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2008年9月19日
【九】小田原町名巡り 其の四
板橋の集落
板橋見附交差点で国道1号から離れると、板橋の集落に入ります。
車道は2車線。石畳をイメージした歩道に、
側溝の蓋でしょうか、和風の模様が付いています。
石畳をイメージした歩道
700m程行くと箱根登山鉄道の線路をくぐり、上板橋交差点に出ます。
ここでまた国道1号に合流です。
箱根登山鉄道の下をくぐると上板橋交差点
国道1号は早川の左岸を通ります。右岸には西湘バイパスが通ります。
国道から早川の対岸を見ると、山の中腹に箱根ターンパイクが見えました。
箱根ターンパイク
西湘バイパスから直結しているので
旧道路公団系のNEXCOが管理すると思いきや、
実は箱根ターンパイク株式会社という民間企業が管理する「私道」です。
元は東急系の会社でしたが、現在は外資系ファンドが出資しているそうです。
東洋ゴム工業が命名権を取得し、
2007年3月から「TOYO TIRES ターンパイク」という名前になりました。
でも、箱根ターンパイクの方が言いやすいので、定着するかちょっと疑問です。
ネーミングライツは競技場や文化施設にはよく見られますが、
道路はこれが日本初だそうです。
命名権も調べてみると色々あるようで、
路面電車の停留所や、サッカー場のゲートだけ、果ては映画の題名まで
これから考え得る限りの命名権が売買されることでしょう。
「東海道スタンプラリー」も誰か買ってくれませんかねぇ。
宿場53箇所に日本橋と三条大橋を加えて55箇所、
交通費を大雑把に1箇所1万円として、55万円でどうでしょう。
国道を進むこと700m、小田原厚木道路が頭上を越えて行く辺りで踏切を渡り、
再び箱根登山鉄道の北側に出ます。
踏切を渡ると、道が右上と左下に分かれています。旧東海道は左下です。
箱根登山鉄道の踏切
また静かな住宅街に入ります。風祭(かざまつり)の集落です。
今度は車道が1車線です。
風祭の集落
900m程で、今度は入生田(いりうだ)の集落です。
さらに550m、入生田駅の先にある入生田踏切を渡ります。
入生田踏切
入生田駅と箱根湯本駅の間はレールが3本敷かれています。
箱根登山鉄道の軌間(左右のレールの間の幅)は、箱根湯本駅を境に
小田原側が小田急と同じ1067mm、
強羅側が新幹線と同じ1435mmになっています。
小田原側は小田急の電車、強羅側は箱根登山の電車が走りますが、
入生田と箱根湯本の間だけは両方の電車が走れるようにレールが3本あります。
小田急の電車は右から2番目と左端のレールを使い、
箱根登山の電車は外側の2本を使います。
入生田踏切から入生田駅を望む。レールが3本あります。
箱根登山鉄道はもともと小田急と無関係だったため
自社の都合で軌間を決めて建設されました。
ところが、1948年に小田急の傘下に入り、
小田原-箱根湯本間は小田急の電車が乗り入れることになりました。
一方、箱根湯本-強羅間は急坂や急カーブが続くため、
専用設計の自社車輌でなければ運行できません。
入生田踏切を通る小田急電鉄5000形。
そこで、小田原-箱根湯本間だけ両方の電車が走れるように
レールを3本敷いて対応しました。
また、架線の電圧も小田急が1500V、箱根登山が600Vと異なっていました。
架線は2本張るわけにはいかないので、
小田原-箱根湯本間は小田急に合わせて1500Vに変更し、
箱根登山の電車を両方の電圧に対応できるよう改造しました。
なお、1993年から箱根湯本-強羅間の電圧は750Vになっています。
箱根登山鉄道の軌間と架線電圧。
赤線は自社車輌、青線は小田急車輌が走る区間です。
輸送力増強とバリアフリーへの対応のため、2006年3月から
小田原-箱根湯本間の列車は全て小田急の電車で運行されています。
そのため3本レールは普通の2本レールに変えられましたが、
車庫が入生田にあるので、入生田-箱根湯本間だけは
3本レールが残されているというわけです。
箱根登山鉄道1000形。1986年強羅駅で撮影。
行先表示が小田原になっています。現在は小田原まで行きません。
芙蓉
芙蓉の花が咲いています。
富士山のことを「芙蓉峰」とも言いますが、まだこの旅で富士山は見えません。
箱根町に入る
入生田踏切から100m程の所で小田原市から箱根町に入ります。
小田原市内の歩行距離は約12.7kmでした。
もう100m進むとまた国道1号に合流します。
11:10 | カテゴリー:東海道スタンプラリー
2008年9月18日
