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2008年5月25日

【四】程ヶ谷は細長い谷 中編

広重の浮世絵に描かれた橋がかつてあった場所だという公園を通り抜けます。
公園内で道は左に曲がり、西区以来の環状1号に合流します。
なお、この公園の右脇から延びる細い道を
旧東海道とする資料もあるようですが、
今回は保土ヶ谷区設置の案内板に従い環状1号を歩きました。

公園から環状1号へ
公園から環状1号へ

途中、素敵な古い建物をいくつかみつけました。

旧東海道程ヶ谷宿内の古い建物

旧東海道程ヶ谷宿内の古い建物

帷子会館

通りはやがて緩く左へ曲がりJR保土ヶ谷駅へ至りますが、
旧東海道は曲がらずまっすぐ分岐する細い道を進みます。

旧東海道と保土ヶ谷駅方面の分岐点
旧東海道と保土ヶ谷駅方面の分岐点

分岐点にあるお店のシャッターに昭和の香りのキャラクター。
今ここで営業しているのは食べ物屋さんなのですが、
この絵は電気屋さんのマスコットだったような気がします。

昭和の香りのキャラクター
昭和の香りのキャラクター

ここから300m程の間に助郷会所、問屋場、高札場の跡がありますが、
全て解説が書かれた標柱のみで、現在は何も残っていません。

東海道本線の踏切
JRの踏切。横須賀線の電車が通過中。

その先に踏切があります。
東海道本線と横須賀線の電車がひっきりなしに通過します。
この踏切の辺りから町名が保土ヶ谷町になります。
保土ヶ谷町は長さ1.6km、幅は広い所でも150m程の細長い地域です。
この辺りは今井川によって削られてできた谷で、
旧東海道もその今井川に沿っています。

保土ヶ谷の地名の由来は諸説ありますが、民俗学者の柳田国男は、
この地形が女性の陰部(=ほと)に似ているからという説を発表しています。
私は不勉強で、この説を肯定する事も否定する事もできませんが、
この地形が女性の陰部に似ているとすれば、
まっすぐな谷はみんな保土ヶ谷になってしまいそうな気がします。

ただ、これに関連してちょっと面白い話があります。
程ヶ谷宿に入った所に帷子橋という橋がありました。
帷子は裏地のない和服の総称ですが、下着と解釈する事もできます。
だから「程ヶ谷宿の帷子橋」と来れば、一体どんな橋かと興味が沸くわけで、
それ故帷子橋は多くの浮世絵に描かれたのではないかというのです。
これは私のサイトと相互リンクして頂いている伊達゛百一さんのブログ
「東海道を旅しよう! 霊柩車編」で述べられている事です。
実際の由来がどうであれ、
保土ヶ谷という地名から女性の陰部を連想する事は可能ですからね。

以前から広告でしばしば使われる手法に、
セックス或いは死を連想させる物を画像内に隠しておき、
見る人の潜在意識に訴えるというものがあります。
例えば、煙草の箱に描かれた動物の顔に
よく見ると男女の性器に見える部分があるとか、
水割りのグラスに入った氷の一つが向きを変えると髑髏に見えるとか、
そういう広告が実際にあったようです。
「程ヶ谷宿の帷子橋」はこれより露骨な手法ですが、
たかだか400年程度では人間の心理は変わらないのでしょう。

本陣跡
本陣跡。通用門のみ残っています。旧東海道はここを右へ。

踏切を過ぎると、今度は神奈川宿青木橋以来の国道1号に突き当たります。
そこにあるのが本陣跡です。
塀の中に当時の通用門のみ残っていますが、公開はされていません。
旧東海道はここで国道1号に合流し、右に曲がります。

本金子屋跡
本金子屋跡。伝・明治2年建築。

立派な建物があるので近付いてみたら、本金子屋という旅籠の跡でした。
江戸時代から営業していたようですが、
この建物は1869(明治2)年に建てられたと伝えられているそうです。
今は営業していません。

上方見附・一里塚跡
上方見附・一里塚跡。昭和初期までこの付近にも松並木があったそうです。

上方見附は本陣跡から600m程でしょうか。
同じ場所に一里塚跡もあります。日本橋から8里です。
今はいずれも残っていませんが、松を植えるなどして雰囲気を出しています。
これで一応程ヶ谷宿は終わりなのですが、
ここは1648年の東海道ルート変更に伴い江戸方に移転した宿場の終わりです。
それ以前はこの先権太坂の手前までの元町と呼ばれる地域に
宿場があったとされています。

上方見附・一里塚跡のすぐ先で国道1号は左へ少しそれます。
そこから別れてまっすぐ進む細い道が旧東海道です。
500m余り進むと横浜保土ヶ谷三郵便局があります。
今回はここで風景印をもらいます。

横浜保土ヶ谷三郵便局
横浜保土ヶ谷三郵便局

横浜保土ヶ谷三郵便局の風景印
横浜保土ヶ谷三郵便局の風景印

横浜保土ヶ谷三郵便局の風景印は境木地蔵と権太坂だそうです。
切手は「神奈川県の花」のヤマユリです。
ヤマユリは県の花に指定されています。

郵便局から200mほど進むと突き当たりに出ます。元町ガード交差点です。
右に東海道本線のガードがあります。
旧東海道は左折です。その先は緩い上り坂で、すぐに元町橋があります。
渡ると右手に庚申塔があります。橋の手前までが昔の宿場町でしょうか。

元町の庚申塔
元町の庚申塔

橋の袂に元町についての解説がありました。
それによると、元町辺りに軒を連ねる民家の茅葺き屋根に、
イチハツというアヤメに似た花が咲いているのが珍しく、
旅人たちの評判になっていたそうです。
明治の初めには外国人にも知られるようになったというので
遙か昔の事かと思えば、
昭和30年代頃までは神奈川県の観光案内にも紹介されていたといいます。

今年(2008年)は中国の北京でオリンピックが開催されますが、
7年前に開催地に決まったまさにその日、たまたま私は北京にいました。
万里の長城では夜の開催地発表に備えてイベントの準備が進められており、
ホテルに戻ったら従業員がロビーのテレビの前に集まり
発表を今か今かと待っていました。

まだ都心近くでも古い街並みが残っている所がありましたが、
地下鉄建設のために古い城壁が一部壊されたと聞きました。
その時は何だかもったいないような気がしたのですが、
思えば日本も過去に同じ方法で発展してきました。
この旅の出発点である日本橋の上の首都高速が完成したのは
東京オリンピックを控えた1963(昭和38)年です。
程ヶ谷宿元町で民家の茅葺き屋根にイチハツが咲いていたのも
だいたいその頃までというわけです。

日本橋
日本橋の上を首都高速が跨いでいます。

たとえあの時東京でオリンピックが開催されなかったとしても、
首都高速もカラーテレビも新幹線もいつかは実現したでしょう。
しかし、生まれる6年前にオリンピックが開催されたおかげで
私は生まれた時から「何でもある生活」を享受する事ができました。
(携帯電話だけは大人になるまでありませんでしたが)
時代は違いますが、北京の人たちはきっとこれから
そういう恩恵を受けることになるのでしょう。
外国人の私としては「後悔しない再開発ができるといいですね」としか
言いようがありません。

自動販売機で飲み物を買い、デジカメで写真を撮りながら、
遙か500km先を目指して歩くという酔狂な旅の途中で
そんな事を考えました。

2008年5月25日 08:55 | カテゴリー:東海道スタンプラリー