に着きました。ここは間の宿です。
湯本から元箱根まで約7kmの山道を休まず歩くのは大変です。
畑宿には大名の休憩に備えて本陣もありましたが、
間の宿であり、旅人の宿泊は禁じられていたため旅籠はありませんでした。
畑宿の入り口で振り返ると、右に大澤坂の出口、
左に湯本・小田原方面への県道732号が見えます。
車道は畑宿に入ると狭くなり、1車線になっています。
畑宿の入り口
畑宿には寄木細工のお店がいくつもあります。
これは、あるお店の店先に置いてあった桂神代です。
寄木細工の材料の1つで、黒色系の有色材です。
このお店は2階が工房で見学もできるようですが、先を急ぎます。
(こればっか)
桂神代
畑宿の集落内も道はずっと上り坂です。
畑宿
300m行くと県道は右に急カーブを描いています。
歩行者は正面の木立の左脇へ入っていく事ができます。
ここで旧街道は畑宿を出ます。
畑宿の出口
県道から70m程でしょうか。畑宿の一里塚があります。
これは上方に向かって左側の塚です。
畑宿一里塚 左の塚
そしてこちらが右側の塚です。
畑宿一里塚 右の塚
あれ、確か程ヶ谷と戸塚の間にある品濃の一里塚の説明板に
両側の塚が残っているのは神奈川県内で唯一と書いてありましたよ。
ここはまだ神奈川県ですよね。
ここ畑宿の一里塚の説明板には
「石畳の両側に残る畑宿の一里塚は、江戸日本橋から二十三里目に当たり、
東海道中唯一その形態を留めるものです。」
と書かれています。県内どころか東海道中唯一だそうです。
とにかく、ここが日本橋から23里(90.3km)の一里塚です。
一里塚の間の道には石畳が敷かれ、森の中へ続いています。
一里塚付近の石畳
一里塚から100m、森の中の石畳ですが、両脇に欄干が見えます。
実はここ、県道732号を跨ぐ橋で、下から車の音が聞こえます。
県道732号を跨ぐ橋
この辺りの坂は西海子(さいかち)坂という名前です。
この写真は坂の上から下の方を向いて撮りましたが、
中央に左下から右上に向かって斜めの石の列があります。
これは画面外右側の谷へ向かって排水するための工夫です。
箱根の石畳のあちこちで見られますが、ここは特にわかり易いです。
石畳の排水溝
西海子坂は階段で県道に出て終わります。
西海子坂の出口
県道はここから「七曲り」と呼ばれる区間に入ります。
車道は長さ1.2km、10.1%の上り勾配で、途中2つの直角カーブを挟んで
11回のヘアピンカーブで樫の木平へ上っていきます。
歩道は石畳風になっています。
七曲りの石畳風歩道
1つ目のヘアピンを過ぎると、歩道は2つ目のヘアピンを通らず
この階段でショートカットです。
2つ目のヘアピンをショートカットする階段
その先、2つの右直角カーブを挟んで3つのヘアピンを通ります。
この間、県道732号は併走する箱根新道と3回交差します。
そして、4つ目のヘアピンカーブの所から左脇へ階段が出ています。
これこそ、箱根八里最大の難所と言われる橿木坂です。
橿木坂の入り口
坂と言っても現在は階段になっています。
新編相模国風土記稿には「峭崖に橿樹あり、故に名を得」とあるそうです。
それでは、脳内BGM「箱根八里」のリズムに合わせて上りましょう。
県道がヘアピンカーブで1往復して150m程の距離で上る高低差を
橿木坂はほんの30m程の階段で上ってしまいます。
そのまま次のヘアピンに沿って半分程進むと一旦県道に出ますが、
これで終わりではありません。
県道を10m進めばまた階段です。
橿木坂の続き
「東海道名所日記」には橿木坂について次のような記述があるそうです。
けわしきこと、道中一番の難所なり。おとこ、かくぞよみける。
「橿の木のさかをこゆれば、くるしくて、どんぐりほどの涙こぼるる」
それじゃ橿木坂じゃなくて椚坂です。
50m程階段を上ると分岐点に出ます。
橿木坂の始まりからここまでの130mで、高低差が40m程あるようです。
オフィスビル10層分を階段で上がったようなものです。
昔勤めていた職場では6階の仕事場まで階段で上がりましたが、
その前の職場で12階の事務室まで行くのはさすがにエレベーターでした。
