2008年4月29日
【二】川崎滑り込み
大森からしばらくは国道15号を歩きます。
戦後間もない1947年、大森区と蒲田区が合併しました。
新しい区名は両方から一字ずつ取って大田区にしたそうです。
だから、大田区内に「大田」という町名はありません。
聞くところによると、太田道灌と関係があると勘違いしている人もいるとか。
(それなら太田区になるはず)
東海道を歩いていると、
京急の梅屋敷駅の辺りで旧大森区から旧蒲田区に入るようです。
梅屋敷駅を過ぎるとすぐに聖蹟蒲田梅屋敷公園があるのですが、
残念ながら時間がないので通過します。
蒲田付近は京急の線路を高架線にする工事が行われています。
以前、京王線の府中付近が高架になった時もその高さに驚きましたが、
こちらの高架橋は2段重ねでもっと高いようです。
やがで道は多摩川に突き当たり、ここを六郷橋で越えます。
江戸時代初期、すなわち徳川家康の命により東海道の整備が行われた頃、
ここに橋が架けられました。
しかし、1688年の洪水で橋が流されると、
以後は明治の初めまで渡船での行き来になりました。
歌川広重の東海道五十三次にも六郷川(多摩川)の渡船が登場します。
六郷橋
明治以降、ここには何回か橋が架けられ、
1984年には現在の六郷橋が一部完成しました。
この橋を渡ると東京都から神奈川県に入ります。
これより神奈川県川崎市。
渡船のモニュメントがあります。
橋を渡りきったところで旧東海道は国道15号とお別れし、
川崎駅の方へ向かいます。
旧東海道が矢印で示されています。
こちらは道路脇に立てられた石柱。
今回は川崎市役所通郵便局で風景印を押してもらいます。
ここは旧東海道に面しているのですが、手前の街路樹に隠れて目立たず、
時間ぎりぎりだというのに見過ごして一旦通り過ぎてしまいました。
川崎市役所通郵便局
川崎市役所通郵便局の風景印
川崎市役所通郵便局の風景印は東京湾アクアライン川崎側入り口です。
川崎市内のかなり多くの郵便局で使われている共通のデザインです。
切手は「東京の四季の花・木II」のツバキです。
川崎市の木がツバキなのでこの切手を選びました。
この日はここで終了。一旦帰宅し、後日続きを歩きました。
旧東海道はJR川崎駅前から延びる「新川通り」と交差します。
この大通りとの交差点に「小土呂橋」と書かれています。
小土呂橋交差点
名前から想像できますが、新川通りの所には以前新川堀という川があり、
東海道は小土呂橋という橋で新川堀を渡っていました。
今は暗渠になっているそうです。
新川通り
小土呂橋を過ぎると間もなく川崎宿を出ます。
暫く進むと、線路脇に松尾芭蕉の句碑があります。
江戸時代の旅は時間がかかる上に危険も多く、
旅立ちは別れを惜しんで送り、無事帰れば喜んで迎え入れたといいます。
1694年、51歳(数え年)になった芭蕉が江戸から西へと旅立つ際には、
門人たちがここまで見送りに来たといいます。
さらに、奥の細道でお供をした河合曽良は、
高齢の芭蕉を気遣い箱根の関まで付いていきます。
松尾芭蕉句碑
麦の穂をたよりにつかむ別れかな
芭蕉はその年の秋に亡くなり、門人たちとはこれが永遠の別れになりました。
八丁畷駅
芭蕉の句碑のすぐ先に八丁畷駅があります。
駅前の踏切を渡って400m程行くと横浜市に入ります。
次は神奈川宿です。
23:28 | カテゴリー:東海道スタンプラリー
2008年4月25日
【一】品川行ったり来たり
高輪大木戸を過ぎた先に泉岳寺があります。
年配の人に「逆ギレ」という言葉を説明する時、私は忠臣蔵を例にします。
まあ、偉そうに説明する私も、逆ギレを「さかぎれ」と読んでしまうのですが。
(だって、その方が日本語として自然じゃん)
中央がJR品川駅。右端が京急品川駅。
暫く行くと品川駅の前に出ます。
ここはまだ港区です。品川区ではありません。ややこしいですね。
ちなみに品川区には目黒駅があります。これも目黒区じゃないんですね。
品川駅の先でJRの線路を跨ぎ、京急の踏切を渡ります。
京急の踏切。ツツジが咲いています。電車は2100形の快特泉岳寺行き。
踏切の先に屋形船の溜まり場があります。
今は埋め立てが進みましたが、江戸時代まで東海道のこの辺りは海沿いで、
品川駅も1872年に開業した時は海辺だったといいます。
