2008年8月14日
【番外】ガラスの二宮 後編
二宮駅前にある「ガラスのうさぎ」の敏子の像です。
ガラスのうさぎの像
1945年8月5日、東海道本線二宮駅が機銃掃射を受けましたが、
「ガラスのうさぎ」では、この機銃掃射で敏子の父親が死亡します。
遺体を荼毘に付すため、敏子は東海道の松並木を荷車で小田原まで往復します。
二宮駅付近の国道1号を通ったかどうかわかりませんが、
駅を過ぎた辺りで松の木が散見されます。
二宮駅付近の松の木
二宮駅入口交差点から800m余り、吾妻神社入口交差点で、
旧東海道は右に分かれます。
吾妻神社入口交差点。右が旧東海道です。
400m先の山西交差点でまた国道に戻ります。
高い櫓があります。
山西交差点
山西交差点から460m、川匂神社入口交差点のすぐ手前で、
今度は左に旧東海道が分岐します。
川匂神社交差点付近。左が旧東海道です。
ここは日本橋から18番目の一里塚があった場所です。
塚自体は現存せず、碑が建てられています。
二宮の一里塚跡
大磯から小田原までは15.6kmも離れています。
宮-桑名間の海上七里を除くと、
小田原-箱根間16.5km、見附-浜松間16.4kmに次いで3番目に長い区間です。
この辺りには梅沢の立場が設けられていましたが、
本来立場には無いはずの本陣や旅籠があり、実質的には宿場だったそうです。
実は一里塚跡の少し先、民家の敷地内に本陣跡の碑が建っているのですが、
住人らしき方がいたので撮影は遠慮しました。
そこを過ぎると押切坂を下ります。坂が終わると国道に合流です。
国道を離れた部分は300m程でした。
押切坂が終わると国道に合流します。
国道に合流して100m、中村川に架かる押切橋を渡ります。
押切橋
橋の袂から左を見ると、西湘バイパス越しに海が見えます。
押切橋を渡ると小田原市に入ります。
西湘バイパス越しに海が見えます。
ところが、この辺りは境界線が入り組んでおり、
120m程進むと、また二宮町に戻ってしまいます。
さらに180mほど進むと、西湘バイパスの橘インターチェンジの近くで
再び小田原市に入ります。
二宮町内の歩行距離は約3.3kmでした。
あとはずっと小田原市です。でも小田原宿はまだ先です。
<後日談>
二宮駅に機銃掃射の弾痕が残っていると聞いて見に行きました。
駅舎は1982年に改築されましたが、
ホームの屋根に太平洋戦争当時から残っている部分があるのだそうです。
二宮駅ホームの古い屋根が残る部分。電車は横須賀線から移籍したE217系。
同駅のホームの屋根の大部分は、中央が低く両脇が高いV字形の断面ですが、
東京方の階段からホームへ下りた辺りに、
中央が高い「へ」の字形断面の屋根が付いている部分があります。
ここが古い屋根です。
画面両脇の柱を境に手前はVの字形、奥はへの字形の屋根。
画面中央の自動販売機から奥はまた新しい屋根になっている。
この部分の木製の梁をよく見ると、弾痕と思しき大きな傷が数箇所ありました。
小田原方面の列車が来る1番線。○印部分に弾痕。
電車は最新型E233系の普通小田原行き。
○印部分の弾痕のアップ。
東京方面の列車が来る2番線。○印部分に弾痕。
○印部分の弾痕のアップ。
恐怖の瞬間の痕跡は、わずかですが残っていました。
08:09 | カテゴリー:東海道スタンプラリー
2008年8月13日
【番外】ガラスの二宮 前編
大磯町を過ぎると、次は二宮町です。
大磯町の次は二宮町。松並木の中にアジサイが咲いています。
二宮町に入るとすぐに、郵便マークの付いた大きな建物が見えました。
二宮郵便局です。
ここは宿場町ではないので予定外ですが、折角なので寄って行きましょう。
二宮郵便局
二宮郵便局の風景印
二宮郵便局の風景印は、二宮駅前にあるガラスのうさぎの像です。
今回はかもめ~る(あさがお)を使用しました。
二宮町に入ってから郵便局まで300m。
そこから650m先の交差点を右に曲がると、JRの二宮駅です。
二宮駅
人口約3万人、これといった産業もない二宮町で
「ガラスのうさぎ」は唯一全国的に知られているものと言えるでしょう。
この作品は過去何回か映像化されていますが、