右下には県道のヘアピンカーブが見えます。
まっすぐ階段を上れば樫の木平、左は目指す元箱根方面です。
階段を行けば樫の木平。左は元箱根。
私の行く道はもちろん左。先を急ぎましょう。
元箱根への道
30m程行くと右手に階段があり、見晴茶屋の看板が出ていました。
見晴茶屋への階段
そう言えば、お昼ご飯がまだです。やっぱり寄っていきましょう。
16:09 | カテゴリー:東海道スタンプラリー
2008年11月27日
【十】箱根アタック 其の三 割石坂・大澤坂編
発電所からの坂道を上って、また県道に出ました。
すぐ先に須雲川自然探勝歩道の続きが見えます。
県道に出た所
女転し坂が通れずしばし外れていた旧東海道に、ここで戻ります。
ここから始まるのが割石坂です。
割石坂の入り口
割石坂は、曾我兄弟の弟、五郎時致が、
仇討ちの前に路傍の巨石で刀の試し切りをしたことからこの名があります。
石なんか切ったら仇討ちの前に刃こぼれしてしまいそうですが、
どうやら仇は討ったようなので問題はなかったのでしょう。
大磯で虎御前の話をした時、曾我兄弟の仇討ちも話題に上りました。
曾我兄弟は父親の仇である工藤祐経を討ちましたが、
兄の十郎祐成はその場で斬り殺され、五郎も捕らえられました。
源頼朝は五郎の助命を考えていましたが、
工藤祐経の遺児に請われて結局は斬首を申し渡します。
この仇討ちというシステムは、仇を討つ事によって
今度は自分が仇になるという矛盾をはらんでいます。
しかし、それはあくまで現代人の考え方で、
当時の武士は特に矛盾など感じていなかったのかもしれません。
現代人の行いも、後の世の人々から見れば、
おかしな事が数多くあるのでしょうか。
割石坂は県道と並行して300m程続きます。
杉林の中に石畳が敷かれています。
割石坂
割石坂には一部江戸時代の石畳が残っています。
江戸時代の石畳
割石坂を抜けて再び県道に出る辺りに、かつて接待茶屋がありました。
接待茶屋は、旅人に無償で食事や飼葉を提供する施設です。
箱根峠を越えた先にも同様に接待茶屋がありました。
割石坂の出口
割石坂から出て県道を少し歩くと、左側に大澤坂の入り口があります。
大澤坂の入り口
大澤坂は、いきなり急な下り坂で始まります。
急な下り坂
坂を下りきると、大沢川に板橋が架かっています。
さっきまで街道ウォーカーだった私が、急にトレッカーになっていました。
大沢川を渡る
橋を渡ると上りです。
途中、石畳が一部崩れて段差になっている所がありました。
こうしてみると、かなりの厚みがあります。
重機の無かった時代、箱根八里を延々と続いて行く石畳の建設には
多大な労力を要したはずです。
崩れて段差になった石畳
鳥居忱作詞、滝廉太郎作曲の「箱根八里」の一節に
「羊腸の小径は苔滑らか」とあります。
大澤坂は正にその通りで、羊の腸の如くぐねぐねと曲がった小道を行けば、
敷かれた石畳は苔むし、つるつる滑って足を取られます。しかもかなり急です。
大澤坂は別名「座頭転ばし」
なんでここだけこんななのか。
それと、こんな所に座頭が来るのか。
出口が見えてきました
板橋から300m程で大澤坂の出口です。
最後の石段を上がるとまた県道。そして、集落があります。
ここで大澤坂は終わり
畑宿です。
畑宿に入る
一休みしましょうか。
06:12 | カテゴリー:東海道スタンプラリー
2008年11月26日
【十】箱根アタック 其の二 須雲川編
箱根観音の所で石畳は終わり、再び県道732号を行きます。
この辺りは2車線で、石畳に入る前の温泉街より歩き易くなっています。
県道732号
400m程県道の坂道を上ると、ホテル南風荘の入り口の所に、
「観音坂」と書かれた石碑が建っています。
先程の箱根観音に因んだ名前でしょう。
観音坂の石碑
そこからさらに400m程歩いたでしょうか。
今度は「葛原坂」の説明板がありました。
「新編相模国風土記稿」には大雑把な記述しかないようで、
観音坂との境界は不明です。
今もこの辺りは葛の葉が生い茂っていると説明板には書かれていますが、
残念ながら私にはどれが葛の葉かわかりません。