歌川広重の浮世絵でも、街道沿いの建物の背後はすぐ海になっています。
船溜まりの屋形船。水路を写真右奥へ進むと天王洲アイルです。
本陣跡は現在「聖蹟公園」という公園になっています。
1868年、京都から江戸へ向かう明治天皇の宿舎にここが使われた事を記念し、
御聖蹟の碑が建てられています。
聖蹟公園にある御聖蹟の碑。
と、ここまで歩いて、どうも様子がおかしい事に気付きました。
よく見ると、私が歩いている道は東海道より1本海寄りの道でした。
京急の踏切の所まで戻ってみると、隣にもう1つ踏切があり、
脇に「従是南 品川宿 地内」と書かれた柱が建っています。
ここが入り口だったんですね。
これがもう一つの踏切。品川宿の入り口を示す柱が建っています。
日本橋から品川宿入り口まで、旧東海道は現在国道の一部になっていますが、
ここから大森までは国道から外れます。
沿道には旧東海道である事を示す標識も建てられています。
旧東海道の標識
暫く行くと、街道沿いは商店街になっています。
結構賑わっているみたいです。
児童公園に凝った滑り台。右は藤棚。
恐らく地元の子供たちの遊び場であろう小さな公園です。
この滑り台、江戸時代の灯台を模した形でしょうか。
右の藤棚も古風な造りです。その下にある背の高い箱も気になります。
また、写真にはありませんが、この公園の入り口には
静岡県のどこかの宿場町から移植したという松の木もあります。
(同様の松はここ以外の公園にもあります)
品川寺山門
青物横丁駅の近くに品川寺(ほんせんじ)、海雲寺があります。
この近辺までが品川宿です。
宿場周辺には古いお寺が多く、見るべき場所はたくさんあります。
しかし、この東海道の旅は物見遊山が目的ではありません。
京都まで歩いて行くのが目的です。
日本橋に続いて品川でも道に迷って時間が無いので先を急ぐ事にします。
東京に住んでいる限り品川は好きな時に来られるからいいでしょう。
品川宿を出て少し歩くと、浜川橋という小さな橋があります。
この先にある鈴ヶ森刑場へ送られる罪人を親族らがここで密かに見送り、
涙を流して別れたという場所で、「涙橋」の別名があります。
現在の橋は1934年に架けられました。結構古いですね。
浜川橋
浜川橋を過ぎた先で重要な事を思い出しましました。
郵便局へ行くのを忘れています。
歩いて戻ると時間的に厳しいのでここは現代人に戻る事にして、
(デジカメで撮影している時点で既に現代人なのですが)
再び浜川橋を渡り、立会川駅から京急で鮫洲駅まで行きました。
ここから大井町の品川郵便局まで歩きます。
街道沿いの郵便局には風景印が無いので、
少し離れたここで風景印を押してもらいます。
品川郵便局
品川郵便局の風景印
品川郵便局の風景印は品川寺の江戸六地蔵、品川神社、大井埠頭です。
1989年から使われている物で、その前は鈴ヶ森遺跡と大井埠頭だったそうです。
切手は旧50円普通切手です。
品川宿の先にある蒲田の梅屋敷に因んでメジロの絵の切手にしました。
再び電車で立会川まで戻り、続きを歩きます。
先程の浜川橋の先に鈴ヶ森刑場跡があります。
1690年にオランダ使節の一員として来日した
ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルの紀行文に次のような記述があります。
品川の手前には刑場があって、
通り過ぎる旅行者はそれを目にしてむかつくような気持ちになる。
(江戸参府旅行日記 ケンペル著 斉藤信訳 東洋文庫)
今も残る火炙りや磔のための柱を立てる台座は通りに面した場所にあり、
ここでの処刑が見せしめのためであった事が伺えます。
ここで旧東海道は再び国道15号線と合流します。
少し歩くとまた別れ、ミハラ通りという細い道になりますが、
やがてまた合流します。
そこから5km程国道を歩くと多摩川です。
多摩川を渡れば川崎です。夕方5時までに着かないとハンコがもらえません。
先を急ぎましょう。
20:48 | カテゴリー:東海道スタンプラリー
2008年4月23日
【振り出し】日本橋迷走
構想二十数年、準備期間約2年という無駄に長い計画期間を経て、
いよいよ東海道の旅が始まります。
まずは日本橋へ。出発点まで電車で移動してしまうところが現代人です。
日本橋駅に着いたのは午前9時40分頃。