【九】小田原町名巡り 其の三
本町交差点です。
前回はここを右に曲り、小田原郵便局に寄ってから小田原駅へ行きましたが、
今回は直進して箱根を目指します。
本町交差点
中宿(なかじゅく)町です。高梨町とともに問屋場があり、10日交替で勤めました。
中宿町
五色唐辛子の鉢植えがありました。
次は欄干橋町です。
町内から小田原城内へ架けられていた橋の名が町名の由来と言われています。
この辺り、東海道は小田原城の南150m程の所を通っています。
欄干橋町
欄干橋町にあるお城のような建物は「ういろう」です。
元来は小田原名物の万能薬「透頂香(とうちんこう)」を売る薬局です。
現在、透頂香は薬剤師と相談の上、
効能に合う症状と判断された場合のみ購入できます。
一方お菓子の「ういろう」は、元は薬局で来客用に出していたもので、
明治以降は一般向けに販売するようになりました。
もちろん現在も誰でも買うことができます。
愛知県人の私は、ういろうは名古屋のものだと思っているので無視です。
(嘘です。朝早くて開店前でした)
ういろう
続いて筋違橋町です。
ここから南へ安斎小路、狩野殿小路、諸白小路が延び、
小路沿いに武家屋敷が並んでいたそうです。
それぞれの道の名は現在も残り、諸白小路はバス停の名前にもなっています。
筋違橋町
本町交差点から1km弱、早川口交差点です。
国道の上をJR東海道本線と箱根登山鉄道が並んで跨ぎます。
早川口交差点。箱根登山鉄道の線路を小田急ロマンスカー(10000形HiSE)が通過中。
かつてここから熱海まで、豆相人車鉄道が延びていました。
人車鉄道とは、客車を人の力で押す鉄道版人力車です。
1895年から1900年にかけて小田原-熱海間25.3kmが建設されました。
片道3時間50分で運行したといいますから、平均速度は6.6km/hです。
自転車くらいの速さでしょうか。歩くよりは速いですね。
人力で押すわけですから、客車は数人しか乗れない小さなものですが、
国鉄並に上等、中等、下等の3グレードに分かれていました。
下等に乗ると線内随一の急坂で降ろされ、客車押しを手伝わされたそうです。
1907年には蒸気機関車による運行になりましたが、
1923年の関東大震災で運行不能になり、そのまま廃止されました。
線路の下をくぐると、御組長屋(おくみながや)です。
ここは城下町の入口なので、
鉄砲や弓を扱う組の者が住む長屋が設けられていました。
江戸方見附付近や、井細田口(現在の小田原駅北東酒匂川沿い)にも
同様の長屋がありましたが、地名になったのはここだけです。
御組長屋
以上、街道沿いに昔の地名をざっと見て来ました。
それぞれをもっと詳しく見て回れば、城下町の機能がよくわかることでしょう。
早川口交差点から170m、板橋見附交差点で小田原宿は終わりです。
向こうに新幹線の線路が見えますが、ここはくぐらず右に曲がります。
板橋見附交差点。こだま537号新大阪行きが通過中。
もう少しで小田原市を出ます。
13:25 | カテゴリー:東海道スタンプラリー
2008年9月17日
【九】小田原町名巡り 其の二
これより小田原宿
小田原宿に入りました。
「相模国風土記稿」によれば、江戸方見附の外、南側に
日本橋から20里(78.5km)の一里塚もあったそうです。
現在は両方の名称を刻んだ1基の石碑があるだけです。
江戸口見附並びに一里塚跡
江戸方見附跡から450m、新宿(しんしゅく)交差点で、
旧東海道は左に曲がります。
新宿町は江戸時代前期、それまでの城塞都市の構造を改めて
東海道のルートを変更した際にできた町だそうです。
新宿交差点。直進する広い道は国道1号。旧東海道は左。
新宿町から鍋町へ向かう道。アジサイが咲いています。
新宿交差点から70m程の所に「鍋町」の標識があります。
その名の通り、鍋などを作る鋳物師が住んでいた町といわれています。
鍋町
旧東海道は鍋町の標識のすぐ先を右に曲がります。
今度の町名は「万町」と書いて「よろっちょう」と読みます。
紀州藩の飛脚継立所があった場所だそうです。
万町
小田原おでんのお店がありました。
名産のかまぼこの売り上げが減少傾向にある中、
地元の食材を生かした新名物として小田原おでんが考案されました。
からしは使わず、小田原名産の梅を使った梅みそをつけて食べるのだとか。
小田原おでんのお店
次は「高梨町」です。
ここは甲州道の分岐点で、町内には問屋場も置かれていました。
高梨町
その次は「宮前町(みやのまえちょう)」です。
ここには高札場、本陣、脇本陣があり宿場の中心でした。
宮前町
宮前町の清水金左衛門本陣があった場所に
