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2008年5月 7日
【三】横浜に呑まれた神奈川 後編
神奈川宿の旅は青木橋に着いたところで一旦帰宅し、
後日そこから再出発しました。
橋の袂に京急の神奈川駅があります。
神奈川駅
京急の公式サイトによると、
この駅舎は清水の舞台をイメージした建物だそうです。
「神奈川宿歴史の道」の道筋に位置しているからだそうです。
でも、どの辺が清水の舞台なのかわからない上に
神奈川宿と清水寺は関係ないと思います。
反対側から見た神奈川駅。
青木橋を渡って反対側から見てみましょう。
清水以前にそもそも舞台になっていない気がします。
電車は800形の各駅停車(たぶん品川行き)です。
電車がいる辺りにかつて国鉄の神奈川駅がありました。
この写真は神奈川駅を出て横浜駅に向かう京急の電車です。
ちょうど今電車がいる辺りに、かつて国鉄の神奈川駅がありました。
1872年に開業した日本最初の鉄道は新橋-横浜間の路線でした。
当時の新橋駅は現在の汐留シオサイトの所にあり、
当時の横浜駅は開港場に程近い現在の桜木町駅でした。
そして、ここ神奈川宿には神奈川駅が設けられました。
後にこの路線が西へ延長され関西の鉄道と接続される時、
海に向かって飛び出した位置にある横浜駅は本線から外れてしまいました。
その後紆余曲折あって、結局1915年に本線上に新しい横浜駅を作り、
それまでの横浜駅を桜木町駅に改名しました。
この新しい横浜駅が1928年に今の位置に移転したら
あまりにも神奈川駅と接近しすぎているということで、
神奈川駅が廃止されました。
現在の横浜駅周辺は、かつての宿場町である神奈川区です。
1858年に日米修好通商条約が締結された時点では、
開港場は神奈川湊になる予定でした。
しかし、実際の開港場は敢えて神奈川を避け、
半農半漁の寒村、横浜村に変更されました。
現在の横浜市中区の辺りです。
横浜市役所も関内駅に近いのだし、
今の横浜駅の位置なら駅名は神奈川の方が自然なわけですが、
どうしても本線上に「横浜」という名の駅を置かねばならなかったのは、
県庁も市役所も抱える近代的な新興都市が
本線上の主要駅というある種の「代表権」を
江戸時代の宿場町に持って行かれてはたまらないと考えたからでしょうか。
さて、続きを歩きましょう。
品川から(実は泉岳寺から)ずっと一緒だった京急とも神奈川でお別れです。
青木橋を渡った先の、ビルの谷間にある細い道が旧東海道です。
青木橋を渡ると正面に三宝寺が見えます。
大きな台に載った驚きの建物です。
よく見ると左下の建物と渡り廊下でつながっています。
画面中央、台の上にあるのが三宝寺。
左下のビルは旧東海道に面しています。
ちゃんと正面に三宝寺と書いてあります。
三宝寺の下にあるビルの旧東海道側。
その隣は大綱金刀比羅神社です。
ここにはかつて江戸から7番目の一里塚がありました。
大綱金刀比羅神社。後ろに三宝寺が見えます。
この先から道は上り坂になります。
広重の絵の場所
歌川広重の「東海道五十三次」では、
神奈川宿の風景としてこの場所が描かれています。
広重の絵では道の左手に茶屋が並び、その裏手はすぐ海になっています。
今更東海道なんて言っても寺社くらいしか残っていないのでしょうが、
品川宿などそれでも雰囲気作りに力を入れています。
お洒落な港町のイメージを大切にする横浜市は、
どうやら古臭い江戸時代の宿場町には興味がないようです。
坂の途中に田中家という料亭があります。
田中家
広重の神奈川宿の絵をよく見ると、
「さくらや」という看板を掲げた旅籠があります。
そのさくらやの現在の姿がこの田中家です。
田中家のウェブサイトを見ると「御利用法」という項目があり、
予約から当日の事まで流れがざっと説明されています。
なかなか興味深いサイトです。
坂を上りきると、右手に神奈川台関門跡の碑があります。
鶴見橋関門とともに横浜警備のために設けられた関門の跡です。
神奈川台関門跡の碑
ここで神奈川宿は終わりです。
横浜ですから江戸時代の宿場町の雰囲気はあまり期待していませんでしたが、
それにしてもほぼ現代の大通りと静かな住宅街に終始した感ありです。
次の保土ヶ谷宿の入り口までは2km程です。
2008年5月 7日 06:20 | カテゴリー:東海道スタンプラリー