昔は「お江戸日本橋七つ立ち」と言って早朝の出発が常識でしたが、
今回はそういうわけにはいきません。
日本橋郵便局で風景印を押してもらう必要があるので、
窓口が開く午前9時より早い出発はできないのです。
まあ、それにしたって
あと1時間くらい早く着いても良さそうなものですけどね。
まずは出発点となる日本橋の確認なのですが、着いた所はなぜか江戸橋。
こんなに近い場所なのにどうして迷うのでしょう。
袂の古いビルを気にしつつ、日本橋の方へ移動します。
これが日本橋。画面奥が京都方面。
初代日本橋は1603年に架けられ、翌年には五街道の起点に定められました。
その後19回の架け替え、修復を経て、1911年に現在の日本橋が完成しました。
橋の中央には日本国道路元標が埋め込まれています。
橋の中央部の路上。手前のセンターラインの所に道路元標が埋め込まれています。
これが道路元標。
橋の袂にあるレプリカ。
日本橋を撮影している間に10時を過ぎてしまいました。
早いところ郵便局へ行って風景印をもらいたいのですが、
日本橋郵便局の場所がわかりません。
地下鉄の駅にある周辺の地図には、単に「郵便局」としか書かれていません。
この周辺には意外と郵便局が多くて、どれが日本橋郵便局やらわかりません。
日本橋の袂の交番で聞けば良かったな、と思いつつさまよっていたら、
ようやく屋上に郵便マークのある大きな建物を発見。
よく見れば、さっき気になった江戸橋の袂にある古いビルの隣です。
大き過ぎて見えなかったみたいです。
手前が日本橋郵便局。
ちなみに後で調べたら、この古いビルは三菱倉庫の本社でした。
1930年竣工で、2011年までに建て替える計画があるとか。
日本橋郵便局の風景印は日本橋と前島密の胸像です。
切手は「東京の四季の花・木II」の菊です。
ここは皇居に近いのでこの切手を選びました。
日本橋郵便局の風景印。
風景印をもらって再び日本橋まで戻ると既に10時40分。
やれやれ、何とも先が思いやられますが、これでいよいよ出発です。
とっとと京都目指して歩き始めましょう。
ハナカイドウがさいています。後ろのビルは1930年竣工の野村證券本店。
日本橋の袂にあります。
東京駅の前を通り抜け、京橋、銀座、新橋、浜松町と
私にとってお馴染みの地名が続きます。
増上寺へと続く大門交差点で東京タワーが見えました。
大門交差点から見た東京タワー。
この東京タワーも不思議な建物です。
高さは332.6m。
日本一高いビルである横浜ランドマークタワーの高さが295.8mですから、
東京タワーは周辺のどのビルよりも高いはずです。
ところが、先日皇居前から東京タワー目指して歩いてみたら、
この東京で一番高いはずの建物を、あろう事か途中で見失ってしまいました。
こんなに大きな物が近くにあるのに見えないなんて、
何だかおもしろいですね。
金杉橋
大門から少し歩くと金杉橋があります。
ここは永代橋と共に島送りの舟が出る場所でした。
一応、永代橋から舟に乗るのは二度と戻って来られない者で、
この金杉橋から乗る者は戻れるあてがあるという事になっていますが、
実際はそのような決まりがあったわけではないそうです。
かつてはここまでが江戸市中とされていました。
というわけで、私もいよいよ江戸を離れます。
(舟には乗りません)
高輪大木戸跡
さらに30分程歩くと、高輪大木戸跡があります。
江戸府内の入り口に治安維持と交通規制を目的として設けられた木戸も、
江戸時代後期には廃止されていたそうです。
今は片側の石垣が残るのみです。
時間はちょうど正午。これでいよいよ江戸ともお別れ‥‥って、
日本橋から一体何回の「いよいよ」があったんでしょうね。
さて、今日はどこまで行けるでしょうか。
06:54 | カテゴリー:東海道スタンプラリー
2008年4月18日
凝り過ぎ
2月21日の「思いは遙か東海道」で発表したとおり
東海道を旅して風景印を集めることにしました。
私は東京在住なので日本橋から歩き始めます。
出発点の近くには日本橋郵便局があります。
最初の宿場町品川は、かつての宿場の周辺に風景印のある郵便局がないので、
少し街道から外れますが大井町の品川郵便局まで行くことにしました。
次の川崎は、街道沿いの川崎市役所通郵便局に風景印があります。