秋になれば花が咲いてわかるのかもしれませんが、
私がここを歩いたのは残暑厳しい9月上旬でした。
この辺りが葛原坂のようです。
葛原坂から箱根新道の須雲川インターチェンジまでは800m程でしょうか。
その辺りから須雲川の集落が始まります。
飲み物の自動販売機があったので、麦茶を買って一休みしました。
今歩いている箱根八里は山道ですから、
もともと沿道の人口は少なかったはずです。
しかし、過疎地では幹線道路の維持・運営は困難ですから、
周辺住民を強制的に移住させ、沿道に適当な間隔で集落が設けられました。
この須雲川もそういう事情で寛永年間(1624-1643)にできたそうです。
さらに進むこと600m、集落の終わりに鎖雲寺があります。
鎖雲寺入り口にある霊泉の滝
鎖雲寺には、「箱根霊験躄仇討(はこねれいけんいざりのあだうち)」の
勝五郎と初花の墓があります。
「箱根霊験躄仇討」は飯沼勝五郎という人物の仇討ちを題材にした浄瑠璃です。
兄の仇討ちをしようとしていた勝五郎は病気で足腰が立たなくなり、
妻の初花の介助を受けながら仇を探して旅を続けます。
そしてついに、兄を殺した侍、佐藤剛助に出会うのですが、
足腰立たない勝五郎に代わり、初花が佐藤に勝負を挑みます。
従者の筆助も助太刀しますが、哀れ初花は返り討ちにあいます。
しかし、ここで奇跡が起きます。
足腰立たないはずの勝五郎が思わず満身の力を込めると
急に立ち上がることができるようになりました。
そして、自力で兄と妻の仇を討ってめでたしめでたし‥‥という話です。
その仇討ちの場所は、先程通り過ぎた
箱根新道の須雲川インターチェンジ付近だそうです。
鎖雲寺
ちょっといい話ですが、今は郵便局の閉まる時間が気になるので
先を急ぐことにします。
鎖雲時から150m程行くと須雲川橋があります。
下を流れるのは勿論、早川の支流、須雲川です。
須雲川橋
橋を渡った先で県道は右へ曲がっています。
旧東海道は、橋の先で右へ行かず、まっすぐ進みます。
そこから始まるのが「女転し坂」です。
この坂はネット上の色々なサイトで紹介されていますが、
女「ころがし」坂なのか、女「ころばし」坂なのか、
正しい読みがわかりません。
この少し先にある説明板の振り仮名は女「ころし」坂になっているようです。
女転し坂の石碑
馬に乗った女性がこの坂で落馬して死んだことから名付けられたそうですが、
ここから、当時の女性は社会的地位が低かったというか、
世の人々が女性というものをどう意識していたかが何となく伺えます。
落馬したのが男性なら「男転し坂」ではなく、その人の名前が使われるでしょう。
そう言えば、保土ヶ谷には権太坂がありましたね。
女転し坂は現在通行できません。
関東大震災で崩落して通れなくなったという話も聞きますが、
現在その辺りは私有地になっているようです。
県道を進むこともできますが、私は須雲川自然探勝歩道を歩くことにしました。
この道は須雲川橋の手前から始まります。
須雲川自然探勝歩道の入り口
道はしばらく杉林の中を進んで行きます。
本来は山林の管理用の道なんですね。
杉林の中を行く
途中、飛び石で沢を渡る所がありました。(今は水がありませんが)
この道は歩き易く整備され遠足気分で気楽に歩けます。
飛び石で沢を渡る
500m程歩いたでしょうか。道はやがて東京電力三枚橋発電所に至り、
沈砂池を3つの板橋で渡ります。
三枚橋発電所
橋は、岩の上に板を渡しただけです。
板橋
板橋の先の坂を上がると舗装道路に出ます。
発電所の管理用車輌が出入りする道です。この坂をさらに上っていきます。
発電所管理用道路
上り切ったら県道に戻りました。ピクニック気分でしたね。
坂を上ると県道
箱根路の旅はまだまだ続きます。
07:12 | カテゴリー:東海道スタンプラリー
2008年11月25日
【十】箱根アタック 其の一 湯本編
箱根登山鉄道の入生田踏切を過ぎ、箱根町に入りました。
踏切のすぐ先に駒留橋という小さな橋があるのですが、
後で調べたらここが小田原市と箱根町の境界のようです。