1980年8月から9月にかけてNHKの銀河テレビ小説で放映された時は
私も見ていました。
その中で1つ、よく覚えている場面があります。
戦争も次第に敗色が漂い始めた昭和18年。
女の子用の下着類も入手困難になり、物語の主人公敏子は、
兄のお下がりのランニングシャツを着なければならなくなりました。
しかし、小学5年生の女の子がそれをそのまま着るのは恥ずかしいので、
左胸に小さな花の刺繍をして、少しでも女の子らしくなるよう工夫しました。
ところが、学校で体育の時間に着替えをしている時、
この非常時に花など刺繍して恥ずかしくないのか、今すぐほどきなさいと
担任の先生から大きな声で叱られます。
敏子は泣きながら震える手で刺繍をほどこうとするのですが、
急げば急ぐほどうまくほどけず、
結局刺繍をした部分をそっくり切り抜いてしまいます。
原作では刺繍の部分を切り抜いた所でこの場の事は終わり、
放課後母親が先生に呼び出される話に移るのですが、
ドラマでは、ほどけと言ったのになぜ布地ごと切り抜いたのだと
もう一度先生に叱られます。
私はこの場面は覚えていたものの、他の場面はほぼ全て記憶になく、
それどころかこれが
「ガラスのうさぎ」の一場面だという事まで忘れていました。
この場面は原作の最初の章に書かれています。
全体から見れば、話の本題に入る前に、
当時の社会情勢を説明するために語られたエピソードに過ぎません。
それをはっきり覚えているのは、
当時私がこの場面を非常に腹立たしい思いで見ていたからです。
改めて原作を見てみると、この最初の章は、
「ちいさな事件ではない」と題されています。
ドラマの放映当時小学4年生だった私には、
小学生同士、直感的に理解できるものがあったのかもしれません。
戦争文学というものは、こうして事実を伝えてくれれば十分です。
何が正しいとか間違っているとか、余計なことは言わなくても
答は自明です。
しかし残念ながら、このような戦争の悲惨さを伝える作品は、
戦争に対する抑止力としてはほとんど効果がありません。
なぜなら、実際に戦争を始めるか否かを決める立場にある人たちは、
戦争が始まっても悲惨さとは直接関わらずに生活できるからです。
屠殺場を覗かなければ肉を食べられるとか、
殺処分施設を見なければ犬や猫を平気で捨てられるとか、
そういうのと似ていますね。
以前、ある政治家が若者を対象に講演を行った際、
戦術核兵器の保有や使用は憲法違反ではないというような事を言ったそうです。
しかし、違憲か合憲かはさておき、専守防衛の日本の自衛隊で、
一体この人は核兵器を何に使う気でいたのでしょうか。
核兵器は基本的には抑止力として使う兵器です。
日本が戦術核兵器を持った場合、主な標的となるのはやはりあの国でしょう。
しかし、あの国に核爆弾を撃ち込もうものなら、
隣接する2つの国が黙っているはずもなく、結局使えません。
核なんか持っていてもどうせ使えないだろうと、
あの国からなめられるのが関の山です。
それなら通常兵器を配備した方がよっぽど抑止力になります。
冷戦時代、アメリカは核兵器のハッタリ効果を「核の傘」と称していましたが、
実際は戦略核兵器の恐怖の陰で通常兵器による小規模の戦闘が続き、
戦術核兵器は結局十分に効果を発揮できませんでした。
そんな使えない物を今から持ってどうするのか。
昭和ノスタルジーで核兵器など持たないで頂きたい。
件の政治家は、後にしきりに北朝鮮の拉致問題を取り上げていました。
もちろんそれは重要な問題ですが、どうもこの人が動くと、
核武装の口実となる仮想敵国が欲しいのではないかと邪推してしまいます。
もし本当にそうだとしたら、我々はとんだ食わせ者を
国のトップに祭り上げてしまっていたことになります。
「愛国心」とか「改憲」とか、決しておかしな言葉ではないのに、
この人が言うと妙にきな臭く感じられましたから、
ある日突然勝手に辞めてくれてほっとしました。
さて、ガラスのうさぎから随分と話が飛んでしまいました。
そもそも敏子がお下がりのランニングシャツにに刺繍をしたのも
二宮ではなく東京にいた時の話です。
そろそろ東海道の旅に戻りましょう。
12:42 | カテゴリー:東海道スタンプラリー