その次の神奈川は、横浜西神奈川郵便局です。
以上、日本橋以外は事前に宿場周辺の郵便局を回って確認しました。
風景印は、切手さえ貼ってあれば大抵どんな紙にでも押してくれます。
しかし、ここはひとつ東海道の旅にふさわしい物をと思い、
歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の絵はがきを用意しました。
東京国立博物館のミュージアムショップで売っている55枚セットは
そのままプレゼントにも使えるような立派な化粧箱入りです。
完成したらいい記念になるでしょう。
そこまでするなら切手にも凝りたいところです。
東海道五十三次の切手と言えば、国際文通週間。
毎年秋に発行されるこの記念切手には、
よく歌川広重の東海道五十三次が使われます。
しかし、なぜかこの切手の額面は高額です。
まあ、高いと言っても近年の物で110円から130円ですが、
全部で55枚必要ですから、全て50円切手にした場合との差額は
最終的には3000円以上になります。
また、一度に全ての宿場の絵柄が発行されるわけでもありませんから、
揃えるなら古い切手を探して買い集めることになります。
今までに全ての宿場が発行されたかどうか知りませんが、
あまり古い時代の切手は高価な上に探すのも大変です。
例えば、ウェブで通販をやっているあるお店で調べたところ、
1962年発行の日本橋が580円、1961年の箱根が790円、
1959年の桑名が980円、
1960年発行の蒲原に至っては1600円でした。
それなら、五十三次でなくてもいいから、
その土地と関連の深い絵柄の物を探してみましょう。
手っ取り早いのは「ふるさと切手」です。
地域限定の切手ですが、東京中央郵便局などでも手に入ります。
記念切手や特殊切手の多くは額面が80円ですが、
ふるさと切手は額面50円のものも少なくありません。
風景印は最低50円の切手が貼ってあれば押してもらえるので好都合です。
ところが、東海道の宿場の4割を抱える静岡県の切手が、
調べてみると意外に少ないのです。
そこで、宿場町の自治体が市町村の花や木に指定している植物を調べ、
他の地域のふるさと切手に該当する物があれば使うことにしました。
例えば、原宿がある沼津市の花はハマユウですが、
「東京の四季の花・木VI」という4枚組のふるさと切手にハマユウがあるので
これが使えます。
(ちなみに沼津宿は別の切手を用意しました)
東京のふるさと切手は種類が多く、神奈川県の宿場でも、
川崎(市の木・ツバキ)と戸塚(横浜市戸塚区の花・サクラ)で使います。
ところで、宿場にちなんだ50円切手を55種類も集められるのでしょうか。
50円切手は2007年度に23種類、2006年度には32種類も発行されています。
もちろん、2008年度も記念切手やふるさと切手の発行が予定されています。
その中に50円切手がどのくらいあるのかわかりませんが、
私が東海道を歩いている間にも発行されるでしょう。
東京中央郵便局では在庫がある限り過去の切手も販売されています。
人気の高いふるさと切手は再発行されることもあります。
郵便局で手に入らない過去の切手は、額面より若干高い程度なら
コレクター向けの専門店で買ってもいいでしょう。
どうしても宿場町にふさわしい切手が無かったら、
ちょうどその宿場に着いた頃に発行された切手でもいいでしょう。
それも無ければ、もう50円切手なら何でもいいです。
折しも昨年10月1日、郵政民営化と同時に新しい50円普通切手が発売されました。
今までの50円切手も在庫がある限り販売されますし、
慶事用50円切手も加えれば、これだけでもう3種類です。
(さすがに弔事用50円切手を使うのは気が引けますが)
手前は品川宿の絵はがき。左上は五十三次の絵はがきが入っている箱。
中央のふるさと切手は小田原城、河津桜、東京の四季の花。
と、そんな事をやってもたもたしていたら、
「今年はいよいよ東海道を歩く」と宣言してから2箇月も経ってしまいました。
ようやく日本橋から箱根の先あたりまでの切手を集めて、
ついに今日出発‥‥のはずだったのですが、悪天候のため延期。
やれやれ、こんな調子で果たして京都まで行けるのでしょうか。
21:22 | カテゴリー:東海道スタンプラリー
2008年4月 3日
寝台特急さくら