踏切から100m程で国道1号に合流しますが、
その少し手前に日本初の有料道路の説明があります。
それによれば、先程通った板橋からこの先の湯本まで、
4.1kmの有料道路が1875年に開通したそうです。
と言っても全く新規に道を造ったわけではなく、江戸時代の東海道の幅を拡げ、
2箇所の急坂を勾配の緩い坂に付け替えて、人力車等が通り易くしたものです。
開通から5年間、人力車1銭、大八車7厘、小車3厘の通行量が徴収されました。
実は、これより古い江戸時代にも有料道路は存在していたようです。
大分県にある長さ342mのトンネル「青の洞門」は1763年開通で、
当初は通行料を徴収したという話が伝わっています。
箱根の方は、我々が「有料道路」という言葉から連想する
近代の有料道路として最初の物ということでしょう。
国道1号に合流
国道1号に合流後、わずか130mで旧東街道は再び右へ分岐します。
右の細い道が旧東海道
でも600m弱でまた国道1号に戻ります。
また国道1号に戻る
国道の右上を箱根登山鉄道の線路が通っています。
箱根登山鉄道。電車は小田急8000形。
左側の歩道に大名行列をモチーフにした柵があります。
大名行列の柵
合流から450mで三枚橋交差点です。
この交差点から左へ、神奈川県道732号湯本元箱根線が始まります。
湯本からまっすぐ芦ノ湖を目指し、湖畔で再び国道1号に合流する道です。
ここから暫くこの道が旧東海道です。
ちなみに直進すると箱根登山鉄道の箱根湯本駅です。
三枚橋交差点
三枚橋交差点から県道に入るとすぐに、三枚橋で早川を渡ります。
早川は芦ノ湖を水源とし、小田原城の南1km程の所で太平洋に注ぐ川です。
小田原宿の上方見附からここまで早川の左岸を歩いて来ました。
三枚橋
三枚橋を渡ると温泉街へと続く上り坂が始まります。
この坂の途中、三枚橋から350mの所に箱根湯本郵便局があります。
宿場はまだ先ですが、ここでも風景印を押してもらいましょう。
箱根湯本郵便局
箱根湯本郵便局の風景印
箱根湯本郵便局の風景印は湯本温泉郷です。
今回はかもめ~る(ラジオ体操)を使用しました。
郵便局の先、湯本小学校の脇を通り過ぎると、
左手に白山神社、右手に早雲寺があります。
この辺りから温泉旅館が目立つようになります。
道は狭いのですが車が多く、路線バスや旅館の送迎バスも頻繁に通ります。
郵便局から600m程の所にある正眼寺は、
大磯で話題に上った曾我兄弟ゆかりのお寺です。
正眼寺の入り口。右の柱に「曾我兄弟遺跡」と書かれています。
いろいろ見たい気もしますが、この先の山道が心配です。
夕方までに箱根の関に着けるよう先を急ぎます。
正眼寺の少し先に江戸から22里の一里塚があるのですが見落としました。
その先すぐ、台の茶屋というバス停を過ぎると、
ちょっとわかりづらいのですが右下へ下りていく道があります。
旧東海道はここを右です。
台の茶屋分岐点。この先石畳。
坂を下りると石畳が始まります。
土がむき出しの山道は、雨や雪の後は大変な悪路になり、
旅人は膝まで泥に沈みながら歩いたといいます。
やがて歩き易くするために竹を敷くようになりましたが、
毎年敷き替えなければならず、費用も労力も馬鹿にならないので、
耐久性の高い舗装として1680年に石畳が敷かれました。
林の中へと続く石畳
現在残っている部分や昭和時代に復元された部分だけでも、
箱根の石畳の総延長はかなりの長さになると思います。
また、場所によって完成度に差があるので、
恐らく一度に全部が整備されたわけではないでしょう。
この台の茶屋付近の石畳は
玄関へのアプローチなどに使われる飛び石を密集させたような感じで、
ごつごつして歩きにくいです。
坂を下り切ると、小さな橋で猿沢を渡ります。
猿沢はこのすぐ近くで、早川の支流、須雲川に注いでいます。
猿沢を渡る猿橋
石畳の入り口にある解説板によると、ここの石畳は延長255mとのことです。
橋を渡ると上り坂で、再び県道に合流します。
石畳出口
合流地点に福寿院(箱根観音)がありますが、失礼して先を急ぎます。
13:40 | カテゴリー:東海道スタンプラリー