「明治天皇宮ノ前行在所跡」の碑があります。
明治天皇はここに5回宿泊しています。
「明治天皇宮ノ前行在所跡」の碑。
碑面には「明治天皇小田原行在所址」と刻まれています。
その先の本町交差点で、右から国道1号が合流します。
そこにある古い建物は「小田原宿なりわい交流館」です。
1932年に建てられ、元は網問屋だったものを改装し、
2001年から無料休憩所や市民活動の発表の場として活用されています。
残念ながら私は時間の都合で寄れませんでした。
小田原宿なりわい交流館
旧東海道は国道1号と合流して本町交差点を直進しますが、
その前に郵便局に寄るためここを右折します。
470m程歩くと小田原郵便局があります。
小田原郵便局
小田原郵便局の風景印
小田原郵便局の風景印は小田原城と梅です。
切手は小田原城の天守閣です。
大磯から歩いて来たこの日はここで一旦帰宅することにして、
郵便局のさらに先にある小田原駅へ向かいました。
続きは回を改めて話すことにしましょう。
16:06 | カテゴリー:東海道スタンプラリー
2008年9月16日
【九】小田原町名巡り 其の一
これより小田原市
小田原市に入ると、程なく下り坂になります。車坂です。
左手には海が見えます。
車坂から見える海
街道沿いの民家のプランターボックスにアルストロメリアが咲いていました。
初夏の花です。
アルストロメリア
マンホールの蓋に酒匂川の渡しの絵がありました。
マンホールの蓋
小田原市に入ってから2.2km、国府津駅前交差点を右へはいると、
JR国府津(こうづ)駅があります。
昔の官庁のような4階建ての建物で、2階から上は商業施設ではなく
全てJRのオフィスになっています。
国府津駅
国府津は東海道本線と御殿場線の分岐点です。
御殿場線は箱根山の北側を通り、
御殿場経由で沼津に至る東海道本線のバイパスです。
東海道本線は熱海までJR東日本ですが、御殿場線は全線がJR東海です。
御殿場線の313系電車。JR東海の車輌です。
御殿場線では長らく国鉄から引き継いだ115系電車が使われていましたが、
2007年までに名古屋地区と同じ313系に替わりました。
東海道本線の電車は車体に緑とオレンジの線が入っていますが、
313系はJR東海のコーポレートカラーであるオレンジの線だけです。
このほかに東海道本線でも見られる211系も走っています。
国府津駅開業100周年記念碑
1889年の開通当時、御殿場線は東海道本線の一部でした。
この区間は勾配がきついため、列車の後ろに補助機関車を連結し、
2台の機関車で運行していました。
それでも、機関車が非力だった明治時代は、
東京(新橋)から来た急行列車は国府津で補助機関車を連結すると同時に、
食堂車を切り離して身を軽くしてから箱根越えに挑んだといいます。
現在の御殿場線区間が開通する直前の1888年、
国府津-小田原-湯本間に小田原馬車鉄道が開業しました。
馬車鉄道とは列車のようにレールの上を走る馬車で、
電車が普及するまでは東京などの大都市でも見られました。
小田原馬車鉄道は現在小田原-箱根湯本-強羅間で電車を運行する
箱根登山鉄道の前身です。
1934年、熱海と三島を結ぶ丹那トンネルが開通し、
東海道本線は小田原、熱海経由の新ルートになりました。
一里塚バス停
国府津駅前交差点から1.2km程行くと、「一里塚」というバス停があります。
ここは江戸から19里(74.6km)、小八幡の一里塚があった場所ですが、
今は説明板が立っているだけです。
松並木
その先に松並木がありました。
箱根まで11km、沼津まで45km、静岡まで100km。まだまだ先は長いです。
一里塚から2.2km、酒匂川を渡ります。
現在は酒匂橋が架かっていますが、江戸時代は徒(かち)渡しでした。
(冬季は仮橋あり)
当時の道は、江戸方は現在の橋の袂辺りに来ていたようですが、
上方は橋の袂より約100m上流だったようです。
酒匂橋の東京側から、対岸の旧街道始点を望む。
現在の酒匂橋は1973年に架けられました。
旧街道上方始点付近からみた酒匂橋
酒匂橋を渡って200m余り、旧東海道は城東高校前交差点を左に曲がります。
なお、ここを右に曲がると、先程の徒渡しから続く部分に行けます。
城東高校前交差点
城東高校前交差点を左折したら、すぐに次の角を右折です。
そこから暫く静かな住宅街を抜けていきます。
城東高校前交差点から200m、常剱寺入口交差点で、
酒匂橋から続く国道1号と合流します。
常剱寺入口交差点
そして、そこから国道を進むこと800m、ようやく小田原宿に入ります。
20:34 | カテゴリー:東海道スタンプラリー