私が住む東京の外れでも桜が咲いたのを見て、
かつてJRに「さくら」という名前の列車があったのを思い出しました。
1991年の夏、私は友達と高知県へ遊びに行ったのですが、
仕事の都合で先に1人で帰ることになりました。
仲間と別れて高知県の中村駅から特急に乗ると、
瀬戸大橋の手前、香川県の坂出駅で、
東京行きの寝台特急「瀬戸」に乗り継ぐ事ができます。
ところが、この旅行の話が出たのが1週間前。
夏休み真っ最中のこの時期、既に瀬戸は満席でした。
仲間たちは往復とも青春18きっぷなので、
指定席の予約は気にしていなかったのです。
そこで、坂出駅で岡山行きのマリンライナーに乗り換えて、
九州方面から来る東京行きの寝台特急に乗る事にしました。
しかし、あさかぜ2号(下関発)、あさかぜ4号(博多発)、富士(南宮崎発)、
はやぶさ(西鹿児島発)、みずほ(熊本・長崎発)いずれも満席。
最後に東京に着くさくら(長崎・佐世保発)だけ空席がありました。
とにかくこれに乗らないと帰れないので切符は買ったものの、
この列車は岡山に止まらないので、広島から乗ることになりました。
中村駅まで仲間が見送りに来てくれました。
ここから1人で高松行きの特急「しまんと」に乗ります。
前方が見渡せる一番前の席が空いていたのでそこに陣取りました。
中村を出る時はがらがらだった車内も次第に混んできました。
中村発高松行き特急「しまんと」
坂出駅で下車。
マリンライナーを待っていたら、高松発東京行きの瀬戸が来ました。
満席で乗れなかった列車です。
岡山から乗った夜の新幹線もがらがらでした。
退屈なので、車内の公衆電話から電話をかけました。
(まだ携帯電話が普及していなかった時代です)
相手は体調不良のため今回の旅行に参加できなかった友人です。
岡山から乗った新幹線は、確か広島まで行ける最終列車でした。
それでも、広島駅で東京行きの「みずほ」を見ることができました。
「さくら」の1本前を走ります。これも満席で乗れなかった列車です。
しかも、「さくら」は14両編成なのに「みずほ」は10両編成。
どうしてこっちを14両にしてくれないんでしょう。
広島駅に停車中の寝台特急「みずほ」
「さくら」が広島を出るのは午前0時10分。
乗り込んだら、案の定周りの人々はみんな寝ていました。
私も買っておいた夜食を食べてとっとと寝ます。
1979年夏、母が豊橋から東京までブルートレインに乗せてくれると言いました。
豊橋に止まる列車は「さくら」と「銀河」だけでした。
できれば特急の「さくら」に乗りたかったのですが、豊橋を通るのは朝7時台。
夜が明けてからの乗車ではつまらないので、
夜中の3時過ぎに豊橋を通る急行「銀河」に乗ることにしました。
そんな時間に乗り降りできる寝台列車があったとは今考えるとすごいのですが、
昔はそんな需要もあったのかもしれません。
さて、12年前に乗れなかった「さくら」のベッドの中で豊橋を通り過ぎ、
次の浜松を過ぎた辺りで食堂車へ行きました。
和洋2種類の定食があるので洋食を注文したら、
フライドエッグとスクランブルエッグどちらがいいかと聞かれました。
私はフライドエッグが何だか知らなかったのでスクランブルにしました。
ぼーっと外を見ながら食べて、静岡を過ぎる辺りまでいたでしょうか。
食後は退屈なので、また車内の公衆電話から友人に電話。
今度は、丁度今列車が走っている静岡県に住んでいたことがある友人です。
その後は、通路の折りたたみ椅子に座って外を眺め、
横浜駅で列車を降りました。
横浜駅を発車する寝台特急「さくら」
横浜駅での寝台特急の乗り降りはその時だけです。
その「さくら」から降りた横浜駅7番乗り場で、
16年半後、今度は「銀河」の最終列車を撮影しました。
どうも私の趣味活動では「さくら」と「銀河」が微妙につながっています。
2005年に「さくら」が廃止される時は見に行けなかったんですけどね。
あの時寝台券が取れなかった列車の多くは後に廃止されました。
今は「瀬戸」が「サンライズ瀬戸」になり、
「富士」と「はやぶさ」が1本にまとめられて残っているだけです。
飛行機のディスカウントチケットが無かった時代、
人々は、設備が古くても相対的に料金が安い寝台特急に喜んで乗っていました。
やっぱり、今の寝台特急は料金が高すぎるんですよ。